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『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)第43・44話感想〜「大人の鑑賞に耐える作品」としての「タイムレンジャー」がS(傑作)ならない理由〜

さて、『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)もクリスマス商戦の山場に差し掛かったわけだが、改めて何故A(名作)止まりでS(傑作)の評価にはなり得ないのか見直してみてわかった。

そもそも「画面の持つ説得力」が弱すぎるのである、「特撮」としてみた時に。

まあ「タイム」自体が人間ドラマの方に比重を置いていて変身後の等身大戦や巨大ロボ戦には尺を割かないというのは相当にリスキーなことをやっているのだが、これには大きな弊害が伴う。
それは「敵を倒すことで得られるカタルシス」が大幅に減少してしまうことであり、思えば次作「ガオレンジャー」が露骨な玩具販促重視に傾いてしまったのには間違いなく本作の極端に偏った作風も原因だろう。
何故こうなったのかを今回は商業主義の側面も絡めながら90年代戦隊の10年間の歴史と共にある種の回顧録として振り返ってみたい。


(1)年末商戦に苦戦した『地球戦隊ファイブマン』(1990)とそれを受けての『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)の対策

本作の43話・44話をそれまでの90年代戦隊シリーズとの比較を踏まえながら検討していくが、実は「ジェットマン」以降からスーパー戦隊シリーズの伝統として「クリスマス商戦」が台頭してきた。
これは大きな理由があって、『地球戦隊ファイブマン』(1990)が年末商戦にてお隣の『特警ウインスペクター』や『勇者エクスカイザー』共々スーパーファミコンに子供人気を奪われてしまったのである。
しかも「ファイブマン」では戦艦型ロボのマックスマグマが大量の売れ残りが発生してしまい、最終決戦ではバルガイヤーの前に成す術なく蹂躙されて無様な大敗を喫することになってしまった。
展開自体は決して悪いわけではないものの、そこはやはり「商業作品」という子供向けの大衆ビジネスであるから、作り手としては視聴率と共に玩具売上の回復を図る必要があったのである。

そこで「80年代戦隊の死」を司った翌年の「ジェットマン」では年間の大枠と大筋、そして玩具販促の戦略も含めた抜本的な改革・刷新を迫られることになったのだが、大まかに分けると以下の2つだ。
1つが「中高生以上でも見応えのある物語」、2つ目が「巨大ロボや特撮玩具の見せ方」であり、「ジェットマン」というとほとんどの人は前者のみを評価しているのではなかろうか。
しかし、「ジェットマン」を何度も繰り返し見てその作風を根幹まで掴んでいる筋金入りのファンならばわかると思うが、「ジェットマン」のS(傑作)たる所以は決して人間ドラマだけではない
実は後者こそが「特撮作品」として見た時に最も重要な部分であり、それまでの80年代戦隊では今ひとつ力が入っていなかった巨大ロボにどれだけ革新性を持たせられるかに挑んでいる。

「ジェットマン」ではジェットイカロス・ジェットガルーダ・テトラボーイしか登場しないが、これは前作のマックスマグマが大量の売れ残りが発生したことで思わぬ辛酸を嘗める結果になったためだ。
だからまずは要塞型巨大ロボを廃止し、その代わりジェットイカロスとジェットガルーダにそれぞれ「飛行機モード」と「人型ロボットモード」という使い分けを持たせ、更に演出面でもグレート合体の時に腕を組ませている。
その上でテトラボーイもまた単にスピーディーに動けるタイタンボーイを継承したロボットにするだけではなく、バズーカ砲に変形することでプレイバリューを増やし、イカロスとガルーダの両方で使えるようにした。
「ジェットマン」が特撮作品として真に画期的であったのは実は物語やドラマ性・ヒーロー像といった部分以上に巨大ロボのデザインと共に劇中での見せ方や玩具としてのプレイバリューを増やし付加価値を高めたことにある。

そしてこれが一番大事だが、年末商戦の対策として魔神ロボ・ベロニカとの決戦を前後編という形で力を入れており、ここで90年代以後のお約束というか新たな文法として定着する「クリスマス決戦」が確立された。
ベロニカ自体がグレートイカロスもテトラボーイも圧倒する完璧なロボであり、単独では敵わないという画面上での迫力を持たせた上で、敵側のバイラムが権謀術数を用いて足の引っ張り合いを行う。
その隙を突き対比となる形で竜と凱の親友・戦友としての友情も深まりチームワークで乗り切るという構図もここで完成し、しかもここで終わらずにラディゲがベロニカのパワーを吸収して無敵の強さを手にしている。
凄まじく高度な計算され尽くした決戦を濃密に描いたことが視聴者の大きな反響を呼び、結果として「ジェットマン」は文芸面のみならず商業面も含んだ「特撮」としての変革にも成功した

(2)クリスマス商戦を定着させつつ「ファンタジー」という新ジャンルを開拓した『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(1992)〜『忍者戦隊カクレンジャー』(1994)

「ジェットマン」で図られた革命ともいえる「クリスマス商戦」の対策は大きく成功し、視聴率も玩具売上も大幅回復したスーパー戦隊は翌年の「ジュウレンジャー」から「カクレンジャー」までで更に新しいことに挑戦している。
まず「ジュウレンジャー」では「ファンタジー」というジャンルそのものの新境地開拓を行い、その上で「守護獣」という「意思を持ったロボット」の存在を導入させ、以後の戦隊の文法として定着させた。
これは当然ながら同時代の強豪である勇者シリーズの「自らの意思を持って動き合体するロボット」という「トランスフォーマー」を独自に継承したロボットの概念をスーパー戦隊に導入したものと考えられる。
だが勇者シリーズがどんなに頑張っても「1号ロボと2号ロボのグレート合体」で止まっていたところを本作は更に「2号ロボと残りの4機が合体」「全ロボ合体」という新境地もまた開拓した。

特に後者の「全ロボ合体」なのだが、キングブラキオンはいわゆる「要塞型ロボ」を上手く落とし込みつつそれ自体を合体パーツにすることで「究極大獣神」という真の姿に昇華している。
全てのロボットを余すことなく使い切ることによってここぞという時の迫力も増す上に、クリスマス商戦では大サタンとの決戦やブライ兄さんの最期を入れることで上手いこと1つの山場を作った。
そう、前作「ジェットマン」が築き上げたクリスマス決戦の盛り上げに加えて「追加戦士が持つ宿命」を軸とした要素が盛り上がったので、これがまんま翌年の「ダイレンジャー」にも継承されている。
しかし「ダイレンジャー」では「ジュウレンジャー」で上手く行ったはずの要素が全て弊害という形で裏目に出てしまい、盛り上げ方にことごとく失敗してしまった

どういうことかというと、「ダイレンジャー」は「気力の資質を持つ5人の若者」のコンセプトからスタートし、1人1人のキャラ立ちを専門家の脚本家をつけることで成立させようとしたのである。
そしてそれがそこそこ上手く行ったものもの、今度は肝心要の追加戦士である少年戦士のコウの存在感が希薄になり弱そうに見えてしまう上、7人目の亀夫に関してはもはや中華拳法とも気力とも無縁のキャラが出来上がってしまった
しかも究極大獣神を継承してできたはずの重甲気殿が単に白虎を緑亀の中に収納して上に天空気殿を載せただけという、「合体」ではなく「収納と搭載」にしかならず盛り上がりに欠けてしまう。
更にはコウの肉親を巡るドラマに関しても無理矢理取って付けた感が否めず、過剰な細部として描いた割には物語を超えるほどの衝撃にはならなかったので、この路線は次作「カクレンジャー」で廃止された。

その「カクレンジャー」ではやはり巨大要塞ロボは出さないほうが良く追加戦士も余計なドラマを避けた方がいいという方針になったのか、肉親のドラマを鶴姫のみに集約させている。
ロボットの構成も全合体ではなく主要ロボット三機に巨大化したニンジャマンという形に止まるのだが、クリスマス決戦で描いたのは「味方のエネルギーを吸収して強くなるダミー」という形を取った。
妖怪ダラダラはいうまでもなく同時代にやっていた「ドラゴンボール」の魔人ブウや「Gガンダム」のデビルガンダムのような「能力剥奪で強くなる敵」なのだが、盛り上がりとしてはイマイチである。
敵を強化させるのではなく味方を弱体化させるという前作までの逆張りなので、どんなに世界の危機みたく演出しようがやはり地味に映ってしまい、段々とその盛り上げ方もマンネリ化してきた。

(3)「ジェットマン」路線を継承した『激走戦隊カーレンジャー』(1996)〜『星獣戦隊ギンガマン』(1998)

現在配信中の『超力戦隊オーレンジャー』(1995)は例外的に「クリスマス決戦」が存在しないのでここでは省略するとして、高寺Pがチーフとして就任した「カーレンジャー」からは「ジェットマン」路線を継承した。
まず「ジェットマン」が持っていた人間ドラマ重視のキャラ造形や物語を「等身大の正義」という形で大々的に打ち出すことによってハードルを下げて、視聴者にとって卑近な存在にまで近づけている。
その上でロボットの構成も実にシンプルであり、「カーレンジャー」ではRVロボ、VRVロボ、サイレンダーのみに絞り、更にクリスマス決戦を「司令官であるダップとの絆の強化」というドラマに使った。
元々カーレンジャーの5人は同じ会社で働く仲良しこよしであった為に戦隊メンバー内で対立や軋轢を生む必要がなく、その分異星人にして復讐者であるダップとの関係性のドラマを描くことができたのである。

ところがこれにも大きな問題はあって、そもそも「カーレンジャー」自体が浦沢脚本を大々的に導入している為にシリーズそのものを構造的にギャグにしている為、「笑い」は生まれても「盛り上がり」は生まれにくい
それに加えて宇宙暴走族ボーゾック自体が凶暴度は歴代屈指でもギャグ組織である為に脅威は高くはなく、よって「宇宙の危機」という緊迫感は生まれにくいので、この「シリアスな場面の作り方」には苦戦する形となった。
そこで翌年の「メガレンジャー」では思い切って「悪の戦隊」として出てくる邪電戦隊ネジレンジャーをクリスマス決戦編として出したのだが、これが意外や意外戦略として上手くハマったのである。
メガレンジャーは健太たちが市井の高校生という設定と合わせて究極の完成形であるネジレンジャーには敵うはずがなく、そこをどうやって切り抜けていくのか?という駆け引きがとても面白かった。

しかもこの前後編では1つ面白い試みとして、巨大ロボ戦と等身大戦を同時進行させる(メガレッドVSネジレッド、メガボイジャー・ギャラクシーメガVSネジブラック・ネジイエロー)という形を取っている。
実はスーパー戦隊のお約束である「等身大戦→巨大戦」というオーソドックスな流れを1つここで破壊しているわけだが、本作ではこの盛り上げ方そのものには大きなドラマが生まれたというわけではない。
しかし、メガレンジャーがネジレンジャーより弱いので強力な敵を1つ1つ分散させて弱体化させる形を取ったが、今度はこの流れを弱いヒーローではなく「強いヒーロー」にて作り雛形として完成させる必要があった。
この二作で試金石として培ったものを踏まえて新たなスタンダードとして完成させたのが「ギンガマン」のクリスマス決戦たるダイタニクス編なのだが、ここでようやく新たな王道としてのクリスマス商戦が完成する。

「ギンガマン」ではやはり「ジェットマン」と同じように年間の大筋を最初から決めており、「魔獣ダイタニクスを復活させる」ことが敵側の作戦目的の縦軸として機能するのだが、ここで更に杉村升が加えた「追加戦士のドラマ」も同時進行させた。
どういうことかというと、表向きではリョウマたちギンガマンVS魔獣ダイタニクスという決戦をしっかり描きつつ、裏では打倒ゼイハブに復讐を捧げるブクラテスとそのブクラテスとの契約でアースを喪失した黒騎士ヒュウガのドラマがあった。
そう、まずは表向きダイタニクス戦でしっかりギンガイオーたちを苦戦させる脅威を演出しつつ、更に終盤に向けて蠢く細部としてラスボスのゼイハブの脅威も描き、更にここでギンガレッドの敗北も描くことで特撮もドラマも盛り上げている
そこからの逆転劇も見事であり、腐敗したダイタニクスを敢えて星獣たちに倒させるバルバン側の策略、瀕死の重傷からの奇跡の復活を果たしたリョウマたちギンガマンたちの逆転のカタルシスもしっかり描きこまれていた。

「ジェットマン」が「80年代戦隊の死」という形で破壊と共に作り上げたクリスマス決戦編のお約束はこの「ギンガマン」終盤のダイタニクス決戦を持って「90年代戦隊の再生」という形でニュースタンダードとして完成を迎えたのである。

(4)「裏の動き」がほとんど無かった『救急戦隊ゴーゴーファイブ』(1999)と「表の動き」が緩慢な『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)

「ギンガマン」で新たな王道として完成を迎えた「ゴーゴーファイブ」と「タイムレンジャー」を見て行くと、個人的にはやはり「ジェットマン」「ギンガマン」を超える濃密な決戦にはならなかったように思われる。
まず「ゴーゴーファイブ」だが、このクリスマス決戦がどうにも食傷気味というか個人的にイマイチ盛り上がりに欠けていたと思うのには2つの理由があるが、1つは「裏の動き」がほとんど無かったことだ。
どういうことかというと、ゴーゴーファイブ側が一枚岩でチームとしてまとまり過ぎているが故にヒーロー側に結束のドラマが生じず、しかも逆転の理由が「梓の母・恵子の流した涙が実に当たってクリスマスツリーの能力が失われたから」という全くの偶然であった。
そしてもう1つ、グランドライナーは「通常の死霊サイマ獣は倒せない」という設定を割と早い段階で描いていたはずなのに、その設定を継承したはずの幽魔サイマ獣である幽魔王サラマンデスをなんの布石も無くそのまま倒してしまうという致命的なミスを犯してしまっている。

逆転劇が実質の「奇跡」だった上にヒーロー側もヴィラン側も知恵を絞って戦ったり悪戦苦闘を演じたりしているような感じがないので、画面上の迫力はそれなりに出ていても細部の部分がその盛り上がりを上手く支えきれていない。
結果として想像以下の盛り上がりとなってしまったわけだが、この「ゴーゴーファイブ」とは真逆の現象が起こってしまったのが「タイムレンジャー」終盤の歴史修正編であり、ここまで見ていってようやく最初に書いたことの意味が納得され得るだろう。
歴史修正命令ではタイムレンジャー5人とリュウヤ隊長、ロンダーズファミリーとギエン、そして直人とシティガーディアンズを巡る三者三様の思惑が描かれており、それを巡っての各自の葛藤が迫力を持って演じられている。
特に一度はタイムレッドを降ろされたにもかかわらず、その歴史をひっくり返す=明日を変えるために動く竜也と歴史の流れに逆らって死の淵から蘇る浅見会長の流れに反してリュウヤ隊長・滝沢直人・ギエンがどんどん孤立していく流れも見事だ。

一見タイムレンジャー&滝沢直人VSギエン・Gゾードというオーソドックスな戦隊シリーズの流れに準じているように見せかけて、実はもっと複雑な勢力図の揺れ動きを描き、それがこれから迎える大消滅の登場の布石として機能する
しかしその反面、タイムレンジャーと直人が敵対することになるGゾードが終盤の決戦に出てくる敵としては迫力があまりにも弱く、「所詮は歴史の一部」という大枠に組み込まれているので全く強そうに見えない

だから、そんなGゾードを竜也たちが倒してもそこには「強大な敵を苦難を乗り越えて倒すカタルシス」が発生せず、ドラマ的な満足度はあってもスーパー戦隊という子供向け番組としての活劇の魅力には直結しないのだ。
実際「タイムレンジャー」はこのクリスマス商戦に限らず年間を通しての玩具販促や特撮作品としてのアピールが弱々しいというか、そこを最初から切り捨ててしまっているためにメインの視聴者層たる児童には刺さらない作りなのであるが。

「表の動きが緩慢」と書いたが、これは俗にいえば「メイン層の子供に対する視覚的アピールが弱い」という意味であり、ここが同時に私の中で「タイムレンジャー」がS(傑作)に到達できなかった理由でもある。
よく「ジェットマン」を「大人の鑑賞に耐え得る戦うトレンディドラマ」と評する人は多いが、単純に大人にアピールするだけの特撮作品なら他にいくらでもあるし、それこそ『超獣戦隊ライブマン』(1988)もその一例だ。
しかしなぜ「ジェットマン」が単なる「大人の鑑賞に耐え得る」だけに留まらずメインの児童にもきっちりビジュアル面の説得力で刺さり時代を超える傑作になったのはその「戦隊の王道」も遵守していたからである。
その意味で「ジェットマン」は「異端児」でありながら同時に「王道」でもあって、それが単なる「異端児」の領域を出られなかった他の異色作と呼ばれるシリーズの作品群と異なり頭1つ抜けた傑作に昇華された理由だろう。

あれ?「タイムレンジャー」の話をするつもりが最終的に「ジェットマン」の話になってしまったが、改めて「クリスマス決戦編」の原点を作ったことも含めて偉大な転換点であったのだなと。

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