錯乱している間に世界が変わっていた話

私が急性症状で意識を失っていたのは丁度三月下旬~四月上旬の元号発表前後でした。
運び込まれる前にウィキペディアで延々元号改正および生前御退位の手順を見ていたので発表をリアルタイムで見るのがめちゃくちゃ楽しみだったんですが、それも叶わないことになりました。全てわたしが悪い。

精神病院の閉鎖病棟(感染予防目的ではない隔離と外出禁止)かつ面会もドクターストップかかってたくらいなので相当な暴れっぷりだったようです。他人事ぽく書いてますが、本当に記憶、というかその時のエピソードについて、未だに現実と幻覚の区別ができてないのでここに書けないんですよね……。記憶追い過ぎてまた再発しても嫌なので……。

それは追々書いてくとして、四月の中旬に一時帰宅した時に初めて「wowakaさんが亡くなった」ことを知ったんですよね。泣きました。久しぶりに獣のような怯える泣き方じゃなくて、喪失による悲しみに泣きました。実在する、同じ時空に生きている方が亡くなってしまった。
今まで離れて暮らしてた親類の死とかは経験してきているのですが、自分を構成するパーツがごっそりと削げてしまったような感覚は初めてでした。
向こうはあなたの事を知らないよ、と言われても、こっちは向こうを知っている。あの人が作る音楽を知っている。この世に音楽は無数にあるだろうけどwowakaさんが作る音楽はwowakaさんにしか作れない。
それと「聴いている音楽」が自分を構成するのに結構な割合だったことにも驚きました。
一番参っていた時期にも聴きに聴いていたアーティストが亡くなってしまった。
そういう時に聴いていた音楽って自分の中ではトラウマとセット化して聴かなくなることもあるんですが、ヒトリエに関してはそういう現象が起きなかった。そのくらいずーっと聴いていたんですよね。

それが、人はいつか死ぬって当たり前の悲しみと共に突きつけられてしまった。

私の方は隔離病室で気が付いて「これが死後?」という幻覚に囚われていたので(これは追々書きます)奇妙な一致というかこれは何の確率だ???という困惑もありました。
ただそれら、オールひっくるめて「ツッラ……」としか表現できないボキャ貧っぷりも含めて泣けてきました。生と死ってそんなもんじゃないだろうよ。
正直、彼の生についてまだ諦めがつかないんですよ。「まだ生きてるんじゃないの?」と認めきれない自分がいる。私は文章が少ない表現手段なのでとりあえず言葉を尽くして悼むしかないんですけど、感情を絞っても絞っても延々出てくる。感情が尽きることってあるんだろうか。
テレビに出てくる芸能人でも「本当にいるんですね」と言われる人って結構いるらしいんですけど、それと同じくらい「本当に亡くなってしまったのか?」と疑問を持っている。確信がないし、ネットニュースに取り上げられるに至った米津玄師さんのメッセージも恐くてまだ見れてないんですよね。(公式ページの発表とメンバーの追悼文はなんとか見た)

ツイッター通じて知り合った方もですが、ネットを中心に活躍している方ってヴァーチャル感が凄くて、「何処かには居るんだろうなぁ、でも実感湧かないなあ」みたいな感じがあって、wowakaさんもそういう存在のひとりでした。でもコンテンツじゃないんですよね。今やコンテンツも「死」を迎える時世ですけど、私は確かにライブで汗のにおいを、肋骨に響いてくる爆音を浴びて、それを覚えています。
急死だったこともあって「死ぬって何」という子供みたいな疑問がまだあります。

で、私の手元には奇しくも地元公演の未使用チケットが手元に残りました。生身のwowakaさんが立った本当のラストステージだった、それに私は行けなかった。
これ多分一生悔やむんだろうなと思います。
今日ニコニコ生放送で追悼ライブの再放送をやるそうです。もちろん観るつもりです。本来私は生放送中は病院だったので観れる筈なかったんです。再放送は予定になかったそうです。
観たら信じられるかな。歌を聴いている間はまだ信じられそうにありません。

「令和がきれい」と言える感覚を持っている人がいなくなったのは世界にとって損失だよ。

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