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昭和から平成を経て令和に来るヒーローとはどんなものか?

以前の記事で「今はアムロ・レイや碇シンジのような陰キャ型の主人公が多くなっている」と書いたが、昨日氷河期世代の知人・弟と3人でそのことについて話をしたところ、事はそう単純ではないことに気付かされた。
「いや、陰キャとか陽キャとかいう属性の問題じゃなく、単純に「何をゴールとするのか?」の部分の、そのハードルが低過ぎるんじゃない?」って言っていて、思わず私も唸る。
そうなのである、昭和lから平成を経て令和のヒーローとされる今のジャンプ漫画やスーパー戦隊を見ていると、どうにもその「理想とするべきビジョン」を持たない奴が多過ぎる気がするのだ。
それこそ私たちが見ていた時代のジャンプ漫画は『ドラゴンボール』もそうだし『スラムダンク』『テニスの王子様』もそうだが、明確な高い目標というかビジョンを持っていたと思う。

今風にいう「陰キャ」と呼ばれるような奴らですら内面はハードボイルドで負けん気が強く、個人的目標であったとしても心の何処かで「大きな世界」というものを夢見ていたのだ。
例えば『スラムダンク』の流川楓は山王戦で沢北という対等以上の存在と出会ったことで「ここでお前を倒してアメリカに行く」と宣言する。

『テニスの王子様』の越前リョーマは手塚国光に鼻っ柱をへし折られてから「とにかくテニスで頂点を目指したい」という上昇志向が生まれた。

そして、ジャンプ漫画の中でも中二病の極みと言って差し支えない『デスノート』の夜神月に至っては「新世界の神」まで宣言していたのである。

それこそ「海賊王にオレはなる!」「火影を越す!んでもって里の奴ら全員にオレの存在を認めさせるんだ!」がそうだが、口にするしないを別としても昔のヒーローは心の何処かに「上を目指す」ことがあった
わかりやすい例でいうとスーパー戦隊シリーズがそうだが、昭和時代、正確には『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)〜『地球戦隊ファイブマン』(1990)までは高度経済成長のような右肩上がりの図式である。

昭和時代のヒーローはどんな高い壁も努力と根性で乗り越えていき、到達点までがむしゃらに突き進んで行くのだが、このやり方には大きな問題点と反省があった
それは『ドラゴン桜』のこのコマでも言語化されているように「上ばかりを見て足元がお留守になってしまう」ことである。

実際に日本の経済がそうであり、先人は右肩上がりにひたすら働くことを礼賛し一度は世界トップにまで上り詰めたが、80年代末に入るとバブル崩壊という形で急激に落ち込んだ。
着実に力をつける、基礎を徹底するということを疎かにした上昇志向の末に待ち受けているのは急激なデカダンスであり、ではそれに取って代わる方法はどんなものがあるか?が模索される。
それを模索したのが正に『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)〜『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)であり、特に「ジェットマン」「ギンガマン」の二作はそこに置いて目新しいあり方を提示した。
それが何かというと「中盤までは低空飛行のように見えるが、中盤以降は指数関数のように一気に伸びていく」という方法である。

例えば「ジェットマン」は急遽バラバラの5人が集まりチームワークを形成するまでに32話もかかるが、それを踏まえての4クール目は急激にチームとして成長していき、その集大成が最終回手前の名乗りだ
真のヒーローとして覚醒し己を再起した天堂竜と素人未満から真のヒーローに成長した結城凱たち4人の仲間は最後に真の戦隊ヒーローとして完成し、先人が成し遂げられなかったバイラムを遂に打ち倒す
そう、まずは戦隊シリーズの本質にして基礎基本である「団結」と「何のために戦う?」を卑近な個人の関係性から見直し、ミクロからマクロへと駆け上がって行くのが新たな方法だと示したのである。
どうしても「戦うトレンディードラマ」ということばかりが取り沙汰される「ジェットマン」だが、真に革新的だったのはこの「右肩上がりではない指数関数方式の成長曲線」を提示したことだ。

そしてこの「ジェットマン」が提示した「右肩上がりではない指数関数方式の成長曲線」という、井上敏樹が提示した方法論の衣鉢を継いだ小林靖子が『星獣戦隊ギンガマン』(1998)でそれを新たな王道として完成させた
すでにバルバンに対して十分過ぎるくらいの戦闘力を持っているリョウマたち銀河戦士はまず兄・ヒュウガという実質の「父殺し」とギンガの森の封印という「故郷の喪失」を経験させて孤立させるところから始まる。
前半2クールは特にギンガレッド・リョウマが真のギンガレッドになるまでの物語として描かれており、そのターニングポイントはいうまでもなく黒騎士ブルブラックが登場する第十八章からだ。
ここでリョウマは自身の中にある弱さ・脆さと向き合い、戦力的にも厳しい試練が続くのだが、第二十三章『争奪の果て』でギンガの光をギンガマン5人が手にしたところで形成逆転に至る。

ここから第二十六章までの一連のエピソードはそれこそ「帰ってきたウルトラマン」の「十一月の傑作群」に因んで「八月の傑作群」と名付けているのだが、一気に「ギンガマン」という作品自体が大きく跳ね上がる転換点だ
そして第二十六章『炎の兄弟』で帰ってきた兄・ヒュウガを前に「星獣剣の戦士としてバルバンを倒したいんだ!」と宣言してからのリョウマに隙はなくなり、戦力的にも精神的な強さとしても大きく跳ね上がった。
そう、昭和時代のヒーローと悪が常に高い壁に向かって右肩上がりで成長するという方式だったのに対して、平成初期の10年で確立されたヒーロー像はまず前半でしっかり基礎固めを行い、後半で一気に伸びる方式である。
今配信されている『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)も正にそれであり、やはり中盤で滝沢直人が加わってから物語としてもグンと跳ね上がり、着実に確実に物語は終盤へのボルテージを高めているだろう。

流石に時代とともに進化してきただけあって素晴らしいのだが、00年代の「クウガ」以降の平成仮面ライダーやプリキュアシリーズも結局はこの「ジェットマン」で破壊され「ギンガマン」で完成を迎えた「指数関数方式」が定番となった
それこそ国民的アイドルの嵐にしたって会員数の推移を見ると、明らかに2008年〜2009年を境に会員数が急激に上がっているが、それが落ち込むことなく来られたのは最初の10年でしっかり地固めを行ってきたからである。

大野智が2002年に放ったといわれる「今目の前にあることを頑張れない奴が何を頑張れるんだ?」という言葉、これは「上を目指すのであればまず足元の基礎から1つ1つできるようになれ」ということだろう。
少なくとも平成まではこの「目指すべき高み」がきちんと設定されており、それがどの出発点でどんなヒーロー像であったとしても最終的なゴールがあったのだが、令和に入るとどうもその辺りが見失われている気がする。

最近の戦隊、特に『海賊戦隊ゴーカイジャー』(2011)以降のスーパー戦隊や『僕のヒーローアカデミア』以降の少年漫画を見ていると、どうもそのような目標というかビジョンを明確に持っていないように見える。
以前も述べたが「鬼滅」の炭治郎が戦う理由はあくまで「鬼になった妹を元に戻すため」だしデクこと緑谷出久は「最高のヒーローになるため」だし、デンジくんに至っては「おっぱい揉むため」が動機なのだ。
出発点や道のりが低空飛行なのはまだしも、いまの主人公は目標自体もミニマムでありちょっと頑張れば直ぐに達成できる程度の目標しか持っていないのでは?という風に見えなくもない。
そしてそんな主人公たちが活躍する物語を成立させるために、彼らが敵対する悪も昔に比べて威厳もクソもないショボい敵ばかりというのが正しいような気がする。

つまり「陰キャがメインになった」のではなく「陽キャも陰キャも目指すべきビジョンを明確に持っておらず、その為に必要なプロセスも持ってないので目の前の問題を消化するだけ」になってしまった。
スーパー戦隊でもそうであろう、今のヒーローたちはグダグダと覇権争いばかりを繰り返していたり、世界の平和そっちのけで宇宙最大のお宝探しやラストニンジャになることがメインになってしまっている。
宇宙最大のお宝が目的?ラストニンジャになりたい?王家の覇権争い?おっぱい揉みたい?ヒーローになりたい?鬼になった妹を元に戻す?勝手にやれよっていうね、微塵も応援する気が起きない
ビジネスでもそうだろう、自分の利益しか考えずに相手から奪ってやろう精神で動く人と自分の目指すべき価値提供がきちんとできて謙虚さと貢献・感謝の心を忘れない人のどちらに人々は共感し投資したいか?

いうまでもなく答えは後者であるが、しかし前者のようなタイプのヒーローが跳梁跋扈している現状を見るに、そもそも今の若い世代の人たちはマズローの5段階の欲求でいう「高次の欲求」を持っていないのかもしれない。

だからこそ低次元の生理的欲求を満たすことが目的化しているデンジくんみたいな人に共感したがるし応援したがるのか得心してしまう。

でもそれってさ、いわゆる「消極的自由」であって「積極的自由」じゃないのでは?

そこに作り手も受け手も気付かないから、まだ本当の意味での「令和のヒーロー」は誕生していない、苦しみが続いている時期なのではないかと私は思う。
今まで数々書いてきたことが最近になって一本の線で結ばれ氷解していくような感覚があり、思えば「令和の新たな王道」がどのジャンルからも出ていないのも根本を突き詰めるとそこなのだろう。

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