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【後編】炎の戦士・リョウマと黒騎士ヒュウガの数奇な運命を考察!ブクラテスとヒュウガの関係性を通して見えてくる真実とは?最終回の結末の意味も解説【ネタバレ注意】

さて、前回の黒騎士ブルブラックの記事からだいぶ間が空いてしまったが、今日こそは満を持して「ギンガマン」後半のメインである「炎の兄弟」のエピソードについて語ろう。
やはり「ギンガマン」が単なる平成戦隊のニュースタンダード像を形成しただけではなく、今日に至っても語られ続ける理由はリョウマとヒュウガの「炎の兄弟」にある。
この2人のエピソードがあったからこそ、今もなお「ギンガマン」という作品は後世のスーパー戦隊シリーズに影響を与え続けているのではなかろうか。
私とてビデオテープが擦り切れるほど何回も見直し、DVDレンタル・YouTube・ニコニコ動画などでの無料配信で何万回と見続けて穴が開くほど勉強させていただいた。

もはや至る所で語られ尽くした感がある「ギンガマン」の炎の兄弟だが、様々なブログや考察の記事を見てもまだ「これだ!」と言える決定版の批評は出ていないと思う。
そこで今回は私が改めて25年越しに、万感の想いと共に「ギンガマン」という作品の後半2クールをこの2人の物語に絞って具体的に掘り下げていくこととする。
まずは第二十六章『炎の兄弟』についての解釈を書き、その後ブクラテスとヒュウガの関係性を通して見えてくる物語の真実、そして最終回の結末の意味も解説していこう。
ただし、最終回の結末の意味はゼイハブの記事同様ネタバレを多大に含むので、大変申し訳ないが記事を有料とさせていただく。

もし、最後まできちんとご覧になりたい方は申し訳ございません、ワンコインお支払いお願いいたします。

それでは本題に入ろう。

スーパー戦隊シリーズの歴史を塗り替えた第二十六章『炎の兄弟』

第二十六章『炎の兄弟』といえば「ギンガマン」を最も象徴するエピソードの1つとして、確実にその名を歴史に刻み塗り替えた記念碑のような伝説の回である。
それこそ『海賊戦隊ゴーカイジャー』の20話『迷いの森』でもオマージュとして使われるくらいの神回なのだが、このエピソードには実に多くのエッセンスが詰まっているのだ。
それが何なのかはこの回だけを見ているとわかりにくいが、単なる「リョウマが真のギンガレッドになる」だけではない数多くの意味があるはずである。
改めて25年ぶりに見直すこのエピソードにはどんな意味が込められているのか、個人的見解を見ていこう。

実質の「父殺し」としての「兄超え」

まずこれは最近気付いたことなのだが、この一見美しそうな炎の兄弟の裏にあるのは実質の「父殺し」が実は「兄超え」という形で描かれていることである。
「ギンガマン」をリョウマとヒュウガの物語として見る場合、「兄超え」の物語といわれることが多いが、その本質は英雄物語の伝統「父殺し」ではなかろうか。
「父殺し」といっても色んな形があり、弟子が師匠を超えることや弟が兄を超えることもまた「父殺し」というものに分類される。
要するに下の者が上の者に対して下克上を起こして乗り越えていくことなのだが、本作だと正にリョウマとヒュウガもまた「父殺し」の関係であろう。

黒騎士ブルブラックとの相克を通して人間的にも大きく成長したリョウマはこの時点だと戦士としての総合力でまだまだヒュウガには及んでいない
半年間の実戦経験を積んでもなお到達できない高みにいるのがヒュウガなのだが、リョウマが星獣剣とギンガブレスを返上しようと思った理由はそれだけではないだろう。
元々ギンガレッドになるべく資格を勝ち取ったのはヒュウガであり、リョウマは第一章でなし崩しにイレギュラーな形でそれを手にしたわけだから、正規ルートではないのだ。
従来のヒーロー作品ならばそこで半年であっという間にリョウマがヒュウガを追い抜いて自信をつけさせ「実は潜在能力はリョウマの方が上でした」という落ちに持っていくだろう。

実際「ドラゴンボール」のセルゲームにおける孫悟飯が正にそれであり、サイヤ人編から一貫して悟飯はいざ怒った時の瞬間的な爆発力は父親の悟空をも凌ぐ。
もしリョウマがそんな風に描かれていたのだとすれば、それこそ「ギンガマン」はありがちな凡作にしかなっていなかったのではないだろうか。
そこを半年経ってもヒュウガが格上だとはっきり示した上で、それでもなお炎の戦士・ギンガレッドになることを決意したこのシーンがなぜ印象的なのか?
それは表向き綺麗な美しい兄弟の絆を描いたように見えていながら、リョウマはヒュウガという兄=父を殺してでもギンガレッドという戦士の資格を奪った残酷さがあるからだ。

「いい話」に見えがちな話の裏には相応の「残酷さ」もまた見え隠れしており、ヒュウガはもうこの瞬間からギンガレッドとして戦うことができなくなったのである。
それでも尚嫉妬1つなく、笑顔で弟の成長を祝福し「ギンガレッドはお前だよ、ハヤテたちにとってもな」といって快くリョウマを送り出すヒュウガの言葉は温かくも一抹の儚さが漂う。
「ギンガマン」という作品がとても美しいながらにどこか乾いた寂しさが漂うのは、ひとえにこのヒュウガと黒騎士ブルブラックがそれを醸し出しているからではないだろうか。
だからこの瞬間にリョウマは兄の手を離れてギンガレッドとして独り立ちし、いつかヒュウガを超えて本物の「星を守る戦士になる」という「父殺し」が裏の運動としてある。

ヒュウガもまた未練を断ち切る

そしてヒュウガもまた安易に炎の戦士・ギンガレッドの資格を譲ったわけではなく、最後の一太刀で死神の人形を斬る瞬間に自身の未練を断ち切っていた
「俺が星獣剣を使うのはこれが最後だ」というセリフはそういう意味で言ったものであり、ヒュウガは決して簡単に星獣剣の戦士であることを諦めたわけではない。
それは別にヒュウガの器が小さいとか弟に嫉妬しているとかではなく、弟と鎬を削って星獣剣の戦士という資格を勝ち取ったことに対する誇り高さから来るものだ。
実際、DVDの解説インタビューで小川輝晃氏は「ヒュウガに未練はないのか?そのことを田崎監督とも話し合ってあのシーンになった」ということを述懐している。

本来であれば、あのシーンでわざわざヒュウガに「お前が一言でも「返す」といえば、俺は取り上げるつもりだった」と言わせる必要は全くなく、素直に継承させればいい。
しかし、それを安易にせずにリョウマの口からはっきりと「ギンガレッドとして戦い続けたい」という言葉を待ってからそをを言わせたところにこのシーンの重みがある。
そう、あの死神を斬り捨てるアクションはヒュウガの戦士としての活躍を見せたというだけではなく、この一太刀でヒュウガの星獣剣に対する未練や執着を捨てさせたのだ。
そしてあの瞬間にヒュウガもまたリョウマの決意を受けて、弟が成長して自分を追い越していくであろうという未来すら予感していたのかもしれない。

だからこそ、星獣剣をリョウマに受け継がせた後、リョウマが先頭を切って走るのをヒュウガが後ろから見守るという形に変化せているのだ。
そう、今までだったらずっとヒュウガの背中を追い続けていたリョウマであったが、リョウマの中でヒュウガはもう「憧れ」の対象ではなくなった。
黒騎士ブルブラックとの相克で自信をつけたことでリョウマとヒュウガの関係性はある種対等になり、リョウマはもう立派にヒュウガの弟ではなくなる。
そしてヒュウガもまたリョウマを決して弟扱いしなくなり、対等な一人前の戦士としてフラットに接していくようになるのだ。

つまりこの炎の戦士の交代劇は単なる「旧レッドから新レッドへ」というだけでも、そして「リョウマが真のギンガレッドになる」というだけでもない。
リョウマがギンガレッドとしての資格を正式に継承するということは、その陰でヒュウガが1つ自分の中にあった大切なものを「手放す」ということでもある。
自分のアイデンティティーでもあった戦士の資格を手放して弟へ譲っていくことがヒュウガの中でどれほどの痛みであったか想像がつかない。
だが、その痛みがあったからこそヒュウガもまた次のステージへと進むことが可能になるわけだが、そこで出てくるのが黒騎士の魂である。

黒騎士ヒュウガは単なる追加戦士ではない

「炎の兄弟」というエピソードを見る場合、どうしてもあの交代劇のシーンばかりがクローズアップされるが、本当に大事なのはむしろ黒騎士ブルブラックとヒュウガである。
ギンガイオーのピンチを前にブルライアットが反応し、黒騎士ブルブラックの魂はヒュウガに「私の力を星を守る戦いに使ってくれ」と使命を託していく。
ここもやはり一見美しく感動的なようだが、よくよく考えてみると、あれだけ好き勝手やっておきながら自分で命を散らした挙句ヒュウガに使命を託すとはどういう了見か?
ヒュウガが「戦おう、一緒に」と受け入れて綺麗にまとめてくれたからいいようなものの、黒騎士ブルブラックのこの行動はよくよく考えると自分勝手である。

確かに黒騎士ブルブラックは亡き弟・クランツの幻影の導きにより星を守る戦士としての魂を僅かに取り戻したが、そこまでの負債をあれだけで帳消しにしたわけではない。
己の復讐のためなら手段を選ばず好き勝手にしてきた男の魂をヒュウガが継承するというのは、他の戦隊でいう「6人目」になるのとは意味合いが異なってくる。
確かに表向きはリョウマがギンガレッドに、そしてヒュウガが黒騎士になることで綺麗にまとまったように見えるが、事はそう単純な話ではないのだ。
ブルブラックは確かに「バルバンを倒す」という意味で戦力的にもギンガマンと拮抗するほど強かったから実績はあるが、それでも復讐鬼としてやってきたことは褒められたものではない

リョウマが真のギンガレッドになることでその使命を「強さ」に変えて羽ばたくのならば、ヒュウガはリョウマと対照的に黒騎士が抱えていた「復讐」というカルマを背負うことになる。
そう、ヒュウガは確かに炎の戦士・ギンガレッドの資格を明け渡したが、それは同時にヒュウガが黒騎士の情念に「呪縛」されるという選択を余儀無くされたことを意味するのだ。
実はここが「炎の兄弟」というエピソードの裏の残酷さであり、今までの感想・評価を見るとこの「裏の残酷さ」という視点は語られてこなかったのではないか?
誰もがギンガレッド・リョウマという主人公の話としてまとめがちなこのエピソードを翻って黒騎士ブルブラック・ヒュウガの視点で見ると実は違った意味に見えてくる。

物語の最後で青山勇太少年の父・晴彦が「黒騎士だけに、苦労する」なんて親父ギャグをかましていたが、終盤の展開を知って見直すと単なるギャグだとは思えない
本当にヒュウガには黒騎士ブルブラックが抱えていた「復讐」の情念・カルマを背負ってしまったが故の苦難が4クール目に待ち受けているなど誰が想像しただろうか?
こうして見ると、「ギンガマン」は単なる美しい王道そのものを一直線で行く物語ではないことに気づかされ、実はここにもう1つの小林靖子の作家性が見受けられる。
この物語には直接書かれていないもう1つの「影」「闇」の部分に気付いた時、私はあの4クール目の物語が何を意味していたのが読み解けていく。

ブクラテスとヒュウガの関係性を通して見えてくる真実とは?

「ギンガマン」という作品において「炎の兄弟」の関係性を語る上で外すことができないのはブクラテスとヒュウガのなんとも言えないグレーゾーンの関係性である。
終盤になるとある種の共犯関係というかストックホルム症候群のような絆が芽生えているようだが、あくまでもヒュウガがブクラテスに利用されているに過ぎない
そう、4クール目のブクラテスとは要するに「もう1人の黒騎士ブルブラック」であり、ヒュウガはまたもや復讐にその力を利用されることになってしまう。
正に黒騎士の「復讐」というカルマをもう一度苦難として背負うことになるが、ヒュウガ視点で見るこの4クール目に描かれている真実とは何だろうか?

黒騎士ブルブラックが経験した悲劇の疑似的な追体験

まず4クール目でヒュウガが何をしていたのかといえば、それは黒騎士ブルブラックが経験した悲劇の疑似的な追体験である。
アースを捨てて故郷も捨て、そして大切な弟たちと別れ1人ゼイハブへの復讐に利用されながら孤独に戦い続ける、そんな経験を今度はヒュウガ自身がすることとなった。
あくまでも魂と力のみを利用されていた2クール目の段階ではヒュウガが内側からブルブラックを止めていたものの、それでも完全に説得するには至らない。
それはヒュウガ自身がブルブラックが経験したことを実際に味わったわけじゃないからであり、あの時のヒュウガはまだ完璧超人タイプの優等生の域から抜け出なかった。

ブクラテスに復讐の道具として利用され、ナイトアックスの訓練に励む過程でヒュウガはとんでもなく辛い思いをするが、一番堪えたのは第四十一章でのリョウマがやられるシーンだ。
一見あれは主人公のリョウマがやられただけのピンチを演出しているように見えるが、ヒュウガ視点で見る場合あのシーンは第十九章の回想シーンで描かれたクランツの死の再現である。
ブルブラックが手出し出来ない状況でゼイハブに真っ二つにされるクランツとヒュウガの目の前でンガレッドが閃光星獣剣で腹を串刺しにされるシーンは意図的な重ねだ。
ここで黒騎士ブルブラックが自分の大切な人を目の前で失ってしまうという悲しみを疑似的な形でヒュウガは味わうことになるのである。

幸い、リョウマはクランツと違って主人公だから死ぬことはなく復活を遂げるのだが、ヒュウガはやっと物言わぬ黒騎士の悲しみを体感できたのだ。
こればかりは黒騎士に近い立ち位置の人間でなければ無理な話であり、なおかつ戦士として完成されているヒュウガだからこそできた展開であろう。
強き力を持つ者だからこそ、リョウマ以上の完璧超人だからこそヒュウガが戦士としての栄光と挫折・凋落を経験する展開に説得力が出る。
同時にこれは本作が2クール目で提唱した「戦士に必要な本当の強さや勇気は力ではなく心にある」というテーマの深化でもあった。

そう、リョウマたちが正統派の王道を往くパーフェクトヒーローであるならば、黒騎士ヒュウガはそれとは真逆の獣道を往くカウンターである。
「カーレンジャー」「メガレンジャー」で「ヒーローの強さは「力」ではなく「心」にある」と書いたが、その集大成が正に本作の終盤の展開だ。
前2作が「弱いヒーロー」「一般人」という設定から突き詰めたヒーローの本質を本作ではリョウマ・ヒュウガ・ブルブラックを通して描いている。
劇中で最強の力を持つ者たちだからこそ力の闇に呑まれかけてしまう設定にリアリティがあるのだが、本作ではヒュウガとブルブラックを重ねることでそれを追求したのだ。

視野狭窄に陥り闇落ちしかけるヒュウガ

黒騎士ブルブラックが歩んできた復讐鬼としての道を疑似的に追体験していく中で、ヒュウガ自身も気付かぬうちにどんどん視野狭窄へと陥っていく
彼はブクラテスの奸計に嵌ってしまい、更にアースを喪失した上で「ゼイハブを倒す方法はナイトアックスしかない」とまで言われている。
そしてゼイハブが実際にダイタニクス戦でナイトアックスを目にした時に「黒騎士、てめえアースを捨てたな!?」と動揺していた。
このことからもナイトアックス以外でゼイハブを攻略する方法はないかのように示されているが、これですらも実は絶対にうまくいくという保証はない。

リョウマたちが作戦を立てながら着実にバルバンの魔人たちを倒しているのに対して、ヒュウガは最短ルートでゼイハブを倒そうとしていた。
これこそ正にブルブラックがやっていた「復讐のためなら手段を選ばない」であり、ヒュウガ自身も決してブクラテスのいうことを鵜呑みにしていた訳ではない。
もっとも、ナイトアックス自体があくまでも伝説での言い伝えでしかない以上、それが真実でありそれ以外に方法がないとは示されていないのである。
しかし、当事者であるヒュウガはブクラテスの付くしかない以上保証が全くないという状況の中半信半疑でナイトアックスの訓練をこなす他はない。

ここから見えてくるのは小林靖子は安易な精神論・根性論に対して否定的であるということであり、決してヒュウガとブクラテスのナイトアックスを肯定していないのだ。
ヒュウガはあくまでも星獣剣の戦士として戦っている以上、自分が幼い頃から積み重ねてきた力を基にして戦うことこそが大事なのに、ヒュウガはそこから外れたことをしている。
これは前2作に対する反証でもあり、前2作は「変身しなければただの一般人」だから、戦闘力の高さは変身前の身体能力ではなく変身後のスーツ性能に依存していた。
しかし本作のリョウマたちはギンガの森の過酷な環境の中で訓練する中で磨き上げた力である以上、変身前の素体スペックが充実して初めて変身後の力がついてくる。

そう、ギンガマン5人が新しいアイテムを手に入れながらもそれを使いこなすことができるのはギンガの森で積み重ねてきた実戦の延長線上だからだ。
それに対してヒュウガの場合ブルライアットはともかくナイトアックスに関してはほぼ初めてであり、付け焼き刃もいいところである。
たった3ヶ月特訓した程度で砕けるようになればそんな楽なことはないし、そのようなやり方で戦って勝てるような相手でもないだろう。
後の「タイムレンジャー」以降もそうだが、小林女史は「努力によるパワーアップ」自体は否定しないが「個人の適正に沿わない無駄な努力」は肯定していない

昭和戦隊が提唱していた旧来の価値観の否定

黒騎士ヒュウガとブクラテスのコンビを使って果たそうとしていた本作の裏側のテーマは昭和戦隊が提唱していた旧来の価値観、具体的には「自己犠牲」「復讐」の否定である。
冷戦時代の昭和戦隊(『秘密戦隊ゴレンジャー』〜『地球戦隊ファイブマン』)においてそれらは時として敵を倒すのに必須であったが、その価値観がもう時代に合わなくなった。
『鳥人戦隊ジェットマン』においてその旧来ヒーローの価値観やヒーロー像自体はバラバラに解体したのだが、残念ながら頑強に巣食っていたその価値観を否定するには至っていない。
そしてそれは前2作でも完全に否定することはできず、やはり戦士であるために何かを犠牲にするという選択を余儀無くされる場面があったり、ギャグでするりと回避したりしていた。

しかし、本作ではそれを変にギャグで茶化したり誤魔化したりするのではなく、きちんと真正面からテーマとして向き合い格闘せざるを得ない。
好青年タイプのリョウマを主人公に据えつつ、「復讐」の象徴である黒騎士ブルブラックとブクラテス、そして「自己犠牲」の象徴であるヒュウガに裏のテーマを体現させた。
この布陣が物語の構成としては完璧かつ美しく、そして極めて残酷でもあるというこの苦さがまた作品の味わいを深くしてくれているのではないだろうか。
小林靖子は主人公や追加戦士に重たい設定を持たせたり過酷な運命を背負わせたりして物語を展開することが多いが、本作で正にその図式が完成している。

以前述べた「処女作にはその作家の全てが詰まっている」というのは正にここに見られる訳であり、本作でスーパー戦隊シリーズの作劇は1つのピークに到達した。
「タイムレンジャー」「シンケンジャー」でも主人公と追加戦士を使ったドラマが多く、それがファンのいう「2人のレッド」に見えるものではないだろうか。
とはいえ、完成度の高さと体現しているテーマの色濃さ・普遍性においてやはり「ギンガマン」を超えうるものは(少なくとも私は)見たことがない。
主人公が誰かの代理として戦うというだけなら他にもあるが、その裏に昭和戦隊に対するアンチテーゼ・カウンターを唱えているのである。

それは同時に本作のほぼ全てが「アース」を中心に全ての武装をファンタジー系や天然自然に由来する「星の力」で統一する形にも表現されているだろう。
基本的に「ジェットマン」までのスーパー戦隊は科学を中心にした軍事系の力だが、これは即ち昭和時代の科学信仰でもあるのではないだろうか。
特に「大戦隊ゴーグルファイブ」の「未来科学VS暗黒科学」からそれが現れており、そして「ライブマン」では科学の発展が人を不幸にするという闇まで描いた。
そしてそれに取って代わるものとして「ファンタジー」が現れたのだが、本作ではそこから更に大自然の力としての「アース」に昇華させている。

『星獣戦隊ギンガマン』が示したヒーロー像とは日本古来の「神道」である

こうして見ていくとわかると思うが、『星獣戦隊ギンガマン』が示したヒーロー像とは日本古来の「神道」だったのではないだろうか。
「神道」には「宗教」と違って具体的な教えやカリスマ的存在がいる訳ではなく、万物のありとあらゆるものに対する畏敬と感謝の念を持ち続けることが本質である。
本作ではそれを星の力を一身に借り受けて、それに感謝して戦うギンガの森の戦士たちに描かれているが、ギンガの森の民は古代日本人のメタファーではないだろうか。
直接のテーマとして示されている訳ではないものの、序盤から示されている大自然に対する感謝と尊敬の気持ちは我々現代人が忘れてしまった心でもある。

思えば物語の冒頭で青山勇太が「今は科学の時代であり、こんな森に伝説が隠されているわけがない」と否定していたが、これもまた擦れた現代人の心のあり方であろうか。
最先端の科学技術にばかり依存していると、人はどんどん便利なものに依存してしまうわけだが、ある意味「ギンガマン」という作品は日本人にとって大切なものを示したのかもしれない。
「星を守りたいという心が強大なアースを生み出す」というのが本作のテーゼであるが、思えば黒騎士たちは「星を蔑ろにする者には破滅の未来しかない」とも取れる。
だからこそ、擦れたところが全くなく純粋に自然に感謝して真っ直ぐに強く自分たちの使命に迎えるギンガマンのヒーロー像は今見ても色褪せない普遍性を持ち得ているのだろう。

最終回の結末の意味

さて、ここからは物語の核心部分になるので有料とさせていただくが、最終回で小林靖子が出した黒騎士関連の物語の結末はどうなるのか?
歴代戦隊の中でも屈指といえる結末を描いた本作だが、改めてもう一度その意味を読み解いていこう。

ナイトアックスは反アース=「星を壊す力」

ナイトアックスがどういう力かに関して詳細な説明は劇中でなされていないが、個人的見解では『超電子バイオマン』の反バイオ粒子と似たものではないだろうか。
アースを捨てた物にしか扱うことができないということはギンガレッド・リョウマに凄まじい電流が流れて満身創痍に陥る描写からも一目瞭然だ。
となると、これは反アース、即ち「星を守る力」とは逆の「星を壊す力」として設定されたものではないかと私は見ているし、そう解釈する人も沢山いる。
星の命もまた星の力である以上、星を守る力であるアース・星獣剣といったギンガマンの武装では壊せないことにも納得だ。

だからこそヒュウガはリョウマたちの元を再び去らなければならなかったし、そうせねばバルバンに勝てないと思い込んでいた。
しかし、最終章でナイトアックスは星の命を一度も砕くことがなく無残にも散ってしまったが、ここではそうしなければならない理由がある。
それはブクラテスの復讐を物語としてきっぱりと否定するためであり、そして同時にヒュウガを黒騎士の魂ごと救う必要があったからだ。
最終回でリョウマがヒュウガを諭してアースを復活させ、ダブル炎のたてがみで星の命を砕く展開にはそうした意味がある。

ではなぜ「星を守る力」であるはずのアースで星の命を砕くことができたか、それは星の命にもまた持ち手を選んだのではないだろうか?
第二十三章『争奪の果て』ではギンガの光が黒騎士ではなくギンガマンを選んだわけだが、最終章の星の命はそれと好対照を成している。
銀河に1つしかない光が持ち手を選ぶのであれば、逆に星自身が持ち手に逆らい自ら砕け散るという選択があってもおかしくない。
実はなんの伏線もなく起こした奇跡のように見えて、この辺りのことはきちんと用意周到に計算されているのである。

炎の兄弟と黒騎士兄弟の「生と死」の対比

これは以前に感想でも書いたのだが、炎の兄弟と黒騎士兄弟が実は「生と死」の象徴として対比されていることにお気付きだろうか?
リョウマとヒュウガが赤と白という「生」をイメージさせる明るい色なのに対して、ブルブラックとクランツは黒と翠という「死」を連想させる儚い色だ。
そしてヒュウガは後半になると赤と黒を取り込んだ色の服装になるため、これが実は黒騎士の「死」のイメージをどこかで連想させる。
その上で最終章を見ると、実はリョウマがヒュウガを説得するシーンは第二十五章『黒騎士の決意』の伏線回収にもなっているのだ。

実際にセリフを引用してやり取りを対比させてみよう。

「戦おうよ、兄さん。あの人たちのように。」
「駄目だ。私にはもう、守るべき星も、人もない。ゴウタウラスさえ去ってしまった・・・そして何より・・・お前が居ない!クランツ!!!」
「星はいっぱいあるよ?人もたくさん居る。ね?兄さん。ゴウタウラスも、きっと昔の兄さんが好きだよ。星を守ろうよ、昔みたいに・・・」

第二十五章『黒騎士の決意』

「例えナイトアックスが無くても・・・例えアースが無くても・・・俺はこの星を守りたいんだ。」
「兄さん、アースはあるよ」
「え?」
「兄さんの中に、アースはある。」
「・・・リョウマ!」
「アースは星を守る力だろ?星を愛する心があれば、アースは生まれるんだ。星を守って戦っている限り、兄さんの中にも、大きなアースは生まれる筈だよ!『自分を信じるんだ』・・・教えてくれたのは兄さんだろ?俺たちのアースで、ゼイハブを倒そう!」

最終章『明日の伝説』

そう、実はクランツがブルブラックに対してやっていた説得を、リョウマはそれと知らずにヒュウガに対してやっているのである。
映像の上では第一章のリョウマとヒュウガのやり取りしか映されていないためわかりにくいが、実はもう1つ二十五章の黒騎士兄弟の説得も入っていた。
その上で黒騎士ブルブラックが「死」という形でしかそれを成し遂げられなかったのを、リョウマとヒュウガは「生きて」正攻法によって成し遂げている。
実はこんな風に解釈すると、黒騎士ブルブラックが単なる番外戦士、そして黒騎士ヒュウガが単なる追加戦士として入ったわけではないと分かるであろう。

そして同時に、リョウマがヒュウガに道を示すことによって「父殺し=兄超え」は完結し、更に黒騎士兄弟の「復讐」のカルマも浄化された
リョウマたちギンガマンは星に対する感謝を忘れず、星を守るために戦い続ける限り誰の心の中にでもアースは存在するのだと伝えたかったのであろう。
そしてそれは上記した「神道」がベースにあると思しきギンガマンのヒーロー像が見せた極致であり、この瞬間をもって平成戦隊のニュースタンダード像は完成を迎えた。
だからこそ、このシーンが新たなる伝説として残るのみならず、以後多くのシリーズ作品に多大なる影響を及ぼし、大量のエピゴーネンを生み出させるに至ったのである。

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