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「3年B組金八先生」第5シリーズが克明に炙り出す、プレッシャー世代が孕んでいた「内面に迸る狂気」

さて、「スラムダンク」についてのコラムを昨日までで一通り書き終えたので、今日からはまた別の作品や社会問題など興味のあるテーマについて書いていくことにする。
今回はその第一弾として「3年B組金八先生」なのだが、何を隠そう私は金八シリーズの大ファンであり、それこそ第1シリーズからFINALまで全シリーズの作品は視聴していた。
何が凄いと言って、1979年の第1シリーズから2007年の第8シリーズまで、時代をまたいで様々な生徒像や教育の問題点と向き合い、それをしっかりエンタメに昇華しているところである。
その数多くあるシリーズの中でもとりわけファンからの評価が高いのは有名な「腐ったミカン」の加藤優が出ていた第2シリーズと「ガラスの少年」こと兼末健次郎が出ていた第5シリーズだ。

第2シリーズと第5シリーズのどちらが優れていたかは単純に決められるものではない、というのも金八先生は世代別の空気感や時代性が強く、原体験として見ていないと共感しにくいところがあるからである。
そういう意味で私は第2シリーズではなく第5シリーズこそ最高傑作だと思っており大好きなのだが、その理由としては正に当時の私がリアルタイムに中学生だったからという原体験を無視することはできない。
逆にいえば、第5シリーズを原体験として持っていなければ、健次郎たち「プレッシャー世代」と呼ばれる最後の昭和世代が持っていた独特の空気感や閉塞感というものは理解できないであろう。
今回の記事は私自身の経験もそこに重ねながら、改めてこの第5シリーズが内包していたプレッシャー世代の「内面に迸る狂気」というものについて読み解いてみようという試みである。

第5シリーズのテーマは「学級崩壊」と「陰湿化するいじめ」


まず第5シリーズのテーマは「学級崩壊」と「陰湿化するいじめ」の2つがメインだが、これ自体は第5シリーズが初めてではなくその先駆けとなる要素は1995年の第4シリーズで描かれていた。
第4シリーズから桜中学の制服から教室のセットから一新され、また金八先生のルックスやスタイルも第2シリーズまでの若々しさがなくなり段々と「老い」の影が見えるようになる。
そんな中で問題になっていたのが上記した2つのことであり、第4シリーズではいわゆるスクールカーストの裏番長的存在として広島美香という女子生徒がメインで出ていた。
演じていたのは薬物所持によって数年前元アイドルのT君と一緒に逮捕されてしまった小嶺麗奈氏であるが、あの精巧で垢抜けたルックスの裏に卑劣なヒールの顔というのは当時凄まじい存在感がある。

そしてまた、広島美香以外の生徒もこれまた癖が強く、金八先生の見えないところで裏拳をかます生徒や「十五歳の母」で息子として生まれた宮沢歩をクラス全体で差別する・いじめるという悪質なことがあった。
金八先生もそうした第3シリーズまでの生徒たちとは違う雰囲気に戸惑っていたし、それこそシリーズ構成の小山内美江子先生は第4シリーズの生徒たちを見た時に「顔が見えない」とインタビューで述懐してすらいる。
これはつまり小山内先生と金八先生演じる武田鉄矢をはじめとする作り手にとって、内面で何を考えているのかが全くわからず手応えが掴めなかったということだろう。
しかし、蓋を開けてみると実は裏でとんでもなく悪質なことを考えており、大人しそうでいてその実何をやらかすかわからないという危険性がこの世代間の特徴としてあった。

そんな手応えを第4シリーズで掴んだ作り手は第5シリーズで福澤DをチーフDに招き、第1話からクラスの担任教師をボコボコにして病院送りにするという凄まじいところから始まる。
生徒が教師に反抗することや手を上げること自体は珍しくはなかったが、生徒が教師を病院送りにするという下剋上を物語冒頭の段階で起こしたという例は後にも先にもない。
特にラサール石井演じる中野先生を首謀者である兼末健次郎が牛耳る眷属たちが見下ろして何度も何度も蹴り上げ、そして最後に健次郎が出てくるシーンの怖さは歴代トップだ。
単純にホラーテイストな演出ならばいくらでもあろうが、「内面から迸る狂気」をこれ程までに印象付けた例を私は他に知らない、第7シリーズのドラッグなんてこれに比べれば全然かわいいレベルである。

「先生、だらしないなあ。先生確か、柔道の学生チャンピオンだったんですよね?」

そう笑いながら中野先生の腹を蹴り上げて気絶へ追い込みトドメを刺して終わるわけだが、正に私たちプレッシャー世代の特徴が良くも悪くもこの1シーンで描けているのではないだろうか。
プレッシャー世代は氷河期世代までの苦労や失敗を見ているから、大人たちに「反抗」するのではなく「批評」し、その上で納得いかないことがあれば戦争も辞さないという考え方だ。
ゆとり世代、そしてZ世代とどんどん合理化されていく平成の合理的思考と昭和の迸る情熱が複雑な形でミックスされた、昭和と平成の狭間の世代というのが私たちの世代の本質といえる。
若さの滾りをストレートに発散するのではなく一旦飲み込んで内面で合理化し、しかしそれを丸く収めるのではなく沸々と滾らせておいて要所要所で爆発させるハイブリッドが持ち味ではないだろうか。

卑劣なヒールから悲劇のヒロインまで多面的に描かれる兼末健次郎という歴代最高の生徒


そんなプレッシャー世代の象徴として、広島美香というプロトタイプを踏まえて出てきたのが風間俊介演じる兼末健次郎という歴代最高の生徒であり、彼の演技力の凄さは当時から今日まで絶賛の声が絶えない。
表向きは優等生の顔や言動をしておきながら、裏ではクラスのやつらの弱みを握って眷属にし、自分は一切手を汚さずに使う卑劣な悪党という二面性自体は広島美香のそれをさらに誇張したものだ。
だが、健次郎のもっと凄いところはその背景に姉をなくしたことと過保護な親の教育によって長男を潰されてしまい、誰も頼るものがいないという閉塞感でその理由づけが補強されているところにある。
これがあることで健次郎が前半でヒールとして暗躍していた理由にもそれ相応の整合性が生まれ、その複雑な「恵まれない息子」の顔まで絶妙に見せるから見事だ。

そして物語後半で一気に自分の悪事が金八先生によって暴露され、眷属たちにも愛想を尽かされクラスで孤立した健二郎はただの「可哀想な子」として悲劇的なヒロインのポジションへとシフトしていく。
特に「ガラスの少年」(Kinki Kidsじゃないよ)というサブタイで行き詰まっている健次郎の元に金八先生がやってきて、金八先生に抱きつく時の健次郎の演技は思わず胸に来るものがある。
これぞ正に「ゲインロス効果」というもので、それまで悪党だった奴の人間性の核が一気に晒された屈指の名シーンなのだが、このシーンを持って兼末健次郎は広島美香を遂に追い越した。
クラスを牛耳って操るフレネミー(友達のフリをした敵)がそれまでずっと見せなかった悲劇のヒロインとしての顔を見せた時、健次郎は加藤優や広島美香を超えて歴代TOPの生徒に躍り出る。

加藤優も広島美香も確かに凄い生徒だし、また第6シリーズの鶴本直に成迫政則、第7シリーズの丸山しゅうと単純に演技力があって影を抱えた「問題児」というだけなら他にいくらでもいる。
それに演技力という点に関しても第7シリーズの濱田岳あたりは風間俊介に引けを取らない演技力を持っているが、どの生徒もやはり描写が一面的で健次郎ほどの複雑さや多面的な感じはない。
前半で物凄く悪い奴として描かれておきながら、後半でそのキャラクターが死んだ後に悲劇のヒロインという哀愁あるキャラクターへと変容した健次郎は物語序盤と終盤でまるで別人に見える。
これほどに劇中でその人間性が変化した生徒は歴代で比べても他に類するものがなく、唯一無二の存在といっても過言ではない。

そして健次郎にとって何よりよかったのは金八先生との関係性だけではなく、その息子である幸作と犬猿の仲だったライバルから肩を並べて歩く親友へと変化したところである。
幸作の何が凄いといって、3Bのほとんどが健次郎に愛想を尽かして離れていく中で健次郎の醜さを知っても決して見捨てずにぶつかり、そして辛い時に寄り添ってくれたところだ。
幸せを「探す」人ではなく幸せを「作る」人」と幸作の名前の意味が最終回で明かされるのだが、演じる佐野泰臣の人柄の良さもあって器用でクールな捻くれ者の健次郎とは対照的である。
このように健次郎は人間関係においても劇中で大きな変化が生まれ、それが人格形成に大きな影響を及ぼしているという意味で今でも最高の輝きを放つ。

金八先生が打って出た作戦は「将を射んと欲すればまず馬を射よ」


そんな複雑なプレッシャー世代の象徴である健次郎に対して、金八先生も経験を踏まえた上で最初から熱血教師としての顔を出すということをしなくなる。
金八先生は学級崩壊寸前の3Bを立て直すためにどんな作戦に出たかというと「将を射んと欲すればまず馬を射よ」であり、実は真っ先に健次郎が真犯人であることに気づいていた。
しかし、健次郎がそう簡単に本性を出さないのを見て金八先生もまずはいきなり健次郎を攻略するのではなく、健次郎の眷属たちを味方につけるというところから始める。
第2話ではわかりやすい単純熱血バカの入船力也を味方につけ、そこからも徐々に生徒の信頼を得ていくのだが、中でも大きかったのはソーラン節であろう。

ソーラン節という大きなイベントを通して、それ自体が第7シリーズまで継承されるお約束となっただけではなく、クラスの団結力とデイケアセンターとの団結力も育まれた。
これに成功した金八先生は遂に健次郎の眷属である幹洋、ヒノケイ、ヒルマンとどんどん味方につけていき、年明けには不登校だった篤すらも味方につけてしまう。
その上で新春スペシャルで大西さんを激怒させた後、金八先生は遂にクラスで遂に約束を破った者たちが出たとしてそれまで見せなかった往年の熱血教師の顔が出て来る。
「2学期末の国語の授業で!死刑囚・島秋人さんの和歌を取り上げて、「命いとしむ」と教えたじゃないですか!」から金八先生の顔と声がどんどん熱を帯びていく。

武田鉄矢は第5シリーズから「棒のような演技」、すなわち棒のように余計なことをせずただそこに立っているだけのような人として演技することを意識したと言う。
確かに前半の金八先生は説教こそしていたものの、かつての第1シリーズや第2シリーズのような迸るほどの情熱を剥き出しにして生徒にぶつかることはほとんどなかった。
複雑な形で陰湿化した第5シリーズの3Bは昭和方式の金八節をただ何の工夫もなくやったとしても生徒には響かない、届かないことがわかっていたからである。
そして後半〜終盤に向けてギアを加速させ、往年の熱血教師の顔を健次郎との関わりの中で復活させていくというのは非常に効果的かつ印象的なやり方であった。

つまり、健次郎が前半でヒールの顔、後半で悲劇のヒロインの顔を見せたように、金八先生もまた前半と後半でまるで違う顔を見せていたのである。
この金八先生と生徒の間で2つの顔が存在し、それが物語の前半と後半で大きく異なっているというのもまた第5シリーズの大きな特徴だったのではないだろうか。
第6シリーズは物語こそ複層構造的になっていて丁寧なのであるが、物語の序盤と終盤で金八先生や生徒たちが大きな変化を遂げることはほとんどない。
むしろあのシリーズで一番人間性が変化したのは数学の乾先生なのだが、その意味で金八先生の前半から後半に向けてのキャラの変化というのも健次郎と併せて他に類を見ないだろう。

生徒と教師が真っ向勝負でぶつかり合えた最後のシリーズ


さて、そろそろまとめに入るが、この第5シリーズは生徒と教師が真っ向勝負でぶつかり合えた最後のシリーズであったと言えるかもしれない。
金八先生は第4シリーズまでを踏まえて1人のキャラクターとして完成を迎え、そして健次郎たち3Bも段々と後半に向けてその人間性を変化させていく。
世代別の生徒の特徴と教育現場の問題を炙り出しながら生徒の成長を描くのが金八先生というシリーズだが、その中でも第5シリーズほど物語の背骨の強度と変化の凄さが顕著だったシリーズはない。
健次郎をはじめ生徒たちが抱える問題も教師の手に負えないものではなかったし、また金八先生が生徒の圧に負けるというようなこともなかった。

これが第6シリーズ以降になると更に複雑化していき、金八先生だけでは解決しきれないような問題が出てきたり、また生徒の圧に負けたりする展開が目立つようになる。
それこそ、ゆとり世代の幼稚さを前面に押し出して描いていた第7シリーズのソーラン節の前に、金八先生がヒノケイや友子たちが訪れた時にこんなことを言っていたのが印象的だ。

「私と君たちはいつも「勝負」をしました。ところが今度の3Bは私が「勝負しよう」と言っても、30人揃ってみんな逃げちゃうんだもん。勝負にも何にもなんないよそんなの(笑)」

これは単なる懐古主義として言っているのではなく事実であり、金八先生はプレッシャー世代までとは間違いなく真正面から勝負することができていたのだ。
それはなぜかというと、プレッシャー世代自体が昭和の古き良き情熱や血の滾りといったものを心の奥底に残していた世代だったからではないだろうか。

もちろんゆとり世代にはゆとり世代の、そして「デジタルネイティブ」と言われるZ世代にはZ世代なりの良し悪しや苦労、青春の狂気などはあり、それは昔も今も変わらない。
しかし、生徒が真正面から教師にぶつかっていくことを避けるようになったというのは社会的システムと併せて大きな変化と言えるのではないだろうか。
「3年B組金八先生」の惜しまれる点は正にその「Z世代との向き合い方」をドラマを通してうまく提示できなかったことにあると私は見ている。
その意味では「金八先生」のような精神性を継承しつつ、ゆとり世代やZ世代との向き合い方を描いた令和の学園ドラマが出てきて欲しいところだ。

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