我が引きこもりの価値

現実逃避

今とてもまずい状況なのだけど、現実逃避的な行動かもしれないのだけど。書き残しておこうと思う。

というか、もし今この行動が現実逃避なのだとしたら、現実逃避じみた現実逃避だなと思う。これまでやってきた現実逃避はタチが悪かった。いやタチが悪いから現実逃避だったのか。なのだとすると、今のこの行動はどんな現実逃避なのだろう。

一口に現実逃避といってもグラデーションがあるでしょう。そう、言葉にはかなりグラデーションがある。他人同士ならなおさらだけど、自分でさえそのグラデーションをきちんと認識できないでいることのほうが多い。ほとんどといってもよいかもしれない。

昔の現実逃避は、もはや現実逃避していることすら気づいていなかった。生きていく道そのものが現実逃避だったから。抽象的だから具体的にしようと思う。

「できないやつ」になりたくなかった

人はある時期に、ある方法で、ある期限までに、あることを達成できないと「できないやつ」「ダメなやつ」のレッテルを貼られてのけ者にされてしまう。つまり使えないということだ。

この「使えない」というのは厄介で、あくまでその場とか、その集団とか、その価値観ではというだけの話なのだけど、あたかも全方位的にできないような感覚がこびりついてしまう。機を逸すると、逃れるのはとても難しい。

例えば、学校の体育とかで運動は好きでそれなりにできるのだけど、サッカーだの野球だのバスケだのは練習していないからできないときに、まあダメと言われるわ、除け者にされるわ。できるとわかっていても、できないことにされてしまう。

こうして自己肯定感が下がるから、小学校とかで競争がなくなったりみんな主役の劇が生まれたりしたのかもしれない。でもそれは雑だなと思っている。大事なのは全方位的にできないと感じないような配慮。

ほかにもおしゃべりが苦手で、その場のノリについていけないときがある。あるバラエティ番組で放送された面白いくだりがあってそれを知らない時なども、使えないということになってしまう。

それなりに面白い話も持っていると思うのだけど、つまらないやつということになってしまう。今はテレビじゃないのかもしれないけどね。

さらには、知的な人を相手に、映画の感想などを話すとき。単によかったとか、ヒロインがこんな感じでとか、自分と重ねてしまったとか、感情的なことを言うとものすごく機嫌が悪くなる。

まあおそらく、昔のあの映画をモチーフにしているよねだの、あのシーンは何とかのオマージュだよねだの、監督がインタビューで語っていたのはこういうことだの、前作までとは作風が違うだのそういう、映画評論然とした(ここに書いたことが、評論ぽいかどうかはおいといて)回答が欲しいのだろうとは思うが。

ここまでを「かつて天才だった俺たちへ」状態と名付けようか。ちょっと違うか。

という具合にあげればきりがないのだけど、僕は他人の顔色を窺いまくってきた。これはなぜか。簡単だ、他人に興味がないのに、他人と良好な関係を築かなければならないことを強いられているからだ。これは文字通り興味がないんだ。無慈悲なほどに。伝わっているだろうか。

大人になってもキャラが定まらない問題

自分のキャラとかできる領分を確定させて近い属性の人を中心にコミュニケーションをとっていく。できることを中心にすればよいだけだ。だんだんと他人の顔を窺うまでもなくなる、慣れの問題だ(になると思う)。たいていの人は、「これは分からないな」とか、「できないな」と分かったなら、そういうところから距離をとっていくのだと思う。

何を当たり前のことをと言われるかもしれない。でも僕はこれができない。キャラなんて確定できない。できないことをできないと言えない。距離を取り切れない。簡単なことだ。簡単なことができない。バランスが悪い。

いつまでたってもキャラが確定できないから、私はこういう人であるというのが、周りに適切に浸透しない。

だから周りの人の気遣いだとか慮りが僕には届かない。頭で気を使ってもらっているなと理解しても、響かないのはそういうことだと思っている。他人と関係が深まらない原因とも、人見知り、コミュ力が低い原因とも。これだから卒業式だとか別れが伴う場面でも一切感情的になれない。振り返ったときに残るのは個人的な郷愁だけである。

できないやつに居場所はないのか

ある物事で「できないやつ」というレッテルを貼られると人格を否定されたような感じがある。なぜだろうか。

これも簡単だ。居場所がなくなる感じがするのだよ。似たようなところでは、恋人いない歴イコール年齢の人は、恋愛話が始まると居場所がない感じがして、急に床が抜け落ちたような感覚になる。ほかにも自分だけが誘われなかった旅行やイベントの話が始まったときの疎外感。それらの会話には絶対に入れてもらえないという強烈な拒絶感を合わせたような感覚が、「できないやつ」のレッテルであり、居場所がなくなる感覚に近いと考えている。

どうあっても「できないやつ」に居場所はないらしいから。昔の窓際族みたいな、できないやつをできないままに受け入れる(いや、ハブられているか)みたいなのは今は難しいから、だんだんとその圧力は強くなっている。子供の世界とか家庭とか、友達関係とか恋人関係とかそういうところにも影を落とすようになってきたように思う。

不景気が故か。

怖いから無理をして生きにくくなる

できない(ある時期に、ある方法で、ある期限までに、あることを達成できない)→居場所が消える

この恐怖は絶望的である。たいていの生きにくさはこれが原因だと思う。みんな怖いから、できないことに必死になる。みんな頑張って生きていく。しかしできないやつもいる。フィールドを変える、それでもできないやつがいる。大人になる、いつまでたってもできないままになる人もいる。僕のことなのだが。

マウントと評論家とできないやつ

さすがに僕もやめたけれど、領分を超えた批評をして訳知り顔になって(この記事は矛盾か)、まわりまわってだれかの誹謗中傷の可能性を生み出してしまうのもこれが一つの理由だと思うのだよ。自分はこれくらいのことを考えている、といって虚勢を張り倒さないと自分の存在と周囲との関係性を保てないような錯覚に陥ってしまう。有用性を示すための方法としての雑で稚拙な評論だ。

ぱっと見、マウントとか優位性の表明に見えるけど、僕には有用性を示しているように見える。彼らには切実さとか必死さが垣間見える。怖がっているような。

近いのは朝井リョウの「何者」の二宮拓人状態だ。自分が使える人間であると必死で主張しないといけない。洞察力があると言わなければいけない。評論ができるほどの積み上げや経験はないにも関わらず。そういう不完全な評論はだれかを傷つけてしまうこともある。負の連鎖だ。

「できないやつ」を受け入れる(引きこもりの効用)

最初の話に戻す。僕の昔の現実逃避は、できないのにできるフリをしたことだ。そして、終わりなき無理をし続けた。学校でも会社でも家庭でも友達関係でも恋愛でもずっと。あまりに小さなころからやっていたから現実逃避していることに気づかなかった。

無職になって1年半うだうだしてきた。それによってまずい状況になっている。ああ、やばいのだけど。書かずにはいられない。ここに書いているようなことはこのうだうだの中でまとまったものの一部だ。

どうせクソの役にも立たない。誰にも届かない。そのせいでホームレスになるかもしれない。扶養照会的なやつで家族に連絡がいくかもしれない。それはそれで怖いし嫌だ。とても。とても。

という具合で今も現実逃避をしている。だけどこれまでの現実逃避とは違う。まずそれと認識している。次に現実的な解決策も考えた。あとは時間の問題だ。ここ20年以上感じていた不安感はないのだ。いやクソ不安だけど、何とかできると思っている。

やっと歩けるようになったようだ。

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