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DAO?YouTubeやTik Tokのショート動画?そんなものは昔からあります

ネットで活動していた時、かつてこんなAA(アスキーアート)が2ch(今の5ch)にて流行ったことがあった。

      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧   良い子の諸君!
    (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  
    |ヽ   ⌒γ ⌒ ) r'⌒ `!´ `⌒) よく頭のおかしいライターやクリエイター気取りのバカが
   │ ヽー―'^ー-'  ( ⌒γ ⌒
 / 「誰もやらなかった事に挑戦する」とほざくが
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' |  大抵それは「先人が思いついたけどあえてやらなかった」ことだ
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 |  王道が何故面白いか理解できない人間に面白い話は
   |  irー-、 ー ,} |    /     i    作れないぞ!
   | /   `X´ ヽ    /   入  |

これはネットに跳梁跋扈している「王道」とは何かを理解せずに物語を作っている人たちを揶揄するAAであるが、昨今のスーパー戦隊シリーズの酷さを見ると強ちネタに思えない。


まあスーパー戦隊シリーズに限らず、実はあらゆる流行や表現が「斬新」「革新的」と持て囃されているわけだが、本当に革新的で画期的なものがリアルタイムで評価されることは難しいのである。
分かりやすい例が『機動戦士ガンダム』(1979)、『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)、『仮面ライダークウガ』(2000)辺りであろうか。
これらの作品はいずれもリアルタイムで正当な評価が得られたわけではなく、時間がある程度経ってからブームが起こって時代が下るに従って評価されてきたものばかりだ。

以前も述べたが、真に革命的なものや未知のものに遭遇すると、人は大抵「胡散臭い」「詐欺」「新興宗教」といったもので片付けてしまい、科学的根拠による論証を求める。
しかし、「誰にとっても分かりやすく馴染みやすいもの」とは所詮下流の三次情報であり、上流の一次情報ではないのだから実は取るに足らないものが殆どなのだ。
「王道」と呼ばれるものがバカにされやすい理由もここにあって、「誰にとっても馴染みやすい三次情報」として伝わるのが大衆向けの「王道」といえる娯楽である。
これは以前に親友の黒羽翔さんがXのスペースで言っていたが、例えばゲームでいうと「スーパーマリオブラザーズ」「ポケットモンスター」は誰にも馴染みやすい王道だ。

こういう作品は得てして真似されやすく、例えば「マリオ」の後には「五右衛門」「ロックマン」をはじめとする二匹目の土壌狙いといえるアクションゲームが五月雨の如く誕生した。
「ポケモン」に関しても同じように「たまごっち」や「デジタルモンスター」「ドラクエモンスター」などのモンスター育成ゲームが90年代後半〜00年代初頭にかけて台頭している。
しかし、不思議なことに長い目で見ると、実は「マリオ」も「ポケモン」も最終的には息の長いシリーズとして生き残り、反対に二匹目の土壌狙いの作品は悉く廃れていった。
「王道」と呼ばれるものの難しいところは、よほど強固な基礎土台を最初の段階で構築し、なおかつ後のシリーズで自由に遊べる発展の余地を残しておかなければならない

今でも残り続けているシンプルかつ大胆な作品とはそういうものであり、上のAAは真の「王道」がそういうものだということを理解していない人に面白い作品は作れないと言っているのだ。
そしてそれを別の言葉で言い換えるなら「斬新・革命的と称されるものは実は既存のフォーマットをただ現代風に洗練させて焼き直しているだけ」の場合がほとんどなのである。
私がスーパー戦隊シリーズをはじめとしてあらゆる作品論で語ってきたことの真意はある種ここに全て帰結するともいえ、今の世の風潮に対する異議申し立てとして主張したいところだ。
例えば今だとYouTubeやTik Tokでショート動画が主流になっていてロング尺が落ちていること、そしてまたDAO(分散型自立組織)の概念が台頭してきていることが挙げられる。

しかし、DAOにしろショート動画にしろ、今そういうものが珍しいと声高に叫んでいる人たちは実はそれが昔からあるものの形を変えた再生産であることに気付いていない。
ショート動画に関していえば、あれはトーマス・エジソンが映画の黎明期である19世紀末に開発し20世紀初頭まで流行した「キネトスコープ」の現代復刻版であろう。


エジソンというとどうしても電球発明の金にがめつい天才おじさんというパブリックイメージがあるが、実は映画史を語る上で外せない超重要人物でもある。
その後劇場の大スクリーンによって映画がサイレント→トーキーを経てナラティブ・フィルム(物語映画)という古典的ハリウッド映画のスタンダードとして完成した。

それが一定の形を成して来ると今度はカイエ派を中心としたヌーヴェル・ヴァーグという革命が起こって映画史も劇的に変わるのだが、時代が下ると共に斜陽産業になっていく。
何故ならば映画館に足を運ばなくても人々の生活にはテレビという小型映写機があるため、それで見ればわざわざ映画館に足を運ばなくても事足りるからである。
そしてそのテレビもまた最初はごく短い動画から始まったものがいつの間にか長編のものを作ったりバラエティを作ったりといった感じで細分化していく。
そのテレビがはたまた時代が下って落ちて来ると、今度はそれがニコニコ動画やYouTubeといったネットの映像ビジネスになり、その中で細分化をしてきた。

結局のところ、人類の歴史は一見時代とともに変化を繰り返してきたようでいて、実は本質的な部分においては単に昔やっていたことを繰り返しているだけだったりする。
ショート動画が流行っているのも所詮は今だけの一過性のものであり、ショート動画が擦られまくったら飽きが来て今度はライブ配信が徐々にメインの収益源となるだろう。
そしてそのライブ配信では逆に長尺がメインとなり、といった風にショート→ロング→ショート→ロングの流れを表現媒体の経過とともに繰り返しているというだけの話だ。
そんなものが今更のごとく珍しいと持て囃されているということは、逆にいえばショート動画にはもはや何の旨味もなく、真の天才やセンスがある人はもう既に次の段階へ向かっている

DAOに関しても同じであり、これも結局は平安時代→鎌倉時代の流れを現代版として繰り返しているだけであって、DAO(分散型自立組織)の概念時代は昔からあった
何だったら、スーパー戦隊シリーズにおいては既に『大戦隊ゴーグルファイブ』(1982)の時点で曽田博久をはじめとする当時の作り手が既にそれを作り上げていたのである。
嘘だと思うなら実際に見てみるといい、明らかに軍事戦隊の色が濃い中央集権型の上原正三メインライター時代のスーパー戦隊とは組織のあり方が根本から異なっているはずだ。
何だったら、全共闘を掲げていた学生運動が掲げていたところもある意味ではDAOに近いものであり、中央集権型の日本政府に対する不信感からそれに取って代わる組織を作ろうとしていたのである。

私が何故令和に入った今でもスーパー戦隊シリーズに軸足を置いて研究しているのかというと、スーパー戦隊シリーズこそが「組織論」「集団のあり方」のイロハを子供向けに伝えてくれるからだ。
そしてまた、今持て囃されているもののほとんどが実は先人によって既に考えられていたことであるというのを理解することによって、違うポイントからスーパー戦隊シリーズが再評価される可能性がある。
実際、私はスーパー戦隊シリーズを見て、フィクションとはいえ「組織とはどうあるべきか?」「悪の組織は何故滅ぶのか?」を時代の移り変わりと共に様々な形で体感して来たからだ。
たかがスーパー戦隊、されどスーパー戦隊ということもあるので、ことDAO(分散型自立組織)について手っ取り早く学びたいならスーパー戦隊シリーズという具体を見てみるといい。

物事は何でも温故知新、常に古き原点を知り温めることで新しいものへと生まれ変わらせるということから始まる。
逆にいえば、そこの基礎基本を学ばずして真に創造性のあるものは生まれないということではないだろうか。
DAOもショート動画も決して目新しいものではない、ルーツを辿れば過去にそれらしきものはあるはずである。
そういう前例が一切ないものこそが真のエポックメイキングなのであって、それらは理解されるのに最低でも半世紀以上はかかるものだ。

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