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『デジモンテイマーズ』(2001)感想補足〜松田啓人とギルモンは果たしてどのような主人公だったのか?〜

昨日「テイマーズ」の感想・批評を書いたところ、さき姫さんから「啓人は凡人の域を超える事は出来なかった主人公」というコメントをいただいて虚を衝かれた気分になりました。
以前にも「デジモン主人公をRPGのようにステータス化してみた」という記事で「「普通の子」といった感じのステータス」と書きましたが、今回はなぜそのような主人公として描かれたのか?を深掘りしてみます。
とはいっても、もう私の中で答えは最初から出ているので今更驚きや衝撃といえるものはないかもしれませんが、メタ的なことも含めて啓人はもう私の中で分かりにくそうで実に分かりやすい主人公です。

Q、松田啓人とギルモンは果たして何者か?

A、シリーズ構成の小中千昭の分身です。

はい、答えはこれでおしまいです…………で終わらせてしまったら流石に読者の皆さんは納得いかないでしょうから、順番に説明していきます。


(1)「テイマーズ」の核にあるものは「自分探し」

まず、「テイマーズ」に関してはシリーズ構成として小中千昭が入ったことで主題歌「The Biggest Dreamer」の段階から明確な作品のテーマが謳われている。

そう、僕は気づいたんだ
ずっと宿題忘れてた
それはひとつの謎・謎・謎
僕は誰なんだろう?

まあ今見直すとよくもこんな臭い歌詞を高らかに歌い上げたものだと思います、こんな青臭い主張している主題歌とか赤面ものの歌詞ですよ。
とはいっても、別にこのテーマが「テイマーズ」に特有のことなのかというと、別にそんなことはなく初代「デジモンアドベンチャー」の石田ヤマトもダークマスターズ編でこれに近いことを言っていました。

「俺は自分の道を探したい。いや、探さなきゃいけないんだ!」

言うなれば「テイマーズ」がテーマにしていることはこれを年間の縦軸として、少なくとも松田啓人という主人公に関してはこれを貫徹させることはできましたが、はっきり言って私はこういう「自分探し」というのがピンと来ないんですよね。

というのもその「自分探し」というやつのほとんどは単なる現実逃避でしかなく、目の前に降りかかってくる現実を受け入れられず、自己分析・自己理解などの「自分を客観視する」ことができない人のすることだからです。
もちろん世の中には社会的な柵や常識といった枠に囚われない自由な生き方ができる人も数%ながらいますが(その例外の数%に相当するのが「Vテイマー」のタイチ・「02」の大輔・「デコード」のリナですが)、そういう人は自分探ししません
何故ならば常識や枠に囚われない自由な生き方ができる人は理性的であれ本能的であれ自己分析・自己理解がきちんとできていて芯の部分がブレないからであり、石田ヤマトなんてその辺ブレまくって一貫性がなかったじゃないですか。
ファンからは「見た目と声がイケメンなだけで中身は豆腐メンタルのブラコン」とか散々に言われていますが、ヤマトからブラコンを抜いて豆腐メンタルな部分を前面に押し出したのが「テイマーズ」のメンタリティーだといえます。

わかりやすくいえば「テイマーズ」の3人のキャラクターは「石田ヤマトを3分割してみた」という感じなのですよね、要するに石田ヤマトをベースに彼の性格が細分化されています。

  • 松田啓人→無印初期ヤマト(「かっこいいヒーロー(八神太一)」への憧れ、「自分探し」というテーマ、よく涙を流す)

  • 李健良→無印後期ヤマト(自分を見失いやすい、ほんの些細なことで苛立つ、友情の大切さを知る)

  • 牧野留姫→02ヤマト(ぶっきらぼうなツンデレ、シャイな顔の下に熱い思いを秘める、ドライに見えて実は優しい)

つまり「ブラコン」という要素を除いた石田ヤマトという「ヒーローになりきれなかった者」を更にヒーロー性を低減させた完全な「等身大の小学生」として描いたのが松田啓人をはじめとする「テイマーズ」の人物像でした。
それは小中千昭自身の最も得意とする「未成熟な幼稚園児〜小学生男子」の表象であると同時に、人間ドラマをギスギスさせて感動的なヒューマンドラマを作りたがる関弘美Pとの親和性も非常に高かったことの証左でもあります。
関弘美の求める作風と小中千昭の強みとが大筋の部分で一致したからこそ、良くも悪くも「テイマーズ」が「アドベンチャー」以上に歴代で最も「人間ドラマ」を重視した作りになっていたといえます。
だから歴代のデジモンアニメシリーズの中でも「テイマーズ」は世界観といい登場人物のキャラ付けといい最も一貫性が取れていることは間違い無いでしょう。

この大枠を理解した上で、「松田啓人とギルモンは何者か?」について考察していきます。

(2)近い造形は「ドラえもん」の野比のび太や「新世紀エヴァンゲリオン」の碇シンジ

冒頭で松田啓人とギルモンのことを「シリーズ構成の小中千昭の分身」と書きましたが、これはあくまでもメタ的な答えであって決して劇中でもインタビューでもそう言われているわけではありませんが、彼のキャラ造形はそう思わせるものがあります。
啓人は歴代主人公の中で最も「等身大の小学生」として、何だったら精神年齢に関しては幼稚園児レベルの子として描かれていますが、これに近い造形といえば「ドラえもん」の野比のび太や「新世紀エヴァンゲリオン」の碇シンジあたりでしょうか。
いわゆる「アンチヒーロー(ヒーロー性が無い主人公)」ですが、特に啓人のようにコンプレックスや欠点などを必要以上に誇張したキャラクターは大体作者の分身であり「少年時代の自分がそうだった」という経験から出てくることが多いものです。
松田啓人もそういう意味ではのび太やシンジくんの傾向に近いといえ、前2作の八神太一や本宮大輔、否、もっといえば後発の神原拓也や大門マサル・工藤タイキ・明石タギルと比べても「少年らしい少年」という感じを出しています。

啓人が1つ特徴的なのは太一のような突出したカリスマ性があるわけでもなければ、大輔のような鋼メンタルと奇跡の力を持っているわけでも無い、かといってマサル兄貴のような人外クラスの格闘能力を持っているわけでも、タイチのような頭脳派テイマーでも無いということです。
むしろ欠点と弱点しかないのですが、唯一の特技である「夢見る力:∞」が劇中で誰よりもあるので、それをギルモンという空想のデジモンを具現化する形で描かれ、それが最終的にデュークモンというロイヤルナイツを引き当てることにも繋がっています。
のび太に射的・あやとり・早寝という意外な特技があるように、そして碇シンジのように「エヴァの操縦技術」という天才的なセンスがあるよに、啓人にもそういう長所があるという形で描かれているのです。
つまり太一のカリスマ性や大輔の奇跡に取って代わるものが啓人にとっての「空想力(妄想力に置き換えてもいい)」であり、歴代のデジモンシリーズが大切にしている「思いの力」そのものを色濃く継承しています。

そしてそんな啓人の妄想力によって誕生した「ギルモン」ですが、アグモンをベースにして生まれただけあって成長期ののんびりながらも好戦的な性格やいざとなったら戦う意志の強さなどは似ているものです。
同時にそれは啓人の潜在意識の「こうなりたい」の具現化でもあって、パートナーデジモンの性格を見るとそのテイマーの表面化しない潜在意識が露骨な形で出る鏡写しのような関係性になっています。
啓人とギルモンの場合は太一とアグモン以上にのんびり穏やかな泣き虫の感動屋、しかし自分にとって本当に大切なものを守るためなら戦うのも厭わないという意味では人並みの正義感もあるでしょう。
太一や大輔のような目に見える形ではない長所と短所が合わさってできたシリーズ随一のアンチヒーロー、すなわちのび太やシンジくんのような存在こそが松田啓人とギルモンの本質ということになります。

(3)「空っぽな器」の中に収まったのはたった一人の女の子

そういう意味では最初から器がある程度できていた太一や大輔とは違って、啓人の場合は最初から空想力以外にこれといった才能はなく「空っぽの器」だったといえます。
戦いの中で器の中にいろんなものを入れていって1年がかりで完成させるのですが、まさにこれは「ドラゴンボールZ」の主題歌にある「頭空っぽの方が夢詰め込める」です。
ギルモンの声が孫悟空でお馴染みの野沢雅子であるのもきっとそういう「少年の心を持った存在」として描かれているからであり、デュークモンになると性格も演技も完全に「Z」の大人悟空になります。
「デジモンアドベンチャー」「デジモンアドベンチャー02」が持っていた「成長と進化」の図式をよりストレートかつダイレクトに表したのが「テイマーズ」の成長と進化の図式なのかもしれません。

しかし、問題はその「空っぽな器」の中に収まったのが結局は加藤樹莉というたった一人の女の子とクルモンしかいなかったことであり、それを守ることが啓人とギルモンのゴールになってしまいました。
これが私から見るととんでもなく物足りないのであって、言うなれば「大長編補正の働かないのび太くん」のようなものなのです、啓人とギルモンはどこまで行こうとたった一人の女の子しか守れません。
すなわち、太一や大輔のような「ヒーロー」としてのジャンプアップが啓人には許されず、最後の最後まで「等身大の小学生」から抜け出ることはなく、それがどうにも私やさき姫さんからすると物足りないのです。
だって、たかが一人の女の子を守るということであればデジモンというモンスター育成ゲームを使わなくてもいいし、もっといえば現実のモテ男で高収入で力のある男なら誰もができることでしょう。

そんな現実の男なら常人であってもできるようなことを啓人ができるようになったから何だというのでしょうか?言っておきますが「小学生だから」は言い訳になりません、所詮フィクションなんだから。
「デジタルワールドを守ったじゃないか」と言いますが、その直接的な決定打となったのはむしろ秋山遼やジェンであり、啓人は徹頭徹尾ジュリを守る以外のことをしていません。
クリムゾンモードという特別強化形態までもらっておきながら成し遂げられたのが「女の子を守れました」というのはあまりにもゴール設定としてのハードルが低すぎやしませんか?
近年でいえば「鬼滅の刃」の竈門炭治郎もそうですが、人間ドラマをやたら前面に押し出したがる作品の悪癖がヒーロー性を低減させる代わりに達成感やカタルシスもさほどないのです。

(4)八神太一・本宮大輔との違い

最後に前2作のアニメ版太一、そして大輔と3人の主人公で比較して見ますが、私の中では上記も踏まえてどう違うのかを比較検討してみましょう。
私の中ではこんなイメージです。

  • 八神太一……ヒーローたらんと望み力に固執する等身大の小学生

  • 本宮大輔……力に恵まれすぎた等身大の小学生をやっているヒーロー

  • 松田啓人……ヒーローに憧れて等身大の小学生をやっている幼稚園児

まずアニメの太一に関してはこれまでの考察を集約すると「ヒーローたらんと望み力に固執する等身大の小学生」です、これは大輔との比較だけではなく「Vテイマー」のタイチとの比較の中でより鮮明になりました。
ファンや信者の間ではカリスマリーダーとして祭り上げられ神格化されがちな太一ですが、根幹にあるものは「力への執着」と「暴走する正義」であり、とにかく力を手にすることがデジタルワールドを望む最短ルートだと信じているのです。
だからこそ勇気の紋章に選ばれたわけですが、その勇気とは「無謀」と表裏一体であり、太一は「ヒーロー」であったと同時にデジタルワールドからしたら「破壊者」でもありました。
タイチにすら会うことができず、「02」で自分のゴーグルも含めて望んでいた「ヒーローとしての力」を全部大輔に譲る形になった太一はデジタルワールドを愛しデジタルワールドに愛されなかった報われないリーダーです。

太一は「ヒーローになれる可能性」を秘めていて実際に一時的にはなれましたし、それは既定路線の狙い通りに作られたヒーロー像でしたが、だからこそ当初の構想以上の存在にはなり得ませんでした
これとは逆に大輔は「力に恵まれすぎた等身大の小学生をやっているヒーロー」であり、大輔はあくまで「ヒーロー」が根底にあって、それが「等身大の小学生」の皮を被っているという構造になっているのです。
もちろんこれは当初からそのように決まっていたわけではなく、20話・21話の奇跡のデジメンタルからの流れでそれが露呈しましたが、逆にいえばそれは作り手の想定になかったものであったといえます。
むしろ作り手の想定になかったからこそ太一とは全く違うヒーロー像を確立し、デジタルワールドも私生活も全てを守り通せる100年に1人のタイチに匹敵しうる圧倒的ヒーローになり得たのではないでしょうか。

そして啓人は「ヒーローに憧れて等身大の小学生をやっている幼稚園児」であり、肉体年齢が小学生というだけで彼の精神年齢は小中千昭の分身なだけあって、ちょっと突けばすぐに泣いてしまう幼稚園児そのものだといえます。
まだまだ彼は「憧れ」の段階に留まっていてたった一人の女の子を守ることで精一杯であり、尚且つデジタルワールドから離れてもまだその夢を見たいと願っている未成熟な魂のままなのです。
つまり啓人はその2人がたどり着いたハードルよりも遥かに下の段階がゴールになっていて、むしろそのヒーロー性は全部途中参加の秋山遼に持って行かれたという格好になってしまっています。
その秋山遼ですら「テイマーズ」が定めた既定路線のルールには逆らえなかったのですから、それも合わせて余計に松田啓人とギルモンが「ヒーローになりきれなかったアンチヒーロー」の印象が強まるのでしょう。

だから私にとって「テイマーズ」という作品並びにその主人公・松田啓人とギルモンを奥底から好きになれないままうまく跳ねられずに終わってしまったという印象は否めません。

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