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跡部景吾様という「俺様」の顔の裏に潜む壮絶な努力家、その苦難と死闘の軌跡

さて、前回のコラムにも書いたように、いよいよ今回満を持して「テニスの王子様」の跡部景吾様について語る時が来たが、やはりこの男を一言で集約すると「俺様」に尽きる。
いわゆる「俺様」な登場人物であれば跡部様に限らず「花より男子」の道明寺司や「仮面ライダーカブト」の天道総司など、それに近しい人物はいくらでもいるだろう。
ジャンプ漫画の系譜でいえばやはり「リングにかけろ」の剣崎順がその祖にあたるであろうか、彼も跡部様に負けず劣らずの俺様ぶりで庶民派主人公の高嶺竜児と好対照を成していた。
そんな跡部様に関してはもはや語り尽くせないほどの魅力がたくさんあるのだが、私なりに感じた魅力や疑問などを含めて改めて何を感じているかを率直に言語化してみよう。

テニスの才能に恵まれずに格差で苦しんだ幼少期


跡部様といえば誰しもが煌びやかで華々しい活躍を見せるお人だと思いがちだが、彼のプレイスタイルは前回も書いたようにかなり地味でロジカルなものとなっている。
破滅への輪舞曲、タンホイザーサーブ、失意への遁走曲、氷の世界、跡部王国、そして氷の皇帝といずれもが才能ではなく彼なりの努力と類い稀なるインサイトによって磨かれたものだ。
ネーミングセンスが貴族らしくアレなのは別に他のキャラクターも似たようなものだし、まあ中学生だからということで許容範囲だが、ビジュアル面では派手に見えてもプレイそのものは地味である。
あくまで相手が反応できない視覚や弱点を突いて容赦なく勝つのが彼のスタイルであり、手塚にしても越前にしても相手を揺さぶり弱点を容赦なくついて勝とうとするため彼のプレイには情がない

しかしそうでなければならない理由が「新テニスの王子様」の入江との対戦で明らかにされるが、それが幼少期にイギリスで感じた人種と才能の壁であり、ここで跡部様は出鼻を挫かれたのである。
どんなに打ち返せなくても楽しんでテニスをやっていた越前の幼少期とは好対照であり、跡部様は小さい頃にいきなり「テニスを楽しむ」なんて呑気なことを言ってられない状況に追い詰められた
いわゆる「強くてニューゲーム」とは真逆の「レベル1でいきなりボスクラスと対決」というのが跡部様の幼少期だったわけで、普通だったらこの時点で心折れてテニスを辞めてもおかしくない。
しかし、そんな状況の中でも跡部様は必死に自分が生き残るための戦術・戦略を編み出したわけであるが、それこそが「洞察力(インサイト)」であり、跡部様はまず感覚機能を磨いたわけだ。

あとはその洞察力にどれだけ身体能力を伸ばせるかであり、幼少期はとにかくそのずば抜けた洞察力と精神力に体の成長が追いつかなかったわけだが、中学生で成長してやっと追いついたということだろうか。
「新テニスの王子様」で彼のスキルを分析したレーダーグラフを確認しても、精神面をはじめとして弱点となりうる要素が実はほとんどなく、これは即ち苦手分野がないということだ。
得意分野であるスタミナとテクニックは伸ばせるとしても、他はそんなに得意ではなかったはずであり、それを「苦手ではない」と言えるレベルにまで克服している。
これはとてつもなく凄いことであり、何故ならば才能がなんだかんだ物を言う「テニスの王子様」という作品で跡部様は「努力」の大切さを読者に教えてくれるからだ。

例えば氷帝にも忍足侑士やモノマネを何でもできてしまう樺地などの天才は沢山いるが、そいつらを全員一度実力で勝って頂点に立った上でなお「天才」を認めている。
そこが跡部様のすごいところであり、テニスの戦術・戦略そのものは容赦ないながらに幸村や真田ら立海と大きく違うのは「相手を潰してやろう」とまでは思わないことだ。
彼のテニスは一見幸村のマキャベリズムと似ていながら「美学の有無」の点で異なっており、そしてそれは決して軽い付け焼き刃ではなく長きにわたって積み重ねてきたものである。
その「積み重ね」による重みが跡部様の魅力であり、生徒会長にしても全教科が得意科目であることも全ては努力によって達成してきたのではないだろか。

手塚・越前・入江の三者に共通するのは「天才」


さて、そんな跡部様が公式も練習試合も含めて大々的に描かれた中で印象的なのは旧作の関東大会・手塚戦と全国大会・越前戦、そして「新テニスの王子様」の入江戦である。
また過去回想では練習相手で立海の真田とも戦ったのだが、跡部様が戦っている相手は偶然か意図的にか全員「天才」と呼ばれる類のプレイヤーだ。
手塚と越前は天衣無縫の極みの扉を開いた天才(というか青学は基本天才揃い)だし、真田も無我の境地を開いているため立海大で一番の天才である。
そして入江に関しては不二の上位互換と見てもいいキャラクターであり、一見大したことなさそうな柔和な見た目の裏にとんでもない才能を隠していた。

このように三者三様とも跡部様にとっては天敵であり、彼が背負っているテーマは「秀才はいかにして天才に勝つのか?」ではないだろうか。
これは四天宝寺の白石も立海大の幸村も背負っているテーマであるが、基本的に「テニスの王子様」においては容赦のない「才能の壁」が示されている。
例えば白石は全国大会準決勝S3の試合で天才・不二周助を相手に圧倒し優勢を保っていたにも関わらず圧倒的な才能の壁を見せつけられて危うく負けかけた。
百腕巨人の門番を攻略でき、なおかつ白鯨がアウトだったからよかったものの、あれに関しては完全に運による勝ちだったとしか言いようがない。

まあ運で不二に勝ったのは越前も一緒だが、越前の場合は運で勝っても「次は絶対実力でねじ伏せてやる」と思うタイプだし、越前自身も「天才」である。
しかし白石はあくまでも努力で全てを積み重ねてきた秀才であるから、そのような発想の転換がなかなかできずに苦しむくらいに不器用ではないだろうか。
幸村もまた越前と手塚という青学の柱コンビを相手に才能の壁を感じたわけだが、ようやくその「天才への苦手意識」を払拭して自分のテニスを確立しつつある。
このように見ていくと跡部様も生まれ育ちには恵まれていたわけだが、一方で「テニスの才能・資質」という神からの贈り物には恵まれなかった。

それが毎回泥仕合を演じることになる理由であり、また読者の共感を幅広く呼んで主人公たちを差し置いて人気投票で一位を獲得する理由ではないだろうか。
単純に生まれ持ったものがそもそも凄いというところでまずは「憧れ」の存在として描かれ、テニスを通して「共感」という要素をしっかり見せる。
人は長所で尊敬され短所で愛されるというが、跡部景吾様ほどその言葉を体現した存在は少なくとも「テニプリ」の中にはいないであろう。
越前や手塚たち青学のメンバーとは違う意味で作品を影から支えてくれた屋台骨であり、作品に重厚感と壮大さを与えてくれた人物だ。

跡部様にとっての勝ち負けとは心の問題


さて、それではそんな跡部様にとって「勝ち負け」とはどういうものかを論じたいのだが、端的にいえば彼にとっての勝ち負けとは「プライド」ではないだろうか。
青学の「全国大会ナンバーワン」や四天宝寺の「勝ったモン勝ち」、立海大の「負けてはならぬ、必ず勝て」のいずれとも違い氷帝の勝負に対する価値観はわかりにくい
これは氷帝自体が跡部様が敷く王政によるものという影響も大きいのだが、どうしても上記の三校に比べて「勝ちへの執着」というものが薄いように感じられる。
一番露骨なのは芥川ジローであるが、なんぼ実力や才能があっても普段寝ていてろくに面倒も見ていないのではそりゃあ不二に負けるのも無理はない。

だからこそ全国ではジローを出さなかったわけであるが、他に勝ちへの執着が強そうなのは「勝つのは氷帝です」と言った樺地と宍戸くらいのものだろうか。
特に宍戸は一度都大会で橘を舐めてかかってぼろ負けしてレギュラーから外されたわけで、そこで改めて根性を入れ直したことでチームに大きく貢献した。
運もあったとはいえ、実は宍戸・鳳ペアは乾・海堂ペアと大石・菊丸の黄金ペアに二度も勝利しているわけであり、油断も隙も全くない。
跡部様はそんな宍戸の強さを知っているからこそ「監督、そこにいるやつはまだ負けていない」と言って特例として宍戸の名誉挽回を許可したわけである。

一方で才能を持ちながら勝ちへの執着が薄かったのが向日岳斗と忍足侑士、そして2年生エースの日吉若であり、3人のうち向日と日吉は関東と全国の双方で負ける醜態を晒した。
そして忍足は桃城との戦いでようやく勝ちへの執着によって天才の壁を超えてきたものの、そこから先どうしていくかというところは見えにくい。
思えば氷帝はどうしても「勝ち負け」より「プライド」を優先するところがあり、また実力主義であるが故にチームとしての統制が取れているようで取れていないのだ。
だから全国大会に特例で行けたとしても真の強者として強くなった青学に負けたわけであり、ここが同時に立海や四天宝寺との差にもなっているのではないだろうか。

象徴的なのは全国大会準々決勝の越前戦だが、ここで跡部様はリョーマに負けたにも関わらず膝を折らずに立ったまま君臨することで己のプライドを守った。
勝ちへの執着がゼロではないが、それ以上に大事なのは「プライド」=「ノブレスオブリージュ」であり、それが守れれば勝ち負けは自然とついてくるのだと思う。
つまり跡部様にとって勝ち負けはあくまでも「結果」であって、一番大事なのは「プライド」であるというところがあるから、それが四天や立海との違いだ。
よく、白石のことを「西の跡部様」というが、白石は跡部様とは逆で「プライド」よりも「勝ちへの執着」を優先する男であるから、考え方は相容れないだろう。

背負うものを如何に軽くできるかが今後の彼の課題


このように読み解いていくと、跡部様の人となりやプレイスタイルの裏に込められた本質がだんだんと見えてくるのではないだろうか。
跡部様を構成する「俺様」の中身とは要するに「ノブレスオブリージュ」であり、それが跡部様の「プライド」を形成し「俺様」という言葉で表現されている。
しかし跡部様自身が気づいているかどうかは別として、これは同時に跡部の価値観にとって大きな呪縛となっているのではないかと私は考えている。
跡部様の場合は生まれ持った「跡部財閥の嫡子」という肩書き・権威が先にあって、それを背負って戦うことが自分の役目にして誉であるとの考えが強い。

しかし、それは同時に跡部自身をも縛りつけるものとなっており、だからあれだけ「俺様」と言いながらもなかなか殻を破れなかった理由もそこにある。
要するに跡部様は自分のプレイスタイルは出来上がっているのかもしれないが、それ自体がそもそも家系の伝統によって教えられてきたものであり、そこから脱却できていないのだ。
ここの意識の差もまた越前や手塚ら「天衣無縫の極み」を開いた天才組とは真逆であり、跡部様はその意味で幸村や白石と同じようにその心を雁字搦めにされている。
その凝り固まったものに固執しているからこそ、いつまでも跡部様は思うようにプレイができず跳ねることができないのではないだろうか。

このように読み解いていくと、跡部の精神が5のうち「3」だったことや入江が「その自尊心の高さが君の成長を妨げている」と言った意味も自ずと理解できる。
「テニスの王子様」も「新テニスの王子様」も一貫して天衣無縫の極みが至高の境地であり、それは「強さ弱さ」「勝ち負け」といった柵から解放された状態のことを指す。
それが何度も言う「テニスが楽しいからテニスをする」であり、越前も手塚も青学の柱や越前南次郎の模倣という呪縛と向き合い、その呪縛から解放されることで天衣無縫の極みに至った。
そこから逆算的に読み解いていくと、自尊心=帝王学から身につけたプライド=俺様をずっと背負い続ける跡部様は天衣無縫の極みからは最も遠い状態であるといえる。

跡部様が今後活躍していく上での成長・克服すべきポイントはなにかというと、いかにこの「プライド」という名の柵からの解放を目指すか、というところにあるだろう。
氷帝を背負い、中学生代表を背負い、そして今度は日本代表を背負うと何かをずっと「背負う」ことでそれを強さに変えて戦ってきた跡部景吾様は確かに素晴らしい男だ。
しかしそれがかえって跡部様の呪縛となり成長を難しているということであれば、それは劇的な何かがない限り大きく変わることはないのであろうなと思う。
まあかと言って幸村も赤也も天衣無縫対策を独自にしている中で、今更跡部様が天衣無縫の極みに到達されてもそれはそれで跡部様らしさがなくなるから嫌なのだが(苦笑)

ともかく、幼少期から壮絶な死闘の軌跡を歩んできた跡部様が今後大きく跳ね上がることを期待して、今回の記事は終わりとしよう。

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