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『ドラゴンボール超』アニメ版の評価とファン層のズレとの違和感

こちらの記事で「ドラゴンボール超は人造人間編からブウ編のドラゴンボールよりも更に面白くなくなっている気がするのですが、どんな違いがあるのでしょうか?」との質問をいただいた。
そういえば、以前のブログでもこちらでもまだ『ドラゴンボール超』の評価を書いていなかったと思い書かせていただくが、とよたろう先生が描いている漫画版は今回は評価の対象に入れない。
今回評価するのは鳥山先生が直々に脚本・原案を務めた映画作品4つ(『神と神』『復活の「F」』『ブロリー』『スーパーヒーロー』)と2015年〜2018年に放送されたアニメ版のみとする。
また、ネタ被りしている序盤の方はあくまで映画準拠としてのみ評価しアニメ版の序盤は評価の対象に加えない、また原作漫画の評価とは違いあくまで「スピンオフ」としての評価となる。

したがって、原作漫画とは根本的に別軸の評価として見ているのだが、その上で評価すると現時点では以下の通りである。

  • 『神と神』評価:B(良作) 100点中70点

  • 『復活の「F」』評価:F(駄作) 100点中20点

  • 『第6宇宙』評価:C(佳作) 100点中60点

  • 『未来トランクス』評価:E(不作) 100点中40点

  • 『宇宙サバイバル』評価:A(名作) 100点中80点

  • 『ブロリー』評価:SS(殿堂入り) 100点中120点

  • 『スーパーヒーロー』評価:A(名作) 100点中80点

  • 総合評価:C(佳作) 100点中67点

『ブロリー』は歴代最高傑作の映画だから別格としても、全体で評価すると意外にも悪くはなく、総合評価としてはC(佳作)なのでまあ悪くはないのではないか?
個々の評価を詳細に述べるのはめんどくさいので簡潔なコメントで済ませるが、アニメ版で一番評価が高かったのはやはり宇宙サバイバル編(力の大会)である。
作画もとても良くなっていたし、ジレンの存在感は流石に全盛期のフリーザには及ばないまでも悪くなかった、悟空やベジータのパワーアップに17号の活躍も見所満載だった。
また、その力の大会程ではないが第六宇宙編も個人的には決して悪くはなく、特にヒット戦で見せたブルー界王拳は最初のベジータ戦のオマージュもあって個人的には好みである。

少なくとも「GT」よりはベジータの昇格も含めて色んなキャラクターに活躍や見せ場があったし、何より原作者・鳥山明が自ら手がけているかどうかの差は想像以上に大きい。
「GT」は作画と音楽は悪くないのだが、やっぱり原作者に無許可で監修なしで作ってしまったことの弊害が出ていて、特に戦闘シーンのショボさと悟空以外の扱いの悪さは如何ともし難いものだ。
ゴジータ4は悪くなかったが、やはりゴジータブルーとブロリーの決戦の迫力と活躍を見た後では霞んでしまうし、何より悟空以外の扱いがすごく悪いのがどうしても引っかかる。
これは人造人間編以降に出来上がってしまった汚点が更に悪化した結果なのだが、「超」は完璧とはいえないまでもその辺りの格差を是正しようと作り手が腐心している感じはある。

とはいえ、全盛期の鳥山明が手がけたナメック星編(フリーザ編)までの神話にはとても太刀打ちできるものではないし、そもそも私は人造人間編以降を正式な『ドラゴンボール』と認めていない
しかし、だからと言って頭ごなしに上から目線で全部を否定してしまうと「この懐古厨が!」と宣ってくる新規層もいるので、評価軸を別物として割り切ることで何とかよく見ようとしているのである。
逆にいえばそこまでしないといけない程に今の「ドラゴンボール」が作品としての価値も商品としての価値も落ちている訳だが、この点に関して私はファン層の評価のズレとの違和感がどうしても拭えない。
それは何かというと「ドラゴンボール」は原作漫画およびアニメ版「Z」までが神がかっていて、それ以降は全部カスみたいな評価だが、それって何だか富野由悠季論に似た気持ち悪さを感じる。

どういうことかというと、富野由悠季ファンにも色々いる訳だが、とりわけ「ファースト」「イデオン」までを賛美し、それ以降が全部カスみたいな評価の仕方である。
まあこれは私自身もスーパー戦隊シリーズの評価において少なからずやっているところなのではあるが、私も別に「ガオレンジャー」以降のスーパー戦隊の全てを否定しているわけではない。
スーパー戦隊シリーズが『未来戦隊タイムレンジャー』までで巧まざる歴史の蓄積を積み重ねてきたことと『百獣戦隊ガオレンジャー』以降で商業主義に流されてしまったことは延長線上にある。
もともとスーパー戦隊シリーズ自体、『ウルトラマン』『仮面ライダー』と違って大人の鑑賞にも耐える高尚な文芸作品なるものを目指して始まったシリーズではない。

だから基本的には子供向けの玩具販促ありきで作っていていいわけだが、積極的な後継者や人材育成といったところにエネルギーや労力を割かなかったために今の体たらくがあることも否定できないのだ。
富野のロボアニメも似たようなものであり、当時のサンライズアニメが『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』辺りのヒット作を作ってきたことと『戦闘メカザブングル』以降で凋落したことは別事項ではない。
元々富野も安彦もロボアニメ、もっといえばアニメーションという媒体自体が嫌いであり、本当は実写映画をやりたかったのにそれができなかったことの鬱憤を作品の中で晴らしていたのである。
それが「イデオン」辺りまでは奇跡的にプラスに働いていたが、時が過ぎてロボアニメが再び安定期に入るようになった時、富野や安彦のやり方は古臭くなり世間からは望まれなくなってきた。

だから鳥山明の『ドラゴンボール』も全く同じことであり、鳥山明の天才的な画力やコマ割りといった構成力、また界王拳や超サイヤ人などの数々の発想は間違いなくジャンプ漫画の歴史を塗り替えたのである。
物語が通俗的でつまらないことをあの画力と見せ方によってねじ伏せ、「ドラゴンボール争奪戦」を主軸として展開される物語構成はそれまでの単なる戦うだけのバトル漫画やスポ根漫画とは一味も二味も違っていた。
そういう意味で鳥山明ならびに彼の才能を発掘して超一流に育てた鳥嶋編集長(マシリト)は確かに素晴らしかったのだが、かといって当時の集英社の体質や方針そのものまでを変えさせることはできていない
人気があるからと無駄な引き伸ばしをして作家を酷使し潰したという点においては決して鳥山明だけではなくマシリトら編集側にも大きな責任はあるわけであり、原作漫画自体にも大きな問題はあった。

そして何より、当時の東映アニメもまた引き伸ばしによってクソみたいなオリジナルの回や短編映画を量産しまくっていて、当時はともかく今はとてもまともに見れたものではない
悟空は単に強くなりたいだけの男なのに短編映画だと「地球を守る」だのといった正統派ヒーローみたいなことを言い出すし、ベジータの扱いはめちゃくちゃ粗雑である(特に旧ブロリーのあれは擁護不能)。
それは原作者に無許可で作られた「GT」においても同じであり、あれだって当時はめちゃくちゃ批判され扱き下ろされたのに、今では「超」が酷いもんだからと過剰に美化して持ち上げられている。
それと同じ現象は原作漫画でも起こっていて、私たちの世代までならやはりナメック星編までが物語のピークでそこを終わりにすればよかった、後は蛇足というのが当時の見解だったのだ。

しかし、その後新規層で入ってきたファンも含めてセル編や魔人ブウ編も含めての原作漫画だろうみたいな過剰な擁護があまりにもひど過ぎて、今や評価が完全に混沌としていてエントロピーの増大が起きてしまっている
私が感じている違和感はまさにそこなのだが、最近では「超」でベジータの扱いが非常に良くなる反面悟空の認知症がどんどん進んで過剰に貶められてしまうという逆転現象が発生してしまった。
ファンたちは「悟空をカッコよかったあの頃に戻せ!」と思っているし私も「流石にその扱いはないだろ」と思ったのだが、よくよく考えるとこれって人造人間編以降の負債から発生した因果応報ではないか?
連載の都合で陳腐な英雄物語に貶めてしまい、悟空だけを過剰に神格化して神輿にして持ち上げベジータをひたすらに冷遇してきた、そのやらかしの反動が今になってツケとして返ってきているように思えてならない

何よりファンがネットでやたらにベジータやヤムチャを玩具扱いし、最近では本当に全く愛のかけらも感じられないクソみたいなパロディ漫画・動画ばっかりが大量生産されているではないか。
特にYouTubeだとエゼルとか真実に到達することはないとかもしもコミックとかがそうだが、ネットでなされている薄ら寒いツッコミレベルのパロディをわざわざキャラにやらせる死体蹴りみたいな芸風がそれである。
ああいう胸糞悪いことをファンが率先してやっているから、その逆張りを公式が行なった結果が今になっているのではないかと思う、つまりこれはファンの民度の低さも少なからず影響しているのだ。
もし今後悟空の扱いをもっとよくして欲しいのであれば、まずはファン側がベジータやヤムチャを玩具扱いし故意にヘタレだと見なして弄るような風潮を厳に慎めという話である。

“Treat others how you want to be treated.”(自分がされたい扱いを他者に対してしなさい)

有名な英語の格言だが、悟空をきちんと昔のカッコ良かった頃のように扱って欲しければ、まずファンがネット上でのそういうキャラへの粗雑な扱いをするな、ということだ。
人造人間編以降の体たらくで先人たちが犯してきた過ちの結果が現在につながっていることを作り手も受け手も認識しなければ『ドラゴンボール』が良くなることはない。
私は昔から一貫してDBファンの民度の低さには辟易していたし、おそらく今後もなくなっていくことはないだろう、正にいじめっ子といじめられっ子の話である。
いじめっ子は自分がいじめたことは簡単に忘れてしまうが、いじめられっ子はずっと大人になっても心の奥底でいじめられた心の痛みを忘れない

そうしてきた結果が巡り巡って因果応報となって返ってきているわけであり、悟空がこうなったのは原作の悟空が他者に対して無下に扱ってきた結果だと認識すべきである

話はそこからだ。


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