見出し画像

「チート」が全く通用しない『未来戦隊タイムレンジャー』10話感想〜「オシリス症候群」なるアヤセの不治の病は「明日を変える」を逆説的に肯定する契機〜

ここ数日「チート」という言葉が私の頭の中を駆け巡りリフレインしていたのだが、そこで改めて『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)を見てみると、非常に面白い。
今のスーパー戦隊シリーズが資本主義に汚染されたアプリゲームないしなろう系に代表される異世界転生ものの文脈で描かれており、完全な二次創作の領域に入ったと論じた。
スーパー戦隊が『海賊戦隊ゴーカイジャー』(2011)を契機として「公式が同人」とでもいうべき、全く異質のものへと変容してしまう路線へ舵を切ってしまう11年も前の話だ。
もっとも、その前に『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)からスーパー戦隊シリーズはいよいよ「画面の運動」ではなく「玩具販促の商売道具」へと成り下がって行くのだが……。

「タイムレンジャー」は実質「スーパー戦隊の終焉」としてミレニアムという時代性と作風と共に今でも機能し人々の心に驚きを与えるのだが、その中でも特にこの10話は大きな転換点だ。
改めて見直しているのだが、私にとって「タイムレンジャー」が本当の意味で軌道に乗るのは2話でも3話でもなく、何よりこのアヤセが動き出す10話にこそあるといえる。
なぜかというと、この回から竜也との関係性も含めてようやく「タイムレンジャー」が物語のテーマとして抱えている「明日を変える」ことが良くも悪くも輝きを帯びてくるからだ。
実は「タイムレンジャー」という作品が前に向かって動き出す時、そのキーパーソンとなるのは竜也でもユウリでも、そしてドモンでもシオンでもなくアヤセなのである。

この10話のハイライトは冷凍刑という罠に陥り絶体絶命のピンチに陥る竜也とアヤセのブロマンスにあるが、多くの人はここでアヤセのオシリス症候群なる不治の病が判明したことに驚く。
オシリス症候群をわからない人のために軽く説明しておくと、20世紀には存在しない心臓病の類であり、発症したが最後1年〜2年の間に突然心肺停止してしまうという病気のことだ。
つまりアヤセは1話の段階にして既に「絶対に死ぬ」という変えられない自身の未来からは逃れることができず、だからこそメンバーの中で1人だけ悟ったような物言いをしていた。
特にドモンに対して皮肉を言っていたのはドモンの無意識な楽天性に対する苛立ちもあるが、もう1つは五体満足で生きることができる他のメンバーたちへの憧れもあったのであろう。

そんなアヤセが「未来を変えられなくたって、自分たちの明日ぐらい変えようぜ」と言い切った竜也の言葉でハッとするように「明日を……変える……!」と言い出し、竜也にしか見せない素を見せるようになる。
3話でも「あの言葉、結構効いたぜ」と言っていたし、今回だってそうなのだが、竜也の言葉によってまるでアヤセは自分の生き様が肯定されているかのように感じられたのだという。
当時、この竜也とアヤセの関係性からいわゆる同性愛・BLなるものを想像した腐女子や嫌悪した男性ファンも沢山いたらしいが、以前も述べたように小林靖子は決してBL作家ではない
もしBLに見えていたのだとすればもっと近しい艶っけのある情の部分で通じ合う必要があるのだが、ここでの竜也とアヤセの関係は決してそのような同性愛の分脈で理解されるものではないだろう。

ではどういうものかというと、それは小林女史が初メインを担当した『星獣戦隊ギンガマン』(1998)の第十章『風の笛』のリョウマとハヤテの関係性の応用として描いているものだ。
そもそも竜也とアヤセがそれぞれリョウマとハヤテを継承したキャラであるのはいうまでもないが、アヤセはハヤテが持っていた「斜に構えたクールな皮肉屋」という側面を肥大化させている。
したがって、アヤセは小林女史が手がけたどの戦隊作品の中でも随一の孤独と影を背負った人物として描かざるを得ず、またそれに合わせて竜也はリョウマを更に楽天的かつ未熟な若者にせざるを得ない。
リョウマとハヤテは同郷の好ということもありお互いのことを知悉しているが故の衝突と和解だが、そういう関係性が全くない竜也とアヤセはここで初めて距離感が近くなる

だが、竜也が知ったのは「アヤセはいつ死ぬかもわからない」という残酷な変えられない「突然死」の運命であり、これは安直な「不治の病」を背負った感動ポルノではないだろう。
そこで初めて自分がそうとは知らず不意にかけてしまった「明日を変える」という言葉がいかに能天気なものであったかを後悔し、自身もまた凍死しそうになる。
若さ故の危うさや未熟さの膿がどんどん溜まっていき、見ている側はその悲劇性故にどうなるかとハラハラするのだが、ここで受け手が感動するのは決して「不治の病」でも竜也とアヤセの関係性の深まりでもない
冷凍室に閉じ込められた孤独で未熟な若者2人の今にも死に絶えそうながらも懸命に生きようとする様が画面の運動として暗い映像として活写されていることそれ自体にある。

坂本太郎監督のカメラワーク、そして真相を知り諦めかける竜也に対し、逆に「しっかりしろ。絶対に生きて、ここを出ようぜ」と振り切って前向きになるアヤセの絶妙な色気にあった。
ここが被写体の距離感も含めて絶妙に「若さ」というものをキャメラに収め切っており、不治の病を抱えているはずのアヤセが前向きに生きて竜也を励ますことで「明日を変える」という言葉がアヤセから肯定される。
3話以来竜也・ユウリ・ドモン・シオンとそれぞれの人物の基礎土台が出来上がって行く中で、アヤセだけが核心となる部分を絶妙に避けながら曖昧にやり過ごしており、決定打がなかった
しかし、そのアヤセこそが実はトゥモローリサーチのメンバーの中で一番竜也の影響を受け、また竜也も実は父親以外に初めて自分の価値観に影響を与えてくれる人物とここで出会ったのである。

これにより、竜也とアヤセは関係性が深まるとか物語のテーマがどうこうといったところを超えて自由闊達に動けるようになり、それが変身後の見事なツープラトンのアクションとして活写された。
改めて見ると、「タイムレンジャー」は「ストーリー・キャラクターは面白いがアクションにはいまいちカタルシスがない」というイメージを長いこと持っていたし、実際に痛快娯楽としてのカタルシスはない。
しかし、90年代までで散々こすり倒されたSFものや青春群像劇を集約させつつ、変身前の竜也たちの身振り手振りをしっかり変身後のアクションに繋げることができているのは見事である。
それと同時に、本作は30世紀のオーバーテクノロジーを付与されていながらも、それが決してタイムレンジャー5人の若者たちの生き方を豊かに肯定するための安易な道具にはなってないということだ。

そしてまた、オシリス症候群は決して小林靖子お得意の「登場人物に過酷な試練を背負わせる」というありがちなハードル設定ではなく、むしろ「明日を変える」という5人の青春を豊かに肯定するための契機なのだ。
「若さ故の未熟さ」「等身大の正義」としての若者の生き方は高寺Pの『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』で突き詰められたものだが、『未来戦隊タイムレンジャー』は更にその先にあるものである。
全員が未熟さや至らなさを克服しつつ地球や宇宙の平和を守るのではなく、未熟さや至らなさも含めて若者の生き様を豊かに肯定し1人1人が違ったままでも前向きに明日を変えていけるのが「タイムレンジャー」だ。
そしてそれは決して資本主義に汚染された企業の闇が跳梁跋扈している今のシリーズが決して持ち得ない精神性にして瞬間の感覚であり、ズルや騙しが通用しないハードな世界を竜也たちは生きている。

ちょうど比較として現在同時配信されている『炎神戦隊ゴーオンジャー』の走輔が一度死にかけたGP-36『走輔…トワニ』あたりと比較すると、より明瞭な対比となるであろう。
走輔が老朽化による瀕死状態に陥りメンバーに動揺が走るが、その割に全く画面全体に躍動感や面白味が感じられないのは走輔の死が単に物語上の盛り上げとして設定されているに過ぎないからだ。
彼が死にかけることで他のメンバーたちがいかに走輔がメンバーの精神的支柱かを実感し、前向きにヨゴシタインも挑み最後には走輔も復活して勝利を収めるが、物語としては確かにドラマチックではある。
しかし、それは決して走輔たちの若き生き様が画面の運動として肯定されていくのでも驚きを与えてくれるのでもなく、単にエンジンオーG12という最終メカやメンバー同士の結束が強まるための契機でしかない

要するに走輔の死は物語上の盛り上げとして設定されているものだということを論理的に頭で理解すればそれでよく、良くも悪くもそれが「お約束を行儀良くこなしました」というところから抜け出るものではないのだ。
だからどこまで行こうと「ゴーオンジャー」は、というか「ガオレンジャー」以降のスーパー戦隊は玩具販促をベースに物語が論理構造で仕組まれていて、まるでベルトコンベアーで生産された工業製品でしかない。
その次のGP-37『炎神バンキ!?』の古代炎神の仲間入りも結局は新兵器・カンカンバーを導入するためにわざとらしく組まれた見え透いた偽りの感動みたいなものであり、はっきり言って退屈だった。
やっぱりもう「ゴーオンジャー」の頃になるとスーパー戦隊は完全に作品としても商品としても別のものに変容してしまったと言わざるを得ないし、それは受け手の見方や見え方といった受容のされ方も同じだろう。

確かにスーパー戦隊は今も昔も子供向けの玩具販促ありきで作られてきたのは事実だし新アイテムなり新ロボなりが出てくるのは構わないが、それ故に本来あったシリーズの活力が失われていっている
そんな事実をやはり今同時配信を視聴していて「現在」として感じるところだ。


この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?