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2021年 アンチフェミ十番勝負

 どうもみなさま、遅ればせながらあけましておめでとうとざいます(ry
 というわけで毎年恒例、一年のまとめです。
 執筆時間も取れないので、ざっと時系列順に去年のトピックスを並べ、所見を述べるという簡単なものでご勘弁願いたいと思います。それでは。

一番勝負 ジャイ子問題

 さて、今年の初め辺り、ぼくはずっと『STAND BY ME ドラえもん2』について述べていました。いえ、正確にはこの映画に対する宇多丸師匠の評に対し、噛みついていたのです。

 この映画自体のできが大変にお粗末なモノであることは事実なのですが(それについてはここしばらく繰り返している、オタクコンテンツの終焉とも絡めて語りましたね)、宇多丸師匠はそれとは別に、「のび太はジャイ子と結婚しろ、ジャイ子と結婚しろ」と壊れた機械のように繰り返すのです。
 映画の話から完全に脱線して関係ないお説教を始める辺り、何だかポリコレアフロ君のよう(伏線)。
 ぼくはこれまで幾度も、『ドラえもん』とは「野比のび太」という「オタク少年」が「しずかちゃんとの結婚」という幸福を得る話だと言ってきました。しかしオタクという「弱者男性(伏線)」の存在を決して許すことのできぬサブカル君(伏線)は、とにもかくにもブスのエンカレッジのためにも(伏線)ジャイ子と結婚しろと半狂乱で語るばかりでした。

二番勝負 弱者男性問題

 今年よりワタクシこと兵頭新児、定期的に『WiLL』様で執筆させていただけることになりました。昨年から書いてはいましたが、ある程度定期的に書かせていただけるようになったのは今年からです。
 記事は時々ランキング一位になることもあり、今までのマイナーノーター、ツイッタラーとしてしか活躍の場のなかった身としては、本当に夢のような話なのですが……去年でも比較的早い時期に、この「弱者男性」を主語にした話題で三回ほど記事を書き、それが一位になったことはやはり、結構な衝撃でした。

 去年は小山晃弘氏も大いに目立った一年でしたが、彼の視線も「弱者男性問題」にこそ注がれていると言っていい。
 つまり数年前までのアンチフェミは表現の自由クラスタ主導のものだったけれども、それが弱者男性主導のものに変わりつつある……同様の指摘は幾度もしていますが、それがいよいよはっきりと視覚化されたのがこの一年だったと言えるわけです。
 ちなみに『WiLL』様の記事で述べましたが、本件についてトイアンナ師匠のような「リベサーのフェミ」型フェミニスト、杉田俊介師匠のような「男性学」者様がいろいろとモノを申しておりましたが、それが無意味無内容なものであったことは、重ねて申し上げるまでもないことでしょう。

三番勝負 伊是名夏子問題

 さて、今年は彼女についても大いに騒がれました。
 しかし、ぼくにとってはこれは「安積遊歩問題」であったことは、みなさんおわかりいただけているかと思います。

 伊是名師匠の先輩格とも言える安積師匠の本には、フェミニズムの影響が極めて大でした。そして、おそらく『WiLL』様の記事でも一番読まれたであろう「青い芝の会」についての記事で、明らかになったのではないでしょうか。フェミニズムは他の障害者運動などと同種の問題を抱えており、そしてその問題はLGBT運動などにそのまま引き継がれた、ということが。

 それは「人間の差異は全く存在しないことが理想であり、その理想の社会はマジョリティ側が無限のリソースを費やし、自分たちにさあどうぞと提供すべきものである」との恐るべきものです。
 伊是名師匠のJR社員への無茶振りと、フェミニストたちの「異性愛者」への無茶振りはその意味で「完全に一致」しているのです。

四番勝負 小山田圭吾問題

 そして、それはこの問題にも影を落としています。
 小山田問題の、「インクルーシブ教育」という形ばかりの理想主義が生んだ悲劇、という側面については以下に書かせていただきました。

 この「インクルーシブ教育」こそ、先にも書いた「マジョリティが無限のリソースを費やしてマイノリティ様との差異をなくして差し上げろ」との理念に端を発するモノなのです。

 しかしこの問題は同時に、「サブカル問題」でもありました。
 小山田を擁護し、言い訳の限りを尽くすサブカル陣営の醜悪さは目を覆わんばかりのものでしたが、実のところ本件についてはずっと気を吐いていたブログ「孤立無援のブログ」が比較的最近、また爆弾を投下してきました。
『クイックジャパン』における小山田の記事は、根本敬の漫画の影響が大ではないか、という指摘です。

 またもう一つ、サブカル陣営の男性たちが見るも無惨な言い訳を繰り返すのに対し、女性陣が妙にしおらしい「反省文」をしたためてみせる様が、本件以降目立つようになりました。
 しかし、それもまた、あまり褒められたモノではないのではない。例えばレイプや人体破壊をこよなく愛する高橋ヨシキが、「オタクはミソジニストだ!!」と泣き叫びながらフェミニストぶっているのと全く同様に、彼女らの主張は一見、内省しているように見せながら、「私は当時、サブカルにしか居場所がなかったが、よく考えてみれば当時のサブカルは悪質なポルノなど、女性の権利を害するモノを称揚していた」などと後づけでフェミニズムを持ち出し、被害者ぶってみせるものばかり。自らの加害性には当然、頬被りです。
 ――というわけでこの問題については、また近くじっくりと語ってみたいと思っているところです。

五番勝負 ピル神凍結問題

 さて、先に書いたように、表現の自由クラスタはいささか、影響力を減じているように思われます。
 その一つがピル神のTwitterアカウント凍結問題。いえ、正確に言えば「大事件と言っていい本件が、思ったほど騒がれなかったよ」問題に象徴されているのではないでしょうか。
 ぼくはこれについて、「ピル神がTERF的なスタンスに立ったから」ではないかと想像しました。もちろん、ぼくには裏事情は窺い知れませんが、仮にこの想像が当たっているとするならば、表現の自由クラスタの「ご本尊」たるフェミ様はピル神をも許容ができぬほどに狭量であり、ラディカルであるとするしかない。
 彼らは初めっから自縄自縛に陥っている存在ですが、その縄の食い込みは、いよいよ激しいものになっているのではないでしょうか。

六番勝負 ポリコレアフロ問題

 同種の問題は、ここ数年、ずっと語っているかと思います。
 もしこれが去年の記事であれば、本項は『BEASTERS』問題として、一昨年であれば『トクサツガガガ』問題として語られていたでしょう。
 要するに「フェミがかった女流漫画家さんが、作中で主人公にフェミ的主張をさせていてウザいぞ」問題です。
 ただ、本作はまず大変なヒット作になっていること、そしてよくある「自己主張漫画」のスタイルを取っていることが特徴的でした。
「自己主張漫画」というのもあまりいい表現ではないのですが、これはネットによく投下されるタイプの、「白漫画」と呼ばれることもある一連の漫画をイメージした言葉です。一昔前で言えばマルクス師匠とかああいった、「ただ自分の言いたいことを何とはなしにキャラクターに言わせてみただけで、一般的な意味の漫画ではないもの」。まあ、『ゴーマニズム宣言』もそうだと言えるのですが。
 本作も一応、ジャンルとしてはミステリであり、事件が起きて主人公が謎を解いていくという過程が描かれるのですが、主人公が推理の途中でふと思いついてフェミ的主張を始めるという点が特徴的。
「作者の独り言」を大っぴらにナレーターに言わせたのが『ちびまる子ちゃん』とするならば、主人公に大っぴらに言わせたのが本作、という感じ。いえ、『まる子』のナレーションはストーリーに対しての的確なツッコミであるのに比べ、本作ではそれがほぼ無関係なところに、問題があるのですが……。
 いずれにせよ「フェミ」が今までに比べても「ナマ」の形で前面に出た漫画が、しかも大ヒットしてドラマ化される……状況としては、あまり好ましいとは言えないでしょう。

七番勝負 スーパーマンホモ化問題

 いえ、厳密にはバイセクシャルですが。
 しかし、ある意味では本年で、一番重要な話題かも知れません。
 というのは欧米のポリコレが近年、ちょっと考えられないくらいに幅を効かせ、文化の破壊に邁進し始めたということの、これは象徴だからです。
 これはホンの一例であり、例えば『パワーレンジャー』などにも近い事例が及んでいることは、『WiLL』様の記事にも書いたとおりです。

 一番勝負で採り挙げた「ジャイ子問題」に対し、ぼくが舌鋒を極めて罵り続けていた理由も、今となってはおわかりいただけるのではないでしょうか。
 もはや明日にも、「のび太の将来」は歴史改変され、「ジャイ子と結婚する未来」が「公式設定」とされても何ら不思議がないような、そんな社会が訪れつつあるのです。

八番勝負 戸常梨香問題

 さて、今年はやたらと「表現の自由クラスタ」批判を続けてきました。
「いや、お前は以前からそうだ」との声も聞こえてきそうですが、『WiLL』様の記事でも幾度も採り挙げたせいか、ぼくとしては本当に今年はしつこく語ったという印象があります。
 戸常梨香騒動において、もちろん悪いのはフェミ議連だし、それを相手取って大立ち回りを演じた表現の自由クラスタ、青識亜論やおぎの稔についてはそれなりに功績を認めるべきだ、とお思いかも知れません。
 しかし彼らのやり方は本当に、その功績を吹き飛ばすくらいにまずかった。

 既に述べた通り、彼らはまずフェミのVチューバー批判に対し、「女性の多様性を認めない、本来のフェミニズムに反するもの」「トランスジェンダーの活動を妨げるもの」「そもそも戸常梨香は性的ではない」などと反論しました。
 これは当然、「女性を美や性的魅力で評価することこそが女性の多様性を阻むことだ」とのフェミの第一義を彼らが全く理解していない(フリをしている)ことを意味していますし、そもそも彼らが「本来のフェミはよきもの」と信じていることを示しています。
 また、Vチューバーが往々にして男性でありながら女性を演じることがあるのは周知ですが、トランスジェンダーかとなると多くはそうではないでしょうし、そもそも梨香ちゃんの演者は女性なのだから、これは言いがかりというものです。
 第三に、梨香ちゃんは性的ではないという物言いは本当に、非常に、ものすごく、極めて、大変に、すこぶるまずい。彼らの信奉する左派的価値観(性の解放はいいこと)を正しいものと考えれば考えるほど、まずい物言いです。おそらく「卑猥で良識に反するというほどではない」程度の意味で言っていたのでしょうが、何にせよ「(度を超して卑猥というならともかく、これくらいなら)性的でどこが悪い」が彼らの立てるべきリクツであったはず。
 とまあ、そんなわけで表現の自由クラスタがフェミニストの忠実なしもべなのは今更指摘するまでもありませんが、彼らのやり方では表現の自由が守れそうもないことが、またしても明らかになってしまったわけです。
 もう一つ、本件では梨香ちゃんの演者はもちろん、運営会社の社長が女性であることも、大いに表現の自由クラスタの欲情を誘いました。
 しかし当然、社長が男性であれば規制していいわけでは全くなく、表現の自由クラスタの「表現を守るつもりは全くないが、女性に媚びへつらうつもりは人一倍ある」という本質を露わにしてくれました。
 それで、以下の問題につながるわけです――。

九番勝負 玉袋ゆたか問題


 これについては動画で採り挙げたばかりであり、繰り返すのも面倒なのですが、最低限のポイントを述べると、

・玉袋ゆたかは絵としては可愛いが金玉のディフォルメが萌え絵と言うにはバランスを逸している。これに「萌え」る者がそれほどに多いというのが今一、信じにくい。
・そもそも彼は「男の娘」である。男の娘好きがある種のニッチである上、こうしたエッジな表現に心引かれる人間が、そこまでいるのか疑わしい。
・作者の「畢」師匠は確かにオタク側のラブコールに鼻の下を伸ばし、「ツイフェミ辞める」宣言をした。しかし「フェミ」を辞めると言ったわけではない
・そもそも「男の娘」を描いただけの彼女が「美少女キャラ」にも理解を示してくれるとは限らない。

 以上のように考えると、本件は梨香ちゃんの運営会社の社長同様、女性の送り手に「欲情」した表現の自由クラスタの暴走と判断するのが妥当であるように思います。
 言わばこれは「リベサーの姫再編」問題だったのです。
 先にピル神について述べましたが、本年はまさに「リベサーの姫」再編の一年でした。トイアンナ師匠やフェミニスト東京(フェミトー)師匠などがそうでしょうし、またちょっと違いますがぱうらも近いんじゃないかなあ……。
 しかし何にせよ「萌えキャラ」は守ろうとせず、「フェミニスト」にのみ欲情を続ける表現の自由クラスタは果たして、これからどこへ向かうのでしょうか。
 いえ、彼らがサブカル君と極めて被っていることを考えた時、彼らの向かう先はもはや、明らかではないでしょうか。

十番勝負 JC向けファッション誌問題

 はい、それではどこへ向かうかをご説明しましょう。
 彼らはフェミとがっちり手と手を結び、「ブスデフレーション」を推し進めるのです。
 といっても、「ブスデフレーション」という言葉をご存じない、という教養のない方もいらっしゃろうかと思います。いえ、ぼくが今、考えた言葉なのですが。
 仕方がありません、ごく簡単に申し上げましょう。
 ブスデフレーションとはブスのデフレーションです。
 一般的なデフレとは、牛丼が安いので牛丼ばかり食べ、お小遣いを節約する人が増えると、バイト君のお給料も下がってしまう。みんなが貧乏になってしまう現象を指します。
 ブスデフレも同様で、テレビドラマにブスが出れば出るほど、観ている女も安心してブスになる(或いは美人が肩身の狭い思いをして前に出てこなくなる)現象を指します。渡辺直美さんが人気だと、女性もダイエットを怠けてしまうのではないでしょうか。
 そう、『WiLL』様で書かせていただいた、JC向けファッション誌『ニコル』に色白でスマートなモデルばかり使うな、といったクレームをつけるネット署名も、実のところこの問題の一環です。

 もちろんこれは、「キャンセルカルチャーだからけしからぬ」とも言えるけれど、それは本質ではない。歪んだ価値観で大衆に望まれていないものをごり押しする不健康さにこそ問題があること、スーパーマン問題と同じです。
 海外でも太った女性がモデルなどを務める傾向は既に出てきていますが、それは女性を本当の意味で幸福にはしない。
 自分のないものを持っている妬ましい他者の足を引っ張るという、トンパのような昏い快楽だけがそこにあるのだと言って、過言ではない。
 まあ、そんなこんなでブスは一時の快を得られるが、女性全体の美の水準が下がれば下がるほど、さらなるブスが必要となる。ブスのデフレスパイラルが始まるのです。

 ――以上のような次第で、2021年はリベサーの姫とブスデフレの一年でした。
 ぼくは常々、「ゆるふわフェミ」という言葉の使いどころには慎重であるべきと言ってきましたし、そのスタンスに変わりはありませんが、いよいよ「ゆるふわフェミ」が増えつつあるのが現状だ、といえましょう。
 そんなわけで、来年も当noteをよろしくお願いします!

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