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僕らはなぜ優しいディストピアを拒否するのか ー「WALL・E」の思い出ー

※この記事は映画「WALL・E」の全体的なネタバレを含みます。未見の方は素晴らしい作品ですので、よければこの記事に関係なく見ていただきたいです。

 最近、「ディストピアでもルールを守れば安定した生活ができるならそれでいい」という意見が話題になっていましたが、それを聞いて思っていた、というか僕が創作するときによく思っていることがあります。
 僕の生涯ベスト3に入る映画にディズニー・ピクサーの「WALL・E」を見て思うことです。

 簡単に話の筋ををおさらいします。荒廃した地球を掃除するロボットのウォーリーが宇宙から飛来した探査ロボであるイブに恋をし、彼女を追いかけて探査船に乗り宇宙船に迷い込むとそこには住めなくなった地球を離れ宇宙船の中で暮らす人類がいます。その姿は、

空飛ぶ椅子にずっと座り続けているために自力で歩けなくなり、でっぷり、いやそれ以上に太っていて、誰とも関わりを持たず、機械の指示を受けながらだらだらと食事を取り、娯楽を楽しむ

という、いわゆる「カウチポテト」の究極系のような生態なのです。しかしウォーリーという異物、そしてイブの持ってきた地球の植物がきっかけとなり、ずっと怠惰の極みであった人間たちは文字通り立ち上がり、地球へと帰還します。そしてもう一度ここで文明を作り上げることを誓ってエンディングになります。
 この映画は本当に一コマ一コマ余す所なくすばらしいのですが、確かこの映画を二度目に見た時でしょうか、「これはハッピーエンドでいいのか?」と思ったことがあります。スタッフロールでは彼らがロボットと共に少しずつ文明を復活する姿が美しく描かれていますが、とはいえそれは一面を見ているだけだろう?という想像は容易です。おそらく裏では既知や未知の病気で亡くなる人もいるでしょうし、作業中の事故もあるでしょう。今まで関わり合いがなかったことで起きなかった諍いも間違いなく大量に起きます。乳幼児死亡率なんて多分急上昇していると思うんですよね。健常者と障碍者の格差もここからどんどん開いていくでしょう。おそらくあの空飛ぶ椅子の上にいる方が安全に長く、しかもある意味自由かつ平等に生きていけるわけで、いったいどっちがいい社会なんだろうと考えてしまいました。あの空飛ぶ椅子生活に近い生き方、たとえばずっと食っちゃ寝で生きていきたいと思ったことが誰でも一度ではあるのではないでしょうか?ある意味椅子の上の彼らが僕らのある種の願望をかなえた姿であることは否定できないでしょう。そう考えるとそれが実現している世界をわざわざ捨てるのはどうなんだ?という思いを抱いたんですね。
 ただ、この映画を見ているとそういう思考とは別にこのストーリーに「よかったなぁ」と強く思う自分も同時に存在します。頭の中や数字で考えていることとは違う、もっと根本的な感覚としての「これでいいんだ」という感動が浮かぶんです。そして、その感覚の方がきっと正解に近いんだろうと思うんですね。それがもしかしたら僕らがディストピアを拒否する理由で、それはこの映画の中で地球に帰ることを決断した宇宙船の船長の言葉である、

「生き残りたいんじゃない、生きたいんだ」

という言葉に表されているのでしょう。もしかしたらそれが「人間とは何なのか」ということの生物学的でない答えになるのかななんて考えたりしています。だからこそこの感覚を常に心に留めて創作をしたいのです。自分の作品にはディストピア性があるものも多いですが、この感覚をうまく言語化して作品に昇華出来たら、また違うものが書けるんじゃないかなという期待を持ちつつ、この話はここまでで。

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