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漫画版『ゲッターロボ』の面白さ〜石川賢は「顔」と「動き」の作家である〜

さて、最近サイレント映画も基礎となるものをある程度見たので、そろそろここら辺で違う刺激が欲しいなあと思い、石川賢の漫画版『ゲッターロボ』を読んでみる。
実は漫画版自体は高校生の時にほんだらけで愛蔵版にて購入し狂ったように読んでいたのだが、今改めて読み直しても非常に面白い
『虚無戦記』『魔獣戦線』『ゲッターロボ號』辺りになると劇画タッチになり、線が多くなっていき情報量が多くなるが、初期の石川漫画の絵柄はコミカルでありながら天才的な躍動感がある
アクション漫画の傑作というと、どうしても横山光輝・白土三平辺りが想像されるが、やはり石川賢もまたその系譜として評価されるべき作家ではなかろうか。

永井豪の漫画版『マジンガーZ』は正直あまり面白みがなく東映テレビ版の方が断然面白いのだが、『ゲッターロボ』に関しては上原正三が脚本を担当した東映版より石川賢の漫画版の方が圧倒的に面白い
だが、その理由は決してクレイジーなキャラクターや狂気といった物語の部分ではなく、やはり「顔」と「動き」に躍動感があり、本来なら重苦しいはずの過酷な戦いをスピーディーに運ぶためである。
私が漫画版『ゲッター』を見て面白く感じるのは物語の面白さやキャラクターの破天荒さ、ぐるぐるの目といったような部分ではなく、やはり石川賢が表す絵の運動それ自体によってであろう。
狂気だのなんだのと言われるが、石川賢が描く世界観には常にどこか孤独さや悲劇的な空気が物語に横たえており、主人公がどことなく痛みや苦しみを背負っているような設定が多い

例えば主人公の流竜馬、アニメ版だと優等生のサッカー部キャプテンというありがちな原初的ヒーロー像に則っているが、石川賢が描く竜馬は父親を空手界から追放した連中の仇討ちを狙う復讐鬼である。
父の遺影の写真を形見に空手大会に乗り込んでトロフィーを壊し、出場していた選手たちをバッタバッタとなぎ倒し最終的には会長の額にライダーキックを食らわせ、会場を滅茶苦茶にして去っていく。
並の漫画家だったら「復讐」をテーマに大河ドラマを組んでも良さそうなところを冒頭であっさり消化していまい、生きる目的を見失っていた竜馬を早乙女研究所の連中が強襲する。
ここで竜馬は身の危険を感じ、奥底に眠る闘争心に火が着いて屈強な殺し屋たちを次々と始末していくのだが、ここまでたった数ページであっという間にテンポよく進んでいく。

続く学生運動の過激派天才活動家の神隼人をスカウトする時も同じように、隼人のスカウトに竜馬が乗り込み、まずは一対一の生身でのアクションによって双方の格を立てる。
今度は竜馬の時とは違いいきなり実戦に投入されるわけだが、普通ならこの展開は非常に重苦しくなりそうなものであり、いくら学生運動の活動家とはいえ、いきなり恐竜帝国との戦いに駆り出されるのは理不尽だ。
しかし、隼人もまたそうした戦場の狂気に飲まれるのだが、ファンがよく口にする「狂気」の表れとして用いられる「グルグル目」は闘争本能が奥底から刺激され潜在能力が爆発的に高まった時である。
その目と顔のダイナミズム、そして動きの躍動感によって本来なら極めて深刻かつ重厚な叙事詩のようになってもおかしくない「人類と恐竜人類の過酷な生存競争」という物語的なテーマをテンポよく運ぶのだ。

どうしても石川賢というと展開や設定の破天荒さ、後期の「ゲッター線とは?」「虚無る」といったことばかりが語られがちだが、まず褒めるべきは表層としての絵に込められている運動それ自体である。
しかも何が凄いといって、横山光輝や永井豪ですら漫画版では今ひとつ演出しにくかったロボットアクションのダイナミズムというか、躍動感を上手く表現されているのだ。

画像は竜馬が初めてゲッター1を操縦しゲッタートマホークでの大立ち回りをするところだが、臨戦態勢で前のめりに戦う流竜馬とトマホークを取り出すゲッター1の迫力を見事に活写している。
だから奥底に悲しさ・切なさといった悲劇的なペシミズムがそこはかとなく漂いながらも、それを登場人物とロボットの顔と動きによって極めて重苦しさを感じさせずに運んでいくのだ。

もちろん最初に読んだ時は東映アニメ版との違いに衝撃は受けたが、竜馬たちがテレビ版とは全く異なるキャラや筋運びになっているのは、決して戦いの重苦しさや過酷さを表現するためのものではない
この設定にすることで過酷な設定や物語を決して読者に「重い」と感じさせず、むしろテンポよくスイスイ読めるようにしているわけであり、その絵の運動の見事さに読み直すたび感嘆するのである。
絵の表現としてみると、いきなり恐竜に咬み殺される描写やイモリに乗っ取られ支配される人間を焼却する描写などがあるのだが、これらは今の時代なら表現の規制を食らうか、できても青年向け雑誌になるだろう。
しかし、このような絵の迫力をあくまでコミカルかつスピーディーに描いていくことによって、少年向けとしての範疇にギリギリ収まるようになっているのだ。

今の漫画家であればそこで一々わざとらしいドラマを捻ったり御涙頂戴にしたりしそうな展開をアクロバットに、必要最小限のコマ割りとアクションの躍動感で進めていく
このコマ割りとテンポの良さ、瞬間の感覚といった漫画として持ちうる魅力を持つ石川賢は間違いなく天才作家なのだが、どうしてもほとんどの人は設定や展開、人物のエキセントリックさに目を奪われる。
だが、漫画として見る「ゲッターロボ」の凄さは何と言っても石川賢のデフォルメとコマ割り、「顔」と「動き」の躍動感をもって表現される絵の運動の軽やかさが魅力的なのだと思う。
重苦しいはずの戦いなのに、武蔵の壮絶な最期を除いて悲壮感があまりないように見えるのはまさにその天才的な画力が生み出す闘争本能の感覚によるものではなかろうか。

個人的に、その石川賢の漫画版を参照して作られた「チェンゲ」以降のOVA版や漫画にない部分をオリジナルで保管したアニメ版「ゲッターロボアーク」がイマイチなのはまさにそこである。
石川賢の天才的な画力と構成力がもたらす絵の運動の絶妙さはアニメではとても再現し得ないものであり、アニメでは石川賢の作家性である「爆発する闘争本能」の感覚を出し切れない。
また、そういう意味で石川賢にオマージュを捧げつつ、ガイナ版石川ワールドとして作られた中島かずきらガイナックスの『天元突破グレンラガン』もそれに失敗している。
どれだけ疑似的に石川賢テイストを再現しようとしても、あの絵の運動がもたらす躍動感と軽やかさは他ならぬ石川先生以外には表現し得ない作家性なのではなかろうか。

そう考えると漫画の歴史において実は石川賢もいわゆる「スポ根」とは違うアクションのダイナミズムの確立に貢献した作家だなあと思う。
本当に無駄がなくテンポよく進んでいくので、永井豪の「デビルマン」の文学的な凄みとはまた違う、とことんまで「アクション」に振り切った漫画の金字塔である。


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