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人間関係における卒業。

日々、友達に癒され、元気付けられ、どうにかこうにか生きているへじんですが、そうやって支えてもらってる友達は時と共に変わっています。

それは自身の環境の変化と共に、たまたま関わるのが難しくなったり、またはよく関わったりすることで起きる変化なので、それほど否定的なものではないです。

あまり関わらなくなってしまった友人にも、また新しく関わる人ができて、そう変わっていくのです。

ただそのお互いの環境が変わることは、それぞれの思考も影響されることでして。

久しぶりに中高の時仲良くしてた友達に会った時、すごく悲しかったです。

基本的に自分が好きになる人は、尊敬できる人なのですが、私が尊敬していたその友人の素敵な部分は見当たらなくなってしまって、それが悲しくって哀しくって。

「会わなければ良かった」、とその日の帰り道で思ってしまいました。

そしてそう思ってしまう自分がどうにも嫌で、苦しくなりました。

本当は中高の時もその一面があったのに、自分が盲目で見えてなかったのかな?

もしくは変わった自分が、それをもう受け入れることができなくなってしまったのかな?

どうにか自分の中の悲しさを納得させようと、色々問いがポンポン自分の中に溢れたけど、でも根本的に、その人とはもう会いたいとは思えない。

あんなに楽しい時間を過ごしてたのに、もうそれを過ごせない。

それはどうしても変えられない。

もう仲良くできないことが悲しくって、けど別に自分が無理して付き合いたいわけでもないし、それに今ある新たな(?)環境は幸せなのに、ずっとモヤモヤしてて。けど最近それがとある言葉で落ち着かすことができて。

卒業、だなと。

例えば高校の卒業式。
もう皆んなと学校に通うことはできないし、一緒に授業を受けることはできない。それが凄く悲しくって切なくってどうも心は落ち着かないし、涙も出てしまう。
けど別に大学という新しい環境に行くことには楽しさも嬉しさもワクワクもある。

人との関係性においても、この「卒業」はあるのだと。

学校のように明確な区切りがあるわけではなく、振り返った時にそれが卒業を迎えなきゃと気づかせることだけど。

卒業後のお互いの道を応援しつつ、過去の楽しい思い出に感謝して、今はまたそれぞれの環境で変わっていくのだと。

結局尊敬できなくなってしまったのも、私の軸でしか語れるものでしかなく、他者を自分の物差しで判断し切ることはできないから。

けど今でも振り返っては悲しくなっちゃう。
し、今の環境もいつか卒業するんだと思うと不安になる。

けどそれが変化だし、成長かなと。

卒業して、また新たな環境に足を踏み込んで、その新たな環境からもいつかは卒業しなきゃで、それを繰り返さないといけないこと。

そうじゃないと成長なんてできない。

ずっと変わらないことはできないし、それはある種不自然なことだし。

そう、22歳のへじんは思ったのでした。

おわり。


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