普通の人の、普通の関わり方。それがわからない。

小さい頃からいじめられがちだった。

韓国の幼稚園にいた時は両親がいないから。
日本の幼稚園にいた時は日本語ができなかったから。
小学校に行った時はいわゆるKYだったから。
中学に行ってからは韓国人だったからか、日本の普通がわからなかったから。
ドイツに留学した時はアジア人だったから。

新しい環境に溶け込もうとすると、そこの普通がわからなかったり、どうしてもそのコミュニティのマジョリティではない特徴を持っていたりして、よくいじめられていた。初めの一歩はいじめから。それが大学に入るまでの当たり前だった。

だからと言って一匹狼になれるような性格ではなかったし、他の人たちみたいにケラケラと笑いながら時間を過ごせる友達は欲しかった。

いや、もしくはいじめられっ子だったからか、人に対する執着がすごいだけかもしれない。

そんな私が生き残るために、いじめられっ子という最低のカーストから脱出する方法はたった一つしかなく、「いじめ」を「いじり」にして、お笑いとしてかわすことだった。

だから私はいじられキャラを演じた。

男子からのいじりに一緒に笑い、モンスターと言われよう、ブスと言われよう、お前は女じゃねーって言葉にもとことん付き合った。
ここには書けないくらい、より辛い言葉にももちろん付き合った。

他の方法があったかもしれない。けど当時の私はそれが思いつく限りだった。
どちらにしろ、戦略は正しかったらしい。友達は増えてったし、いじめはいじりになった。

その結果、私が生きていくために学んだことはプライドを捨てることだった。

自分のプライドを守っていては、誰とも仲良くなれない。自分の素を先に見せて接しやすいと思ってもらおう。必要ならとことん低い姿勢になって皆で仲良くしよう。実はあまり心からは笑えないけど、それで友達が楽しんでくれるなら。仲良くなれるなら。友達になれるなら。友達で居続けれるなら。それでいい。

実はあまり笑えない時もあった。
度が過ぎるようないじりも一緒に笑ったけど、耐えられない時は「ちょっとトイレ」と言って、廊下で泣いた。今でも思い出してしまった時は心がぎゅっとなる。

度の過ぎた侮辱も笑って受け入れる。それぐらい「友達」に執着する。

絡まり始めた。

ドイツ留学から帰ってきて、サッカー部に入った。そして既にいたマネージャーとうまくいかなかった。彼女は彼女のやり方に固執したし、彼女のプライベートの感情で私に対しての態度を変えた。プレイヤーや他の友達の前では普通だけど、2人っきりになると見たこともない表情と言葉をぶつけられた。それでも仲良くなりたかった。同じ部活だし、一緒に笑って過ごしたい。自分がもっと頑張ればいいかなと、朝練は本当に誰よりも早く行ったし、彼女のやり方に合わせようともした。人の考え方が異なるのは当たり前だし、コミュニケーションを取ればいいと思ったから、何度も会話を試みた。それでも無理だった。

寝れない日や胸が苦しくって息がしにくいような感覚になるような日がずっと続き、最後には髪が抜け始め円形脱毛ができた時、これ以上だと死ぬかもしれないと思って、そこでやっとサッカー部を辞めた。

低姿勢になっても全然うまく行かない。
はじめての経験だった。
けどそれでも性格を変えることはなかった。


大学生になって初めて恋人ができた。アートの話がきっかけで仲良くなって、あれこれいろんな話をしながら歩いていたらいつのまにか朝を迎えて、昼過ぎまで寝て過ごすのが大半だった。2人の共通言語は増え、お互いやりたいと思うものが多かったからか、互いが相談相手でもあり、互いが一番の応援者だった。元々他者に対して心を開けづらい彼は、私には素の姿を見せるようになった。そしてそれは時折度を超えた。それでも私は受け入れた。だっていつもの当たり前のこと。それにその度を超えることさえも心を開いてる証拠だし、大切に思って頼ってるからこそしてしまうと思った。もちろん傷つくけど、彼は今心に余裕がないんだ、彼は今自分自身が嫌だから私に当たってるのだと思った。また本人もそうであると、だからごめんと喧嘩が終わった時には言っていた。それは今でも嘘ではないと思う。ただ今思えば、受け入れてはダメだったのかもしれない。

線を越えることはどんどん増えて行ったし、その度合いもどんどん強くなった。心はどんどん弱くなったし、それ以上にかすかにあった自尊心も失った。言われてきた怖い言葉は、嘘だとわかっても、一時の感情によるものだと、論理的でないと頭ではわかっていても、心と体にこびりついて、正常な判断ができなくなった。

ずっと付き合ってと別れてを繰り返してきた。そして最近、一番苦しい形で別れた。苦しい時もあったけど、すごく素敵なところもあったし、心から大切に思っていたことは本当だったから、そんな人を失うのは辛いけど、それ以上にその関係性によって生まれた副作用が、別れてもなお自分を苦しめている。


事後報告として、家に篭り続けていた私を心配していた友達に今までを話していたら、友達に言われた。

「もっと自分を大切にして」

そんなのわからない。だって今まで自分を大切にして友達を作った経験があまりにもない。自己犠牲は当たり前、自分が傷つくのは当たり前。

なんなら時折、なんでそんなことするのと聞かれることさえある。人が私に対して行っていて、私は受け入れてきたことを他者に求めたら拒絶される。その度に困惑してきた。私にとっては当たり前なのに、なんでダメなのかなって。だから人と接する時に、不本意に傷つけないか不安になる時があって、それが空回って変な行動を取ってしまうことさえある。

普通の人の普通の関わり方がわからない。

どうやって自尊心を育てるのかわからない。

どこまで許して、どこまで拒否していいのかわからない。

他者のためならダメって言えるけど、自分のことだと一つも言えなくなる。いや、わからなくなる。


高校生の時、どんどん精神的苦痛が身体の苦痛に変わっていき保健室に通い、それを顧問の先生が知った時、先生は身体的暴力は振るわれていないよね?と強く確認した。もちろん殴られたわけではないので否定したが、言葉の暴力が、身体に対する暴力より時には辛いことを、だからもっと手助けが必要なことを今なら言いたい。

蹴られたり、ビンタをされたり、押し倒されても正直全然痛くない。この痛さの方がマシだと思った。
自分で自分のことを傷つけてる時でさえ、心の中で膿んで腐って爛れたものより全然痛くないし、もはやそれを少しでも外に出してる気持ちだった。


けど、私以外がここまでなって欲しいとは思わない。こんなにわからなくなる前に、こんなに迷う前に、こんなに傷ついて苦しむ前に、気づいて知って変えて欲しい。小学生なら、中学生なら、高校生なら、まだ間に合うんじゃないかなと思う。

私がこうなった始まりなんて、「友達が欲しい」そんな小さくも当たり前で、子どもの気持ち。

それが21歳になっても自尊心がわからなくって、普通の友達の付き合い方がわからなくって、初めからやり直さなきゃみたいになるなんて、多分誰も思わなかった。

そこの笑ってるいじられっ子は、それ以外の方法で人との付き合い方がわからないかもしれない。

ひどい言動をされても笑ってる子がいたら、声をかけてほしい。本当に楽しいのかと。少しでも不安な思いをしていないのかと。

言葉の暴力にもっと気づけるようになって欲しい。身体への暴力は目に見えるから治せるけど、心の傷は治ることなくどんどん酷くなってしまう。



どう締めくくればいいかわからないけど
自分のことを大切にするが全然できないからすごく図々しいけど、他の人は大切にできますようにと、そうなれるよう周りが気づけますようにと、想いを込めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?