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熊五郎と俺 〜Love Letter〜



12月5日。
前週に雌鹿を解体した場所を見にいくが
熊五郎の痕跡はなく、落胆のまま下山。
まだ寝ていない、と信じたい。

12月6日。
朝一番で、雪の上に熊五郎の足跡を見つける。
なかなか新しい。
トラッキングを開始すると、
前日の夕方、ガッカリしながら足を引き摺って歩いていた
私の足跡と逆行するように熊五郎が林道を登っていた。
昨晩遅く、あるいは夜明け前くらいにつけた足跡だろう。



更に登っていくと、鹿に鳴かれた。
ということは、すぐそばには熊はいない、ということか。
もし、近くにいたとしても、
鹿に気付かれているようでは
熊五郎にはとっくにバレているのだろうな、と
走っていく雌鹿の後ろ姿を見ながら考えていた。

つづら折りの道を駆け上がっていた鹿が
最初のカーブを曲がって、不意に止まった。
少し遠くはあるが、射程距離だ。
なぜ、あそこで鹿は止まってくれたのだろう。
今日はこの鹿を持って帰りなさい、と
山の神が言っているのだろうか。
撃つ、と決めた。

ゆっくりと銃を構える。
ここまで音を立てないように細心の注意を払ってきたが
撃鉄を落とした瞬間、轟音が山中に響き渡る。
鹿が走り去る音はしない。
下からは見えないが、
きっと静かに横たわっているのだろう。



汗をかかないペースでゆっくりと斜面を登ると
やはりそこには鹿が倒れていた。
さて、どこで解体したものか。
私は吊り解体が好きだ。
肉に毛がつかず、血の抜けも良くなり、
寝かせ解体に比べ、仕上がりが断然違う。
しかし、辺りは背の高いトドマツばかりで、
鹿を吊るすのに丁度良い高さと太さの横枝がない。
林道を下り、一番下まで行けば
枝振りの良い広葉樹はたくさんある。
鹿を山裾まで降ろして、解体することにした。

内臓を出せば軽くはなるが、
その状態で引き摺れば腹腔内が汚れる。
首の根元にナイフを入れて血抜きだけした後、
鹿の前脚にロープをかけ、それを腰に巻き、
歩き始めた。

ロープの長さは2m程が良い。
短過ぎると引っ張る力が前方向ではなく
斜め上に働いてしまうし、
長過ぎるとカーブを曲がる時や
木を躱す時にコントロールが効きにくい。

昔の林業の作業道を進むが、障害も多い。
特に厄介なのが、雨が作った深い溝だ。
鹿が嵌まり込むと、引っ張り上げるのに苦労する。
下りの傾斜を利用して、
自分が溝を飛び越えたと同時に前傾して足を踏ん張ると
勢いで鹿も溝を乗り越える。
そうやっていくつかの溝を越え、
だんだんコツを掴んできたな、と思ったその時、
決定的なミスを犯した。



道自体が谷側に傾いている場所で
無理矢理に溝を越えた瞬間、
鹿が作業道を外れて斜面に転げ落ちたのだ。
若そうなメスとはいえ、80kgくらいはあるだろう。
強い衝撃に足を取られ、体が浮いた。
このまま鹿と共に急な斜面を落ちていくのか。

しかし幸運なことに、
私と鹿の間には木が立っていた。
幹を挟んで、斜面の上側に鹿、下側に私。
アメリカンクラッカーの二つの玉のように
木を支点に鹿と私は振り分けられ、ぶら下がっていた。
もしこの木がなかったら。
もし林道の下が絶壁だったら。
想像しただけで鳥肌が立つ。
私はまた、命拾いをしたのだ。

その時、私は完全に頭を下にして、逆さ吊りの状態だった。
ロープが腰に深く食い込み、
全身の体重がそこにかかって苦しい。
肩にかけていた銃は、銃口が下になり、
先端が泥に突き刺さっていた。

斜面の下を見ると、傾斜はそれほどでもない。
落ちたとしても、数メートル転がるくらいだろう。
身を捩りながら、ロープから体を抜くことにするが
全く思うようにいかない。
まずは、バックパックの腰ベルトを外す。
腕を万歳すると、肩からザックが抜け
転がり落ちていった。
そしてパンツを脱ぐように、
少しずつ腰のロープを足のほうにずらしていく。
ポケットに入れた双眼鏡など、
いろいろなものが引っかかり、なかなか進まない。

この状態で、腹を空かせた熊が来たら
どうなってしまうのだろうか、と考える。
熊は、鹿と人間とどちらから食べようとするだろう。
抵抗するにしても、腕を振り回すくらいが関の山だ。
罠にかかり、ナイフを持った人間が近づいて来る時の
鹿の恐怖を想像する。
今まで何十頭もの獲物を撃ってきたが
ここまで殺される側の気持ちに立ったことはなかった。

何分もかけてロープを下げていく。
腰の部分が抜け、膝まできて、
まずは右足を抜く。
きっと、一気に体が落ちて
左足首に全体重がかかるに違いない。
捻挫や骨折の可能性が頭をよぎる。
2年前の、右ふくらはぎの断絶が思い出される。
しかしいつまでも逆さ吊りになっているわけにもいかない。
意を決して右足を抜くと、
弾みで左足も抜けて、頭から落ちた。
両手首を少し擦りむいたくらいで、怪我はなかった。




倒木に引っかかっていた鹿を引っ張り出す。
ザックと銃を背負い直す。
鹿を再び作業道に上げることはできない。
急斜面を、鹿を転がしながら
私も半ば滑り降りていく。

途中でまた熊五郎の足跡があった。
急なところでは、尻で滑った跡もある。
鹿は急斜面でも尻で滑って降りたりはしない。
熊ならではの、大胆で横着な降り方だ。
熊五郎の足跡の筋と平行に進むように
鹿と私も坂を下る。

何度も木に引っかかる鹿を
その度に外しながら斜面を一番下まで降りて
ようやく林道に出た。
解体するために鹿を吊る木を探していると、
林道を横切る熊五郎の足跡が乱れているのに気づいた。


一箇所だけ、1.2メートルほど、
足跡の間隔が大きく空いているのだ。
ジャンプしたか、一瞬だけ走った、ということだろうか。
だとしたら、何が熊五郎を走らせたのか。
銃声か、或いは鹿と一緒に斜面に落ちたときの物音か。
私はどこまで熊五郎に接近できていたのだろう。
その後、熊五郎の足跡は川を渡り、禁猟区へと入っていっていた。




鹿を枝に吊り下げ、丁寧に解体していく。
一度車に戻り、橇を持ってきた。
四本の脚、ロース、ヒレ、レバーにハツ、タン。
ほぼ全ての可食部を車まで運び終わり、
時間はまだ午前中だった。


熊五郎が初めて固定カメラに写ったのは、
鹿を撃って解体したその日の夜だった。
もし熊五郎が腹を空かせていて
鹿が食べたくてたまらなかったら、
もっと早く食べに来ることはないだろうか。
明るい内はどこかに身を潜め、
暗くなると同時に現れて残滓を漁るのではないか。
私も一度、ちゃんとその場を離れて気配を消し、
日没直前に再びそっと覗いてみたい。
これが本当に最後のチャンスになるかもしれない。
そこに賭けたい、と思った。

しかし、問題があった。
銃口の先端に泥が詰まってしまっている。
ボルトを外して筒を覗いても真っ暗だ。
銃口が詰まったまま発砲すれば、暴発事故は必至だ。
銃の手入れ道具は自宅だ。
往復すれば日没には間に合いそうにない。
結局、一番近くの街に出て、
ホームセンターで買えるもので
できる限りの処置をすることとした。

ホームセンターまでは片道1時間弱。
防錆潤滑オイルスプレー、キッチンペーパー、
そして突っ張り棒を購入した。
銃身の内側にオイルを吹き付け、
キッチンペーパーを丸めて根本から入れて
突っ張り棒で先端側に押していく。
何度も繰り返すと、銃身はピカピカになった。
これで一応は大丈夫だろう。

車内で朝買ったおにぎりを頬張りながら、
トンボ返りで猟場に戻る。
朝には、鹿と一緒に斜面に落ちて危うい目に遭ったばかりなのに
午後にはもういそいそと熊を狙いにいっている。
我ながら、懲りないというか、甚だ呆れたものである。

駐車スペースに車を停める。
猟場から十分距離は離れているが
足音を立てないようにそっと車から降り、
ドアもバタンとは閉めない。
細心の注意を払いながらゲートをくぐり、
呼吸音さえしないようにゆっくりと息をしながら
静かに歩いていく。
が、解体現場には熊五郎が戻った形跡は見られなかった。
固定カメラを足跡の筋に仕掛け、帰路についた。



その翌週、翌々週。
週末の度に同じ場所に通った。
雪はどんどん深くなり、
スノーシューでも厳しい。
最後はゾンメルスキーで歩いた。
熊五郎の新しい足跡は見つからず、
固定カメラに写っているのは鹿と狐ばかりであった。

私の中で、ようやく踏ん切りがついた。
熊五郎は、きっと眠りについた。
今年の熊猟は、もう、終わりだ。



思えば、前猟期が終わり、
春の山菜採りから、夏の渓流釣り、秋のキノコ採りも、
この山域を知ろうとずっとここを歩き続けた。
そして、母子三頭のヒグマを仕留めることができた。
熊五郎には、結局会うことができなかったが、
彼を追い続けた日々は
この上なく楽しく、刺激的だった。
熊五郎の気持ちになって、
その痕跡を辿る。
一瞬一瞬に本気で喜び、悔しがり、驚き、
全てが光り輝いている、
私の人生にとってかけがえの無い時間だった。
獲れなくても、ひたすら熊五郎を狙ったことには
一片の悔いもない。

山の中で、どれだけ熊が人間より優位に立っているか。
改めて思い知らされる結果となった。
しかし、その強さと美しさを手中にしたい、
肉を食べたい、という欲求を抑えることはできない。
無論、死ぬつもりも、
無茶な危険をおかすつもりも毛頭ないが
万が一の可能性が常に存在するのも確かだ。

だから念の為、此処に記しておく。



もし私がヒグマにやられたら。
可能な限りその熊はそっとしておいてほしい。
私はその中で生き続けているのだから。

もしどうしても駆除しなくてはならないのなら。
きちんと解体し、
その肉を皆で食べてほしい。
私は皆の中で生き続けるから。



〜〜〜
熊五郎よ。

最高に濃密な時間を、ありがとうな。

この冬は、俺の負けだわ。
でもいつの日か、お前に会う時が来ると信じてる。
その時は、お前と俺のどちらかが
命を落とすことになるかもしれないな。

分厚い雪の下で、春までぐっすり寝ろよ。

俺もようやく、ひと息つけるわ。
早起きばっかりだったけど、
しばらくは朝寝坊させてもらおうかな。
たまには夢に出てきてくれよ。

そしてお前も、いい夢を。
〜〜〜

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