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結局は物事の原理を知り尽くしていて経験値がある奴こそが最強である件

俗に言う『最近の若者は…』発言、今ではすっかり老害扱いされるNGワードになっているのだが、これは決して喜ばしい傾向ではないと思っている。
何故ならば年上の人からそれを言ってもらえること自体がある意味ではありがたいことではあり、少なくとも私たちプレッシャー世代まではギリギリそういう薫陶を受けていた。
学生時代、私は決してできのいい学生ではなかったから恩師となるゼミの先生から何度も叱責されたり周囲から飽きられたりしたことがあった、今思えば本当に数々の無礼を働いたと思う。
けど、そんな私も今ではそれなりに社会人としてのマナーだったり礼儀だったりを身につけ、ありがたいことに仕事をたくさん任せていただける状態だ。

そんな私が最近『ドラゴンボール』の魔人ブウ編を読み返していて思うのだが、評価そのものが決して変わったわけではないものの、1つ大きな気づきがあった。
それは悟空とベジータがポタラ合体で止むを得ずベジットになったわけだが、ここでの老界王神のセリフに対して違和感を抱いた読者は少なからずいるであろう。


超サイヤ人3を持つ孫悟空はともかく2にまでしかなれないベジータまでもが最強というのはどうなのであろうか
また、悟空がクリリンに対して「ベジータとの実力の差はほとんどなかった」と言っていたが、その直後に3を披露している。
しかも孫悟飯はアルティメットになっているため、いくらベジータが3番手だったにしても大きく水が開いている状態なのは変わらない。
だからラストでベジータが口にする「カカロット、お前がナンバーワンだ」との発言に食い違いが起きてしまい、変化していくにしても矛盾だらけである。

そもそも超サイヤ人3が私は大嫌いである、あのデザインが嫌いだったし如何にも後出しジャンケンで無理矢理事前の前触れや伏線もなく悟空を強くした感があった。
ベジータが悟空にそのことを詰め寄った時に悟空が何も言い返せなかったのは決して鳥山先生がそのことへの後ろめたさがあったわけじゃない。
ましてや悟空の心理と鳥山先生の心理が結びついていたからでもない、後先考えずに設定を膨れ上がらせてしまったことへの収集がつかなかっただけだ。
無論そのことを悪いと言いたいのではない、何故孫親子に引けを取っていたはずのベジータが最強格扱いをベジットの時に受けているのか?ということである。


ここまでを読み返して思ったのだが、結局のところどうやったら魔人ブウを倒せるかを孫親子よりも早い段階で的確に見抜いていたのはベジータだったのではなかろうか。


魔人ベジータが特攻を決めるシーン、ファンからは感動的な名シーンなどといっており、初めて他人のために戦おうとしているとピッコロはいっていたが、事実は違う。
ベジータはどこまで行こうと所詮根っこは悪人である、フリーザ程の純然たる悪意ではないにしても決して世のため人のためなんてことができるような柄じゃない
そうではなくここで大事なのはベジータが悟空よりも最短ルートで「どうすれば魔人ブウを倒せるか?」という攻略法を既に見出していることだ。

ところが今時の若い読者は普通に読んでいればわかることですらわからないらしい、私たちの世代と比べて明らかに物事に対する読解力や想像力が足りていない証拠である。
魔人ブウは実際にフルパワーでエネルギーをぶつけて再生できないようにしなければ無限に復活してしまうからこそ、あのファイナルエクスプロージョンを選んだわけで、単なる自爆特攻ではない。
少なくともサイヤ人編の「さよなら天さん」とはそこが違うわけであり、個人のエネルギーではブウが破壊できないこと、そして超サイヤ人3やアルティメットといった変身形態では倒せないことも地獄から見ていた。
そして何より自身がセルゲームの時にセルは核細胞を破壊しなければ倒せないという経験をし、サイヤ人編では一度元気玉を直に食らっていることももちろん影響している。

そういう紆余曲折があっての魔人ブウ編では、ただインフレを起こして強くなるだけでは倒せない、魔人ブウの性質や能力がどこにあるのかを見極めた上で勝つ戦略を考えなければならない
ここからは個人的な考察だが、おそらく単純に破壊的なエネルギーをぶつけるだけならばかめはめ波やカミカゼゴーストアタックなどでも良いはずだが、元気玉を敢えて選んだのにはもう1つの理由がある。
それは純粋ブウが持つ「負のエネルギー」に対して有効となりうる力は「正のエネルギー」のみであり、その属性に該当する技が元気玉しかないということではなかろうか。
実際に悟空はサイヤ人編でベジータに元気玉を当ててもらう時、悟飯にテレパシーで「元気玉は悪の気がなければ跳ね返せる」といっていることからもそういう属性の技であることが明白だ。

そしてベジータもフリーザも元気玉を跳ね返すことはできなかった、もちろん純粋ブウも跳ね返すことはできていない、邪気の塊である純粋ブウには触れないはずの力だからである。
つまり何が言いたいかというと、ベジータはどの地点か知らないが、おそらく魔人ブウを完全に純粋ブウに戻した時点で勝算が見えていたはずである
悟空ですらもベジータに提案されるまで気づかなかったところを見るに、こういう土壇場での戦術や機転といったところではベジータが悟空の一歩先を行っているだろう。
悟空がなんとなくのところで大局を見据えながら戦っているのに対して、ベジータは複合的に戦術を詰めて勝つことに長けており、この点においては悟空にできない戦い方である。

ここまで見ていって、ようやくベジータの凄さが見えてくるわけだが、なぜゴテンクスや悟飯ではなく悟空とベジータの2人がベジットに合体すると最強なのかがわかるだろう。
単純な実力や変身形態のみならず、悟空もベジータも戦いのノウハウも経験値も完全に出来上がった戦いのプロであり、戦いの原理を極限まで知り尽くしている
また、自分が強くなるためにどうすれば良いのかを考えそこに至るための努力や修行を自らできるという点においても、やはり悟空とベジータは特別なのであろう。
才能や潜在能力といった天性のスペックなら確かに息子たちの方があるようだが、最終的に物をいうのは才能ではなく意識・熱量・センス・努力・経験値を加味した総合力である。

「GT」「超」でも何だかんだ最後は悟空とベジータで締めくくっているのを見るに、そこの部分を長期でしっかり身につけていった奴こそがトップに登ることができるのだ。
そう考えると、今の若い読者は魔人ブウ編に描かれていることの表層の表層、すなわち本当に浅瀬しか見ていないから悟空をサイコパス扱いしたりベジータの元気玉提案の意味が理解できなかったりするのではないか?
要するに5教科7科目をきちんと基礎からやり込んでいないために、見えて当たり前の部分だったりその作品にとって決定的だったりする肝心要の部分が見えないのである。
とすると、今は昔よりも遥かに「自分たちは今何を知っていて、何を知らないのか?」ということを意識せずとも生きていける時代になってしまったのだと思う。

いわゆる無意識かつ楽天的な「無知の知」に他ならないのであるが、例えば今の若い人たちはSNSであったりサブスクリプションであったり、AIやChat GPTであったりに柔軟に対応して使うことには長けている。
しかし、もっと根源的な「そもそもこれが何の為に生まれ、どういう仕組みで成り立っているのか?」といったところまで踏み込んで勉強しようとする人が果たしてどれだけいるというのか
何でもかんでもタイパ重視で今目の前のことさえ瞬間的に消費できればそれで良くて、もっと1つ1つのことにじっくり取り組み理解できるまで徹底して反復する我慢強さや忍耐力が欠けているのではないか?
こないだ批判的に論じた「90分〜2時間の映画を見る体力・集中力すらない現代人」とつけたが、あまりにも便利なものに囲まれ過ぎた結果そういう便利なものにシャブ漬けにする仕組みが今の日本社会の実態である。

それこそ私に執拗な嫌がらせみたいな形で記事削除を要請してきた人もそんなぬるま湯の中で自分が生かされていることに気付いていないから、的外れな批判とアホみたいな要求をしてくるのだろう。
漫然と目の前のことだけを消費するのではなく、今の時代だからこそ改めて情報化社会・SNS時代のトレンドに流されず、改めて物事を根源から考えることが大事である。

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