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『新潮45』「そんなにおかしいか杉田水脈論文」を読む(再)(その2)

『Daily WiLL Online』様で「トランスブーム」にまつわる危機について書かせていただいています。

 前回もご紹介させていただきましたが、目下ランキング三位!
 できればより以上に引き上げたいので、応援の方をどうぞよろしくお願いします!
 さて、こちらは前回の採録の続き。
 2018/9/25に書かれた、『新潮45』が廃刊なったきっかけの号のレビューです。
 同誌同号の中でも小川榮太郎氏の記事が一番騒がれた(バッシングされた)と言うことで、今回はその記事だけを扱っています。        
 基本、丸々の採録ですが、少々説明不足かと思われた辺りなどに加筆を行っています。
 では、そういうことで……。

*     *     *

 ――さて、いよいよ本丸、最後に取っておいたメインディッシュです。
 ネットでも悪評紛々の小川榮太郎氏。
 氏の記事のタイトルは「政治は「生きづらさ」という主観を救えない」。リード文は「LGBTの問題など、国家や政治が反応すべき主題ではない。/文学的な、つまりは個人的、人生的な主題なのだ。」というもの。
 実のところ、ここでもう、評価は出たようなものです。これは杉田氏の主張の中でもぼくが評価した箇所、つまり前回記事(「杉田水脈『「LGBT」支援の度が過ぎる』を読む(再)」のこと。以降も「前回」という時、基本これを指します)で述べた箇所を極めて的確にまとめていると言えます。ここで「小川は正義、終わり!」でもいいくらいだ……と言いたいところなのですが、ただ、ちょっと表現に棘がありすぎる気はしますし、記事本文を見ると、いよいよその感を強くします。
 例えば、彼は「性的なことは公にはつまびらかにするな」と主張するのですが、それはいささかお堅いでしょう。そういうのをつまびらかにすることが必要な局面もあるでしょうし、その上で「しかし政治の問題じゃないよな」と批判することこそが、正しい手続きであるべきです。小川氏の主張はいささか乱暴に表現すれば「LGBTはモノを言うな!」とまとめてしまうことができ、それでは杉田氏をバッシングした連中と同じレベルにまで堕ちてしまいます。
 見ていくと彼は「性的嗜好」をLGBTと称すること、その上でそれを前提とした議論をすること自体を否定するとまで言っています。彼は「階級闘争」というロジック自体を否定しており、「知らんけどLGBTもマルクスの手先に決まっているから否定する(大意)」と主張します。
 いや、まあ、結論としては間違っていないけど、でもその言い方はどうなんだ、という感じです。
「異性愛から同性愛に、人生のある時期で変わる者もいる。だからこそLGBTなどというカテゴライズ自体が人性への冒涜である(大意)」との主張もあり、まあ、言いたいことはわからないでもないけどちょっと舌足らず、という感です(ちなみに「人性」はママ。「人のセクシュアリティ」の意でしょうか)。
 小川氏はご存じないかもしれませんが、近年(って、LGBT自体が近年の造語ですが)、LGBTの後ろにいろんなアルファベットがつく傾向にあることは、前回の記事でも指摘しました。そこにはLGBTが「弱者の王」として不動の地位を誇り、そこにいろんな人たちが「仲間にして」と群がっている切ない光景があまりにも生々しく映し出されていました。小川氏は恐らく、それと同様に「LGBTを特権化すること自体がけしからぬ(そしてまた、逆にLGBTのケツに無限にアルファベットをつなげることをよしとするなら、それこそキリがない)」との、杉田氏もしていた指摘をしようとしているのではないか、と思います。
 後は性別と性的指向を混同したりと乱暴さも目立ち、正直、「炎上した事件を丸く収めるために出してきた記事」としてはちょっと、消防車が町に火を放っている感はある
 しかし、それも含めて、敢えて言えば小川氏の記事は「普通の日本人」の感覚をうまい具合にすくい取っていると思うのです。
 リベ様は保守派が「普通の日本人」と口にすると、鬼の首を取ったように発狂します。正直、その時の彼ら彼女らの心情、ないし言い分はよくわかりません。想像ですが、「お前たちが普通の日本人などであるものか」「普通の者たちこそが、マイノリティを虐げているのだ」といった心情が、そこには働いているのではないかと思います。
 しかし、(この二つが既に矛盾した両立しないものであることはまあ、置くとしても)彼らはことに近年、「日本の右傾化」に心を痛めていらっしゃるのですから、前者は論理的矛盾がありますし、また後者は字面だけを見れば正論ですが、しかしトランプ現象などを見ても、そこには「捨て置かれ続けて来た中間層に対する冷酷さ」が隠れています。
 本件に限らず、LGBT関連の騒動ではLGBT当事者、或いはその理解者を自称するリベ様の、「無知蒙昧な大衆」に対する傲慢不遜な「啓蒙」という側面が常々、必ず、絶対、つきまといます。「性的嗜好」と「性的指向」は違うの何のという物言いはその好例ですね。
 小川氏の敢えて無知をさらけ出すスタイルは、敢えていえばLGBTが「トリビア棒」でこちらに殴りかかってくることへのカウンターになっているとも言えましょう。いえ、すみません、
「敢えて」なさっているわけではないだろうし、これはちょっとさすがに無理矢理な擁護ですが。
 しかし、前回LGBTの「イキり」ぶりを「『仮面ライダー』の怪人の名前を並べてドヤってるみたい」と形容しましたが、本当に(悪い意味で)オタク的なんですね、あの人たちのトリビア。それは「LGBTのケツのアルファベット」問題同様、「普通の日本人」には「キリねーじゃん、そんなの」という感想以外の何物も呼び起こしません。
 前回も書いたようにLGBTはある種の暗黒大陸でした。その暗黒大陸を担保に彼ら彼女らは一般ピープルを畏怖させ、そしてまた自分たちだけが暗黒大陸の住民との通訳ができるのだと主張することで、利を得ようとしました。彼ら彼女らは「トリビア棒」をまるで至高の価値を持つかのように振り回します。しかし、特撮オタクが振り回していた「幻の名作」が次々とDVD化されることで「意外にしょぼい」とバレてきたのと全く同じに(評論家などが持ち上げてきた「幻の名作」がソフト化され、いざ観てみると鬼のようにつまらない、というのは一時期の特撮オタクあるあるでした)、暗黒大陸はもはや、価値を持ってはいません。そもそもあくまでマイノリティである以上、数は期待できませんし(だからLGBTは自分たちが隠れたるマジョリティであるかのように自己演出し続けてきました)、今となっては「Xトイレを作れ」といった「キリねーじゃん、そんなの」どころか「勘弁してくれ、俺はパンを買うカネもねーんだ」な要求ばかり。
 その意味で、小川氏がホモの芸術家の名前を挙げて、ホモの才能を称揚するのは賛成できません。それこそ前回に指摘した「ホモには才能のあるものが多い(から、生産性があるのだ)」という主張と全く同じだからです。
 つまり小川氏の今回の「無知」ぶりに価値があるとすれば、それはまさに「トリビア棒」に対する「キリねーじゃん」との「普通の日本人」の声を放って見せた点にあると言えるのです。
 それはみなさんもネットで見聞したであろう、今回一番の突っ込みどころとなった例の箇所についても同じことが言えます。
 そう、SMAGについてです。
 これ、「スマッグ」っていうんでしょうかね、どうでもいいけど。
 要するにサドマゾとアナルマニア、そして痴漢の略だそうです。
「SMAGの人権を守れ、バカにする者はレイシストだ!!」というわけです。これ、ぼくの「スカトロマニアの人権を守れ!」というネタとほぼ同じですよね。そう言ってみせることで、LGBTを「相対化」してみせるという作戦です。ネット上の反応をちらちら見る限り、LGBTやリベ様がこの箇所に狂ったような怒りを炸裂させておりましたが、それは大変に示唆的です。
 もっとも、そうは言っても、ここは非常にまずい部分でもあります。何しろ小川氏は「痴漢症候群の者が女を触る権利を認めよ」という言い方をしているのですから。
「犯罪を幇助しやがって」と言われたら、それは反論がしにくい。
「フェミニストだって少年愛者が小学生の子供とセックスすることを肯定しているではないか」との反論も想定し得ますが、そうした指摘する者は恫喝に遭い、事実は隠蔽されているのが現状です。
 いえ、更に言うなら、小川氏は彼らに「痴漢症候群」との名前を与えて、「彼らは自分の意志ではどうにもならず、女性のおしりを触ってしまう者である」と規定しています。確かに痴漢症候群(という言葉もないことでしょうが、仮にそれがあるとして)の者が自分の意志ではどうにもならない衝動を抱えているとしたら、それは糾弾ではなく治療の対象です。その意味で犯罪者には違いがないけれど、ニュアンスは異なってくる。
 ただ、一方それをLGBTに準えるのは、差別……ではありませんが(仮にLGBT側が差別だと言い募ったとしたら、彼ら彼女らが病者を差別している、という理屈になりましょう)、いずれにせよ「自己の衝動を抑えきれないような病者を持ち出すのは比喩として成り立っていない」との反論は考え得る。
 ここは(敢えてギャグに持っていき)国家が痴漢プレイイメクラを経営し、彼らに無償で提供せよ、とでも言うべきであったでしょう。まあ、それだって「ホモも男を世話しろとまでは言っていないぞ」との反論も成り立ち得ますが、突っ込みどころは少なくなる。
 或いは、ペドファイルをLGBTに加えLGBTPにしたがっている人たちのロジックを借用する方法もあったことでしょう。「痴漢症候群を差別するのはまかりならぬ、(実際に)痴漢(行為を犯した者)と痴漢症候群患者は別、前者はモレスター(加害者)、後者は清浄で清廉なるセクシャルマイノリティなり」と。
 或いはまた、それこそぼくの持ちネタのように「スカトロマニア」を持ち出してもいいかもしれません。事実、これを持ち出されたリベ様は狂ったように発狂します(強調表現)。自分たちは清廉で清浄なセクシャルマイノリティの理解者のフリをしているのに、汚らしい変質者の話を持ち出すとはけしからぬ、と。
 小川氏の言は雑に過ぎましたが、LGBTのケツにに痴漢症候群の「G」なり、ペドファイルの「P」なり、スカトロマニアの「S」なりをくっつけると、台なしになるということを示して見せようとはした。そのことの意味を、ぼくたちはもう少し考えなければならないのですね。

 ……はい、というわけで考えてみました。
 ぼくがいつも言う通り、LGBTは「名誉女性」です。
 まあ、Lは違いますが(この一番目立たないLが一番頭にあるの、何故なんでしょうね)GBTは「女性ジェンダーを持つが、しかし女性と認められない、二級女性」です。GBが果たして女性ジェンダーの主と言っていいのかはわかりかねますが、実際のところフェミニズムにおける彼らの扱いは「二級女性」とでもいったものです。彼女らが彼らを清浄で清廉なるセクシャルマイノリティであると規定しているのは、彼らが女性に性被害を与えないからであり、男性や児童への被害はどうでもいいのですね。逆に女性に害を与え得る「G(痴漢症候群)」や「P」や「S」がLGBTの仲間入りをすることは未来永劫、ないのです。
 そしてこれはまた、頭でっかちなインテリのコンプレックスをいたく刺激します。彼らのGBTへの崇拝ぶりは病的というしかない域ですが、これは逆に言うならばエロゲに登場する男性主人公が基本、草食系なのと同じ、実のところ男性には(ましてやインテリ層やオタク層には)「女性に加害すること」への極度な罪悪感、畏れがそもそも非常に根深く存在している、ということなのです。
 小川氏は「性の問題はそもそも後ろめたいものだ」と指摘していますが、LGBTは「後ろめたい兵器」としてフェミニズムに運用されていたのです。更に言えばその意味でLGBTは「(女性に性的加害を行わないので)後ろめたくない」ものであると彼女ら、及びリベラル男性たちには認識されているわけなのです。
 LGBTの望みは、「普通の人とは違う後ろめたさを何とかしたい」というものでしたが、それは小川氏の言うように政治で解消できるものではない。しかしそこをヘテロセクシャル男性の「後ろめたさ」を突いて攻撃する兵器として、フェミニズムに利用されてしまったのです。つまり、フェミニズムのLGBTの兵器利用は、そもそもLGBTの心情を最初っから、残忍極まる形で踏みにじっているものだったのですね。
 ぼくが(市井の一人ひとりに対してはともかく、運動家としての)LGBTに対して、そして彼ら彼女らに同調的な人たちを全く評価できないと考えるわけは、もうおわかりでしょう。
 小川氏の主張はそこを突く、極めて可能性に満ちたものでしたが、その端々がいささか軽率ではあった。
 とはいえ、彼の主張は「公私を分けよ」との一点に集約され、そこは頷ける。

 ――といった辺りがまあ、ぼくの本特集に対する評価になりましょうか。
 いずれにせよ気に入らない雑誌を休刊に追い込むというリベ様のやり口は肯定できませんが、こうして見るとむしろこうまで強硬手段に出ざるをえないほど、『新潮45』の特集は彼ら彼女らにとってヤバいものであったのです。

*     *     *

 以上です。
 この後も「続きを書く」旨の文章が続くのですが、それは果たせなかったので、カット。
 ただ、キャンセルカルチャーというこの問題はずっと続いております。ぼくも、それを批判するという意味ではこの記事の「続き」をこれからも書いていかなければならないのでしょう。

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