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『どんな形でも作品が続けばいい』は健全に見せかけた不健全の極みである

言い方としてはどうかと思うが、言わんとしていることはよく分かるし筋は通っている。
どんなものであれ続けられるならばそれに越したことはないし、商業的事情によって無理に延命させられ続けていくのはある程度仕方ないであろう。
だが、やはり奥底では「可能な限りいい状態で継続してほしい、根幹の良さまで失って欲しくはない」という思いは誰にだってある筈だ。
『ドラゴンボール』のファン代表になりつつあるBixの言い分はその意味で決して間違いではない、私も共感するところがある。

昨日の「タイムレンジャー」の記事でも言ったことだが、私はスーパー戦隊シリーズは『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)までしか作品として認めていない
基本的に『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)以降は露骨な商業主義が服を着て歩いているような、目先の数字を追いかけているだけの「戦隊シリーズを名乗る別の何か」でしかない。
そんなことは往年の戦隊ファンであれば暗黙の了解にして周知の事実であり、ではなぜ今更になって00年代以降の作品が持ち上げられているかといえば、「諦め」が入っているからだ
最初は猛烈に批判していても、それが数作続いていくと誰しもがもはや「そういうものだ」として受け入れざるを得なくなり、もはや観念するしかないという泣き寝入りである。

『どんな形でも作品が続けばいい』はそうした泣き寝入りの先に辿り着いた思考停止の極致であり、いわゆる明鏡止水とは全く真逆の極めて消極的な諦観でしかない。
一見作品に対して寛容で大らかな姿勢を示しているようでいて、実際は奥底で諦めが入り文句を言う気力すらも起きなくなっているという「健全に見せかけた不健全」である。
そもそもそんなことを軽々しく口にすること自体が「ドラゴンボール」に限らずサブカルチャー・芸術の世界を根本から舐め腐っているとしか言いようがない。
その意味で先日私が引き合いに出して批判したラなんとかという不逞な輩が私への当てこすりとして書いているニセ批評なるものも、正に芸術評論を根本から舐め腐っているであろう。

私は確かに「たかが映画」と言ったし、今の時代1人の批評家が客を呼び込む時代ではなくなったのだから好きに見て好きに評価すればいいとは書いた。
だがそれは「寛容さ」ではあっても「無関心」とは全く違うものであり、「見るからには命をかけて本気で見て自分なりの誇りや美学を持て」という前提がある。
だから私は作品に対してきちんと真摯に向き合えない人は相手にしたくないし、また作品の向こう側に何かを見出そうとする姿勢も断固反対だ。
その意味でBixやタイムレンジャーお姉さんことMC Yurikaはとても作品に対して真摯で好感が持てる、作品のいいところだけを列挙してそこに向き合っているから。

因みに私は『ドラゴンボール』に関しては基本的に原作漫画至上主義だが、後から入ってきたBixとは違ってリアタイ勢なので、フリーザ編までしか評価していない
人造人間編と魔人ブウ編はだんだんと鳥山先生の画力も構成力も衰退していったし、根幹がブレ始めて商業主義の波に飲まれていったことが形跡として窺える。
それに私はZ時代の濫造されていた短編映画は基本的に大嫌いである、ベジータに対する扱いが過剰なまでに酷いしバトルシーンのセンスも低いから。
これは別にスーパー戦隊シリーズやドラゴンボールに限らずガンダムシリーズでもライダーシリーズでもよくあることであり、派閥というのはどこにでも存在している。

例えば、ライダーシリーズもやはり平成ライダーが放送されていた初期は昭和派と平成派という派閥と対立があったし、ガンダムシリーズなんてもっと酷い。
ガンダムシリーズは初代だけが好きな人、富野ガンダム全般が好きな人、アナザーも好きな人、SEED以降も好きな人といった風な棲み分けがある。
合わない部分は合わないでいいと思うし無理に合わせようとする必要はない、自分が好きなものに対して「これ!」という一点豪華主義の誇りさえ貫ければいいのだ。
私なんて極論を言ってしまえば、スーパー戦隊シリーズなんて最悪『星獣戦隊ギンガマン』(1998)さえあれば他にいらないと言い切れる。

だが、「ギンガマン」だって色んな時代の流れやシリーズがそこまでに歩んできた歴史の蓄積といった諸々があって誕生したのだから、最低でも先達に対する敬意は必要だ。
それに、他の映像作品にも目を向けて、広く深い視野で見ていかないと作品そのものの見方も見え方も変わらないし変えさせることはできないであろう。
こういうことを忖度なくきちんと言える若者がまだいることはとても大事なことであり、こういう人がもっと現れて作品を活気づけてほしい。
確かに従来の「見る」批評は死んだかもしれない、それは加藤幹郎も言っていたことだ。

かつて映画を見るということは、もっぱら一回性の出来事であった。何度もくりかえし同じ映画を(同じシーンを)見るという行為は、それを容易にする家庭用ヴィデオ・デッキの浸透によってほとんど初めて可能になったが、そうしたことはそれ以前にはごく不自然なことであった。ヴィデオの浸透によって映画は「見る」ものというよりも、書物同様「読む」ものとなった(書物もまたグーテンベルク以前は一回性の神話をひきずるものでしかなかった)。

加藤幹郎『ブレードランナー』論序説 197頁

そう、今や文芸ものの感想・批評は「見る」ものから「読む」ものへ変質し、そこには原体験で見る一期一会の有り難みというは薄い
だが、それでも自分が作品を見たときに感性が揺るがされ動かされるという「映画の映画性(画面の運動)」という本質自体は変わらないわけだし、ならば批評の本質も変わらないであろう。
どれだけ便利なものができて発展したとて、それを使う人間の心構えがきちんと出来ていなければそんなものは無用の長物でしかないということだ。

今や誰もが批評家になれる時代、ならば世間で話題になっているものだけではなく様々な作品を見て、本当に自分にピッタリと合う映画を、漫画を、特撮を見つけていけばいい
だが、それを見つけたのであればそれに対して全力でこだわりや美学を持って向き合ってほしいし、そういう姿勢がいい批評を生み作品を生まれ変わらせるのである。


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