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高寺P三部作(『カーレンジャー』『メガレンジャー』『ギンガマン』)はスーパー戦隊シリーズにおける「ブリットポップ」だったのではないか?

現在『忍者戦隊カクレンジャー』をYouTubeで再視聴中だが、3話の冒頭のシーンでこんなやり取りがある。

鶴姫「サスケ、サイゾウ!少しはお店手伝ったら?」
サスケ「おことわーり!俺たち妖怪退治が専門でクレープ焼くのは仕事じゃないもん」
サスケ&サイゾウ「「ねー」」
鶴姫「あ、そう!だったらいいわよ、いくら妖怪退治したってお金貰えるわけじゃないし!そうだセイカイ、稼いだお金で今夜ステーキ食べに行かない?」
セイカイ「いいねいいね!」
鶴姫&セイカイ「「ステーキ!」」

今見直すとなんともしみったれたケチくさいシーンであるが、リアルタイムで見ていた時は子供心に「ヒーローがこんなこと言っていいの?」などと思っていた。
前作「ダイレンジャー」にしたって、3・4話で大五以外の4人が私用でヒーローの使命を疎かにして導師からお灸を据えられるシーンがあったんだっけか。
「ダイレン」「カクレン」の二作は「ジェットマン」が内包していた「ヒーローらしくなさ=アンチヒーロー」をより前面に押し出した作品だった。
その表れとして、ヒーローとしての任務を背負っているものがなぜだかけち臭くしみったれた経済事情を口にすることがある。

コメディとして幾分戯画化されてはいるものの、90年代の日本の景気はとんでもなく落ち込んでおり、のちに「就職氷河期」と言われるほどに働き口が激減していた時代である。
会社の再建(リストラ)に伴う大量の整理解雇が行われ不況の国となった日本の中で、もはや人々は夢を見ることも叶わず目の前の生活をなんとかすることで精一杯だった。
その煽りをスーパー戦隊シリーズだって受けなかったわけじゃない、もはや80年代までの安全保障に守られた上で作られた完全無欠のヒーローなんて説得力を欠いていたのである。
サスケたちは妖怪退治の旅を続けるだけでは生計を立てられず、地道にクレープを販売しながらその日暮らしをするというひもじい生活を強いられているのだ。

そして「ステーキ」という言葉で簡単にサスケとサイゾウが丸め込まれてしまうのも今見るとナンセンスだが、当時はステーキというと庶民がおいそれと食べられない贅沢品だった。
今は何でも大量生産大量消費の時代だから、ガストなりサイゼなりやよい軒なりといったファミレスに行けば安い値段でもステーキなんて食べられるが、当時は本当に高級料理だったのである。
もちろん杉村升を始め当時の作り手がこんな時代背景や社会問題を風刺・皮肉する意図をもってこのシーンを描いたとは思わない、単なる日常の一環として入れたつもりであろう。
ところが、ブラックジョークとはそういうもので作り手が意図すらしていないシーンが受け手に思いも寄らない解釈の余地を与えてしまうことだってあるのだ。

そもそも「カクレンジャー」という作品において、サスケたちだって「妖怪退治が仕事でありクレープ焼くのが仕事じゃない」とボヤいているが、本当にそうだろうか?
2話目でいきなりヒーローの使命に目覚めたかのようになっているが、そもそも妖怪退治自体サスケとサイゾウが金に目が眩んで騙されなければ起こらなかったマッチポンプである。
そんな自分たちのミスから生じた尻拭いをやっているだけであり、これは言うなれば借金返済と同じでマイナスをゼロにするだけで大した有難味があるわけでもない。
当時はお手紙などでそういった批判的要素が寄せられていたくらいだから、今そういう作品が作られていたとしたらSNSで炎上していたと思われるくらいに酷いのだ。

サスケたちにとって妖怪退治の旅は決して心の底から望んだ戦いでもなく、また「シンケンジャー」程ガチガチのヘビーな世襲制の宿命でもない。
「カクレンジャー」をガチガチにシリアスとして描こうと思えば「シンケンジャー」のような話にできるわけだが、そのような作風や展開は絶妙に避けられていた。
というか、そもそも妖怪退治の使命を帯びるまでサスケたちはフリーターだったのだから、そのような戦士としての強固なバックボーンなど持っているはずもない。
カクレンジャーの初期の戦いが緊張感に欠けるように見えるのは決して不思議コメディテイストという作風のせいだけではなく、サスケたち自身の志の低さにもある。

1990年代、冷戦が終結して表向きは平和が訪れたように思われるが、今でも日本の外に出るとくだらない内戦・民族衝突・武力紛争が繰り広げられているのだ。
我々日本人がたまたまその戦場に住んでおらず表向きの平和を謳歌しているだけで、無数の血まみれの歴史という重い代償を払った偽りの平和が当時の日本社会を覆っていた。
先人たちが崇高な理念(笑)などというものに向かって突き進んだ結果、払わなくてもいい無用な犠牲を払い続けているのが平成初期の平和ボケした日本の世相だったのである。
そんな中において若者が大人たちに憧れることはなかったし、先人の真似して無茶してしまった結果潰れてしまったのでは元も子もないと思うのは当然の帰結だ。

だが、何の目標もないままでは単に覇気の無い若者が際限なく戦うだけの締まりがない話になってしまうから、どこかで真面目な路線に引き戻す必要はある。
とはいえ、じゃあ単に昔に先祖返りさせればいいのかというとそうでもなく、何の工夫もなく冷戦以前の世界観に戻した結果が「オーレンジャー」の失敗であった。
あの作品が示したことは既に冷戦時代の精神性と世界観が化石となってしまい大した迫力や説得力を持たないということだったのではないだろうか。
そんな失敗を見てきた髙寺成紀Pが「カーレンジャー」「メガレンジャー」「ギンガマン」の三作で打ち出したのが「自然体で等身大な若者たちの物語」という「ブリットポップ」路線である。

「ブリットポップ」というのは1990年代にイギリスで流行ったポスト・ビートルズ以降で出た最後の国民的ムーブメントであり、彼らは日常の鬱屈や理不尽に不満をいうのではない。
なんぼ理不尽なものに文句を言って逆らったところで現実は結局変えられないと示されているからであり、ブラーにしてもオアシスにしても無茶なことは決して言わなくなる。
逆にその理不尽な日常の鬱屈を受け止め肯定した上で、それといかに上手に付き合いながら「ありのままの自分」という人生を生きていくかを歌ったのだ。
それが人々の心に刺さって国民的ヒットへと繋がったわけであるが、高寺Pが「カー」「メガ」「ギンガ」の三部作でやろうとしたのはそれだったのではないだろうか。

「カーレンジャー」の2番では特に「気取ってばかりいたってダメだよ 自分にもある弱さを知れば本当のヒーロー」と歌われており、これが最も「ブリットポップ」の精神を表している。
そう、ヒーローだって単に強いだけでは続かず心が折れてしまい本質を見失ってしまう、だから弱さと向き合い「弱い自分」を含めて肯定してこそ真のヒーローになり得ると提唱したのだ。
その路線を継承しつつも新たなスタンダード像としての戦隊ヒーローが「ギンガマン」なのだが、この辺りの流れを見ていくと90年代のスーパー戦隊シリーズの激動は実に興味深い。
まあとはいえ、こんな風に考えてくれる特撮ファン・スーパー戦隊シリーズのファンも中々いないのが難点ではあるのだが……。

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