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配られたカードで勝負す、むにゃむにゃ『オンネリとアンネリのおうち』

やあ、僕だよ。
「ばんちゃん(息子氏愛称)はー? カワイイー!」単に可愛いと言うのではなく、息子氏自身に問いながら言うのがブームである。
いくら言っても言い足りないから、ついに彼自身を巻き込むことにしたんだよね。

IQがほぼ常に低下しているこの状況は、毎日毎日、可愛いを振り撒く息子氏のせい。
今も僕のTシャツにしがみつき、頭を振って赤くなるまで顔を擦り付けている。とんでもない可愛さ。こいつ一体いくつ引き出しを持っていやがるんだ、ええ?

可愛い盛りは2歳までと聞くが、こんなのが2年も続いてしまったら、保育園に行かせる時のメンタルがかなり危なくなるのは想像に難くない。
なんとなく母の勘からして、この人ドライにスッと通っちゃいそうなんだよな。僕傷ついちゃう。かといって父譲りの空気読みで嘘泣きされても、それはそれでちんけなプライドが傷つく。厄介なママちゃんでごめんね。

今日も初めての場所に連れていかれ、刺激が強いはずなのに大人しく、それでいて終始機嫌の良さそうな息子氏だが、あっという間にこしゃまっくれた可愛いガキに成長してしまうことを思うとどこか寂しい。

今回はそんな寂しい気持ちに引っ張られつつ、可愛いガキが観たくて選んだ一本だよ。

さあ、始めようか。
今日も楽しんでくれると嬉しいよ。

本作あらすじと感想

まずこのサムネ。可愛い。可愛いしか詰まっていない。
フィンランドの心地よさを全面に押し出した可愛さは、日本のkawaiiにも通ずる要素が多いように思う。
パステルカラーやお花のモチーフ、素敵なお茶会、装飾過多なお菓子。そして、見目麗しい少女二人。
乙女な僕が大いに反応するアイテムばかり画面上に並べられていて、それだけでハッピーハッピーだ。

話としては、ひょんなことから可愛い「家」を手に入れた「アンネリ」と「オンネリ」が、少し不思議な大人たちとほっこり過ごしたひと夏の話である。

彼女らが二人暮らしをとっても楽しんでいるので、いないことを両親に気づかれなかったり、約束を反故にされてしまう「家」に普段いることを忘れてしまう。
元の原作は児童文学らしいが、本編にはあまり関わらないこのシビアさが、いいスパイスになっている。海外の児童向けエンタメはやけにこういうの多いよね。

子どもには子どもの事情があり、大人には大人の事情がある。
これは子どもや大人に限ったことではないけれど、一つのポジションに固定されてしまうと他の立場を想像しづらくなってしまうのは僕らのよくないところだ。

特に彼女たちのような子どもの事情は無視されがちで、その中でめいっぱい楽しんでいる様子を見ると胸が締め付けられる思いがする。
都合のいいシナリオ展開が多いが、それでいい。子どもの事情を最大限優先できるのが現実だとほとんど有り得ないのだから、フィクションでくらい都合よくたっていいじゃないか。

とにかくパステルカラーな愛らしさを楽しみたい君たちにおすすめの美しい一本。
フィンランド好きの君にもぜひ観てほしい映画だよ。

人生は配られたカードで勝負するしかないのさ

You play with the cards you’re dealt …whatever that means. 
(人生は配られたカードで勝負するしかないのさ、それがどういう意味であっても。)

有名すぎるスヌーピーの至言である。僕はこの言葉に初めて出会ってからというもの、ことあるごとに自分に言い聞かせている。
というのも言い聞かせないと忘れてしまう、僕の元の考え方とは遠い考え方だからで、今の僕が一番大事にしたい価値観だからだ。

元々の僕は自分の境遇に嘆き悲しみ、自分の無能さに呆れ、諦め、手放したものや手に入らなかったもののことばかり考えていた。支配されていたと言ってもいい。
自分の持っているものには見向きもせず、実際の生活をないがしろにしていた。何故見向きもしなかったかというと、自分の持っているものがガラクタだったら絶望するからだ。一度でも絶望したら僕はきっと二度と這い上がれないと、自分をそう評価していたし、自分のプライドは高いのだと思っていた。

そして、ある時絶望した。自分の持っているものが見えないまま、特に大きな失敗をするでもなく。そんな自分に驚いたのは他ならぬ僕自身だった。あんなに怖がっていた絶望はとても身近で、僕が自分に向き合おうが向き合わまいが、関係なくやってきた。

僕は自分が長らく死にたがっていたこと、あまり体力がないこと、実は人間がそこまで(絶望する前までの僕が思うようには)好きじゃないことに気づいた。さらに、絶望は長い時間をくれた。皮肉にもその時間で僕は、自分が持っているものも初めて知った。

大したものではなかったが、ガラクタではなかった。
僕はこの件について非常に後悔していて、もっと若い時に、変に怖がらず、自分の持っているものに向き合っていたら今の僕が思う、進みたい方のもっと先へ進めていただろう。本当のところ、何を持っているかより、持っているものを把握することの方がずっと重要なのだ。

配られたカードを把握せずにゲームをするプレイヤーなんてカモに決まっている。

お下がりのスヌーピーは手触りがいい

妹から譲り受けた姪のお下がりの中に、スヌーピーのベビー服がある。
洗濯の回数が絶妙だからなのか、ふわふわして何度も撫でたくなる。

最初、僕はこの服の見た目が気に入らなかった。色褪せているように見えるし、パステルカラーに白単色でスヌーピーが印字されているので、スヌーピーが見えづらい。
せっかくキャラクターものを着せるなら、ちゃんと何のキャラクターか分かる方が可愛いと思っている。

それでも息子氏の服も最低限しか持ちたくない(物の数が多くなると管理ができないので、必要に迫られたミニマリストである)僕なので、結局その服も着せることになった。
そしたら、ボタンの数が多すぎず少なすぎない使いやすさで、息子氏にしつらえたような形でちょうどよく、何より抱っこした時の手触りがいい。

見えなかった良いところが使ってみて初めて見える、なんてことはよくよく起こりがちなのだ。僕のような愚鈍なやつには。

役に立たないカードなんて無い

僕の持っているものは、お下がりのベビー服だけではない。物であれ、スキルであれ、その他のことであれ。
何が重要かと言えば、まずは把握である。何を持っているか、向き合うことでようやく勝負できるプレイヤーになれる。これをやらないことにはただのカモである。しかも、世の中には案外カモが多いのだ(あくまでも僕の私見だけれど)。

さらに、これがなかなか難しいのだが、ルールを理解すること。僕らが参加しているこのゲームのルールは、複雑で入り組んでいる。一見分かりやすいものも混じっているから、理解しようとしなければいつまでも分からないままだ。
分からなくても勝つことは出来るけれど、ルールが分からなければ再現性がない。再現性のない勝利は頼りない。というか、そもそも勝利条件が分からないことには勝つことすらままならない。それが人生というゲームなのだ。

手触りがよくてくっついていたら

「持っているカードを嘆いていても、どう使うかを決めることは出来ない」みたいな文章を、書いては消し、書いては消し、を繰り返している。
僕の隣の息子氏はぐっすり眠っていて、どんどんこちらへ寄ってくる。無意識下でも僕の体に触って寝ていたいのだ(と信じてる)。

可愛いの気持ちでいっぱいで、あったかくてとても眠くなってきた。スヌーピーらしき模様に鼻をうずめ、思いっきり空気を吸い込む。ミルクの、赤ちゃんの匂いがする。

勝つとか、負けるとか、カモとか、どうでもよくなってくる。
あ、もしかしてこれはルールの一つなのかもとおもったけどあたたかくてよくわかんなくなってきたからねることにします。

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