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普通の箱から飛び出そう:個性と異質さの受け入れ

皆さんこんにちは、Hyko/ヒコです。

学生の頃、家で親に「それだと立派な大人になれないよ」と言われたり、社会人になって会社の上司に「なんでそんなこともできないの?」と言われたり、逆に、「なんであの人あんなことをするんだろ。普通は〇〇でしょ!!」と思ったり。

皆さんもこのような体験をしたことがあるのではないでしょうか。

この考え方ってどこから来るのでしょうか?

自分の思考や行動が他人と比べて違っていることはダメなのでしょうか?

この世の中に自分と全く同じ思考や行動を取る人なんて存在しません。

僕たち人間は価値観や思考が違うからこそ、新しい感情や考えが生まれ成長できるのではないでしょうか。

だから、そこから学べることが多いのだと思います。

自分と違うものは全て悪。違いを受け入れられないということは、人間としての自分の可能性を狭めていると思います。

今日は「普通ってなに?」を皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

僕たちが長く生きれば生きるほど自分の中に常識のような固定観念がつくりあげられてきます。

それらがどれだけ他人とのコミュニケーションの中で障壁となり、自分の成長を止めてしまっているのか。少し考えてみるだけでゾッとします。

それでは、まず僕たちが無意識で作り上げてしまう「普通」ってどんなものがあるか見ていきましょう。

普通とは?

"普通"とは、特に目立つ特徴がないこと、または一般的な状況や行動を指す言葉です。

ここで言っている普通は、後者のことを指しています。

例えば、"普通の人"という表現は、特異な特徴を持たない、一般的な人々を指すことが多いです。

一方、"普通の日々"や"普通の生活"は、特別な出来事がない、日常的な生活を指します。
しかし、"普通"とは主観的な概念で、人によってその定義は変わります。

ある人が"普通"と考える行動や習慣は、他の人にとっては必ずしも"普通"でないかもしれません。

そのため、"普通"とは文化的、社会的、個人的な視点に大きく影響される概念であり、その定義は広範で多様です。

主観的フィルターの代表3選

年齢・経歴・国籍

これらが僕たちの普通に大きく影響を与える3つの主観的フィルターです。無意識でこれらに囚われた固定観念をもっています。

まずは年齢と経歴からいきましょう。

これは人の評価をする時にかかるフィルターですよね。

日本は敬語の文化があるし、少なくはなってきていますが年功序列の賃金制度や終身雇用の雇用制度の背景も強く影響していると思います。

僕は完全実力主義のスポーツの世界で10年間取り組んでいました。

その後、ロンドンで大学を2年間、ヨーロッパで4年間仕事をしました。

そんな経験があるにも関わらず、年齢と経歴から作り上げた自分の中の普通という基準で人を評価していたことがありました。

それは前の会社で50代半ばの方と仕事をする機会があった時です。

その方の履歴書はそれなりの経歴でIT経験も30年以上。 彼の経歴と年齢によって、僕の頭の中ではその人への期待が知らぬ間に上がっていました。

僕はプロジェクトマネージャーとして彼と関わることになったのですが、その方を配置したポジションと業務内容はその方の能力ではハンドリングできませんでした。

どんな点が至らないなど細かな話は伏せますが、僕の作り上げた年齢と経歴からくる「普通これくらいできるでしょ」という考えから、完全に間違った采配をしてしまい、結果的にお客様にも迷惑をかけることも多々ありました。

続いて国籍です。

生まれた国が違えば文化も違う、教育システムも違う、仕事に対する向き合い方も違う、責任って言葉一つをとっても定義が違います。

そして、なにより喋る言語が違いますよね。本当に違いだらけです。

そのなかで1つの違和感をおぼえました。

それが阿吽の呼吸です。

阿吽の呼吸ってなに?

僕は、阿吽の呼吸という言葉があまり好きじゃありません。普通の悪の根源くらいに思ってます。

はっきりと言葉にせずにどれだけ空気をよめるかに美学を感じているところです。

その特徴は、特にソフトウェア開発に関わる僕が仕様を詰めていく場面で顕著にあらわれます。

こう書いてあったら理解できるだろう。

こう言ったら普通こう考えるだろう。

そんな言葉を何度きいたことか。。。

僕たちは同じ脳ではないんです。

伝える人とそれを聞く人の脳は違うし、積んできた経験も違います。

ということは、自分が曖昧に伝えれば伝えるほど、受け手は独自の解釈をするに決まっているんです。

その解釈の違いが起きることに「ダサい」「能力が低い」などとネガティブに思っているように感じることが多々あります。

理解や解釈の違いは絶対に存在するものです。

なぜなら僕たちが持っている普通は、人それぞれ違うんですから。

では、僕たちはどうやって自分が作り上げる普通と付き合っていけばよいのでしょうか?

普通との向き合い方

まずは、相手が何をどのように考えているのかを理解する姿勢を持つことが全てのスタートではないでしょうか。

普通と向き合うということは、他人との違いを受け入れることを覚悟することです。

「僕は、世の中の違いの存在は既に認識済みで気にしない」と言っている人がいても、相手を理解する姿勢がなければ、違いを受け入れて歩み寄ることはできないはずです。

どのような事象でもまずは相手を理解することから始めると、自分との考えとの違いに気づきます。

ここで自分の考えとの違いから相手に対して否定的にならないことが重要です。

その違いというのは単純に意見の違いではなくて、考える深さが至っていない場合もあります。

相手がそのような場合でも否定的になってはならないと思っています。

なぜなら、相手も考える力が身に付いていく段階があるので。

自分からすれば何がしたいか分からないようなことも、他の人にとってはちゃんと意味があり、しっかりとした考えをもって行動していることも多々あります。

まずはその考えに歩み寄ることが重要であり、そこが相手を理解する、受け入れることのファーストステップなんです。

最後に

このブログでは「普通」について深く考察しました。

それぞれの人が個別の経験や背景に基づいて形成する「普通」という観念が、コミュニケーションや判断に影響を及ぼします。

「普通」とは、特に目立つ特徴がない、または一般的な状況や行動を指すもので、主観的な概念であり人によってその定義は異なります。

主観的フィルター、つまり年齢、経歴、国籍などは、それぞれが何を「普通」と認識するかに大きな影響を与えます。

そして僕自身の経験を例に挙げ、年齢や経歴が人の能力を正しく評価する際の障害になる可能性があることをご紹介しました。

国籍によって異なる文化や言語が人々の理解や解釈に影響を及ぼし、これが互いの「普通」を理解する上で課題になります。

最終的に、自分と他人との間の「普通」の違いを理解し、受け入れることが、真のコミュニケーションや共感、成長への道であると結論付けています。

相手の視点を理解し、その違いを受け入れる姿勢が求められます。

人とコミュニケーションをとるということは、その違いに気づいたり、その違いをすり合わせて同じ理解にしたりするためにあるはずです。

一生懸命理解することに努力し、言葉や文字があるのだからそれを駆使して違いを埋めていけば良いのではないかと思います。

一番ダサいのは、その違いを恐れて違いを埋めて本当に理解する作業をしないことではないでしょうか。

普通は自分の普通であって、他人にとって普通ではありません。

自分の普通をオープンにして、相手との普通との違いをみつけて、その違いをうまく利用して共存していくことが素敵なことではないでしょうか。

今日はこのへんで。

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