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映画『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』(2000)感想〜無印組は結局のところ最初から太一・ヤマト・光子郎の三銃士で良かったのではないか?〜

現在Digimon WeekならぬDigimon Monthなので、今再燃したマイブームに乗っかって「デジモン」シリーズをどんどん批評していこう。
「02 THE BEGINNING」というタイトルから文字通りに「始まった」デジモンシリーズの作品感想・批評、今回取り上げるのはファンから歴代最高傑作と謳われる「ぼくらのウォーゲーム」。

評価:S(傑作)100点満点中95点

これに関しては私自身も並並ならぬ思い入れがあるので、しっかりと力を入れて感想・批評を書きたいのだが、本作に限っては初代が嫌いな私ですらも「凄い」と認めざるを得ない
まず本作は同時上映の『ONE PIECE』と並んで見に行ったのだが、正直なところ最初は全くと言っていいほど期待はしていなかった。
何せ「たまごっち」「ポケモン」に比べて焼き増し感が拭えず、アニメ・漫画・ゲームと媒体ごとに全くと言っていいほど連携が取れていないシリーズだからである。
どっちかといえば私はポスト「ドラゴンボール」と目されていた『ONE PIECE』の方を期待して、今は亡き宮崎の古臭い映画館に足を運んで見に行った。

しかし、単なる短編映画とは思えないほどの高いクオリティーに私は唸ったし、テレビと違って作り手の変な思想がかったものも過度に入り過ぎていないが故に心安らかに見られたのもあるのだろう。
そして何と言っても細田守監督の演出と吉田玲子の脚本、声優陣の熱演、アニメーションのスタッフたちの巧まざる神作画、全てが渾然一体となった本作は大変に素晴らしい。
私が改めて2024年現在に見直す本作が果たしてどのような作品に映ったのか?をテレビシリーズの時には書きそびれてしまったことも含めて記していこう。


「デジモン」こそ「ドラゴンボール」の進化論的継承者なのではないか?

まずこれは本作に限らず思うことだが、実は「デジモン」こそがいわゆる「進化論」という観点で見た時に実は「ドラゴンボール」の継承者ではないかと思えたのだ。
というのも、デジモンの成長期→成熟期→完全体→究極体という進化のあり方は実は「ドラゴンボール」で提示されたフリーザやセルの進化のオマージュである。
これは原作者の鳥山明も公言していることだが、『ドラゴンボール』の画期的だったポイントの1つが「デカイやつよりも小さい奴の方が強い」という法則だ。
当時の少年漫画も含むバトルもののセオリーを鳥山は逆手に取って、例えばサイヤ人編では巨体のラディッツ・ナッパよりも小柄なベジータの方が圧倒的に強い。

その法則は魔人ブウ編はもちろん現在に至る「超」でも一貫していて、例えばナメック星編のフリーザの進化形態を例に取って見てみよう。

このように、フリーザは第二形態→第三形態と進化する度に体格も大きくなりデザインも複雑化していくのだが、最終形態になるとむしろシンプルになりデザインが凝縮されている
デジモンの進化論も実はこの方法に則っていて、初代のアグモンとガブモンの進化形態も実はこの進化論を継承しているといえるだろう。

そう、アグモンもガブモンもやはり成熟期→完全体と進化していく度に体格も大きくなりデザインも大柄になるが、究極体のウォーグレイモンとメタルガルルモンは逆にシンプルになりデザインが凝縮されている
「ポケモン」でもそういえば最強にして幻のポケモンのミューはものすごくシンプルな妖精みたいなデザインであったから、改めて「ドラゴンボール」という作品が後世に与えた影響の大きさは計り知れない。
また、後述するが、デジモンでは更に本作で提示された「合体」を起点としてその後様々な「進化」の形態が派生するようになるが、これもやはり「DB」が提唱したフュージョンやポタラ合体の継承であろう。
後年にポケモンもXYにて「メガ進化」という形でデジモンシリーズが提示した「外部の力による強化形態としての進化」逆輸入しているので、その意味ではデジモンは後発者利益のポジションを良くも悪くも確立している。

「ポケモン」にはない「デジモン」の形式的=進化論的な魅力の1つとして「進化ツリーが無限に派生しうる」というのがあって、「ポケモン」のシンプルイズベストとはまた違った面白さを生み出した。
そこをもっと前面に押し出せばそれこそ「ポケモン」に匹敵するほどのビッグコンテンツになり得たであろうに、作り手が残念ながら「モンスター育成」ではなく「人間ドラマ」などというしょうもない方向へ走ってしまっている
だが、本作ではその「人間ドラマ」とでもいうべき部分はあまり前面に押し出されてはおらず、本当に必要最小限の要素に絞って作られているため、純粋にネット空間内で繰り広げられる白熱したバトルに集中できるのだ。
テレビシリーズでは今一つ感じられなかった「ポケモン以上の迫力と規模を持った壮絶なバトル」がようやく本作にて1つのアニメーションとして結実したことの驚きを体感できたことに深く感謝したい。

『ドラゴンボール』のベジット並の神々しさを感じさせる歴代最強のオメガモン

本作最大の見せ場は何と言ってもラストで描かれる神々しい歴代最強と断言して差し支えないオメガモンだが、「クロスウォーズ」ではテントモンに「ただの合体」と言われてしまっている。
「02」でもジョグレス進化と分かれており、これが「テイマーズ」以降にも形を変えて継承されているのだが、これらもやはり大元は「ドラゴンボール」の魔人ブウ編で提示された「フュージョン」と「ポタラ合体」であろう。
無論いうまでもなくジョグレス進化が「フュージョン」、オメガモンへの合体が「ポタラ合体」なのだが、本作のオメガモンはその演出や生まれるまでのプロセスも相まって「ドラゴンボール」のベジットに匹敵する感動・神々しさを感じさせる。
無数のアーマゲモンを意に介することなく全方位から放たれるビームをオメガソードの一振りで薙ぎ払い、更にはオメガキャノンで無数のアーマゲモンを殲滅していく圧倒的な強さはまさに絵の運動として完璧だ。

私自身は人造人間編以降の『ドラゴンボール』はあまり高く評価していないが、それでも例えばフュージョンやポタラ合体など様々な「進化」「強さ」のアイデアを提示したという点においては高く評価している。
鳥山明がおそらくはその場のノリというか少年漫画特有のライブ感で思いついたものをモンスター育成ゲームの1つの文法として完成・定着させたのがデジモンシリーズなのだ。
そして何よりも、このオメガモンに至るにはやはり私自身は苦手だが太一とヤマトがとにかくすったもんだを繰り返して嫌い合い認め合いながら少しずつ時間の経過と共に歩み寄ったという積み重ねがある。
その時間の経過と、何よりも多くの子供達にとっての希望の象徴・福音として登場するオメガモンは決して「ただの合体」ではなく聖なる光がもたらした歴代最強の合体と言っていい。

「ドラゴンボール」のベジットにしたってやはり孫悟空とベジータがお互いに嫌いであった、最初は憎むべき宿敵であるところからスタートして時間の経過と共に認め合ったからこそのポタラ合体なのである。
老界王神もベジットに関しては「孫悟空とベジータというあの2人だから宇宙最強の強さになった」と言っていたように、このオメガモンも太一のウォーグレイモンとヤマトのメタルガルルモンだからこそというのはあるのだろう。
まあそれ以上の奇跡を軽々と起こしてしまうのが次作「02」の本宮大輔や漫画版「Vテイマー」の八神太一、「デコード」の四ノ宮リナ辺りなのだが、これが現代種デジモンと古代種デジモンの差なのか。
そんな与太話はともかくとして、本作のオメガモンを見たときはまさに魔人ブウ編でベジットが登場した時のような異次元の強さに突入した感じがあって、これを2000年春の段階で実現してしまうのが素晴らしい。

ただ、だからこそ同時に思うのはその後のシリーズでこの神々しさを放ったオメガモンが擦り倒されて安売りされてしまった感があるのがどうにも残念というか虚しさを感じさせる。
現在視聴中の無印のリメイク『デジモンアドベンチャー:』ではいきなり2話でオメガモンを出してポンポン消費してしまっているため、非常に勿体無い。
まあ昨今は「ドラゴンボールヒーローズ」然りスーパー戦隊然り、こういう「特殊な新形態の安売り・バーゲンセール」が当たり前みたいになっているので今に始まった事ではないのだが。
やはりこういう神がかった新形態は安売りするのではなく、ここぞというところで魅力を兼ね備えて満を持して出すからこそカッコいいし素晴らしいという風になるのだ。

そう考えると、初代のテレビ版を好きになれない理由の1つもテレビシリーズの宿命上基本形態が安売りされてしまっていると感じたからかもしれない。

テレビシリーズの制約から解放されたことで見えた八神太一の「カリスマ故の脆さ」

本作はテレビシリーズから半年後の時系列で作られたお話だが、テレビシリーズではあまり目立ちにくかったアニメ版八神太一という主人公の欠点も含めた部分が本作で大きく露呈している。
逆にテレビシリーズではあれだけ地金を晒しまくって痛い思いをした石田ヤマトは完全な太一の抑え役に回っており、これが本来の太一とヤマトのあり方なのだと確信した。
というのも、テレビシリーズではどうしても主人公を最優先で立たせないといけないために、八神太一が妹のヒカリ絡み以外ではむちゃくちゃ正しいカリスマ性を全面に押し出して描かれている。
反面太一の割りを食ってしまったのが石田ヤマトであり、太一が暗黒進化とヒカリ以外であまり苦悩しないためにヤマトの方が感情面で迷走する形を取ることになってしまった。

だが、それはあくまでも「デジタルワールド」という世界で冒険していた時のことであり、これが現実世界に戻って日常の感覚となると話は違ってくる。
本作ではテレビとは逆に太一がひたすらに暴走機関車みたいになって一人で突っ走ってしまい、癇癪を起こして光子郎のパソコンをフリーズさせるというやらかしを起こしてしまった。
これは正にカリスマ型リーダーの欠点であり、メンバにとっての求心力になる反面、一度自分のやり方がうまくいかないと崩れて癇癪を起こしてしまうという脆さがある。
吉田玲子さんは良くも悪くもそういう登場人物の「欠点」を自然な形で露呈させる描写に定評があるが、お陰でアニメ版の太一が「等身大の小学生」として親近感を持てたのが本作だろう。

カリスマリーダーというのはビジネスにおいてもホリエモンなどがそうだし、歴史で見ても織田信長がそうなのだが、凄まじく強力な爆発力を生み出す反面、組織を瓦解させる劇薬にもなりうる。

もし、その卓越した一人のリーダーが突然いなくなったらチーム(会社)はどうなるだろうか?
今までチームの大きな原動力になっていた揺るぎない自信が崩れ始め、チームの隅々まで疑念が波紋のように周囲に広がっていく可能性があるのではないか。
その疑念が、本来優秀であろうメンバーから集中力と自信を、さらには逆境への免疫力をも奪い去ってしまうことになる。
だとすれば、卓越したたった一人のリーダーに頼るチーム作りは、大成功を収まる可能性も高い反面、チーム崩壊の最大の要因にもなり得るということです。

そう、八神太一はその圧倒的なカリスマ性でチームを引っ張る最大の求心力が魅力的だが、彼が居なくなった途端に「選ばれし子供達」はまともに機能しなくなった
それが本作においては逆の形で八神太一自身にフィードバックされる形となっおり、頼れる仲間たちが最小限しか居ない=地盤が脆いが為に簡単に崩れてしまう
カリスマ型のリーダーでは目先の短期的利益や短い繁栄は得られるが、一代で築き上げる分安定や持続には向かないのである。
どちらかといえば経営者に向くのはやはり次作「02」の本宮大輔の方であり、だから最終回で二人の将来が決定的に違っていたのも納得ではある。

太一が最終的に外交官という政治家、そして大輔が屋台ラーメンでメンバー一の金持ち・経営者という形になるのは本作と「ディアボロモンの逆襲」を見れば納得されうるだろう。
これはもちろんどちらが良い悪いという問題ではないが、大輔も失敗ややらかしがない訳ではないものの太一や京に比べると取り返しのつかない失敗は少ないし、やらかした分はきっちり挽回するので安心して見ていられる。
逆に太一にはライバルとして石田ヤマト、そして参謀にして相談役の泉光子郎という2人の抑え役が必要であることが本作で示された事実であろう。

初代は結局のところ物語的には八神太一・石田ヤマト・泉光子郎の三銃士がいれば成り立つ

ここまで見ていって、また後の「デジコロ」を見ても私の中で確信に変わっているのが、初代「デジモンアドベンチャー」は結局のところ八神太一・石田ヤマト・泉光子郎の三銃士がいれば話が成立するということだろう。
実際リメイクの「デジコロ」でも序盤の段階で目立っているのはこの3人だし、未見だがネットでは「黒歴史」と評されているtri.シリーズでもメインで目立つのはこの3人のはずである。
PSP版のゲームもプレイして思うのだが、この3人のパートナーデジモンはワープ進化した時の究極体のフォルムが歴代でも群を抜いてカッコいいし、物語的にも動かしやすい。
とにかく突撃隊長としてグイグイメンバーを引っ張っていくカリスマリーダーの太一に二番手として完璧な抑え役の石田ヤマト、そして参謀として優秀で機転の効く泉光子郎の三銃士が黄金律として完璧だ。

逆に本作でメインで描かれていない脇の空・ミミ・丈・ヒカリ・タケルは物語的にはぶっちゃけ居てもいなくても大して変わらないし、むしろ映るだけ邪魔な存在であることが本作で証明された。
次作「02」が実質大輔と賢の最強ジョグレスチート天才コンビがいれば成り立ってしまうのと同じように、初代はこの三銃士で成り立ってしまうから他は背景でいいのではないかと思う。
まあ太一とヤマトの弟・妹のヒカリとタケルは兄の「引き立て役」としてはともかく「メイン」でも「サブ」でも非常に扱いづらいことこの上ない奴らである。
しかもパートナーデジモンも完全体のエンジェウーモンとホーリーエンジェモンならまだしも究極体のセラフィモン・ホーリードラモン・オファニモンは咬ませ犬としてしか使い所がない

こんなことを言うと「いや初代はあの8人8体の冒険だからこそいいんだ」という反論が来そうだが、そもそもメインの登場人物を8人8体の合計16人も出している時点で邪道なのである。
集団ヒーローの雛型であるスーパー戦隊シリーズですら5人のキャラクターをまずしっかり立てるところから苦労していて、その基本すら近年のシリーズではできていないのがほとんどなのに、それが8人8体だと尚更である。
その意味で本作は空を中心に本筋に直結しない残りの子供達を思い切って脇に追いやって三銃士を活躍させたのは英断であり、だからこそ余計ないざこざもなくすっきりまとまったのではなかろうか。
だから太一と空の喧嘩に関してはぶっちゃけ個人的に不要なのでそこだけ差し引いたが、それ以外の部分は余計なものがなくしっかりまとまったS(傑作)として未来永劫残るだろう。

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