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深夜の散歩中にろくでなしな父と食べたとんこつラーメンを僕は忘れない

産後入院5日目、息子氏との足並みも揃い始め、時間帯や匂いや口や手足の動き、気温や湿度、直前の行動などから彼の感情にいくらかの予想がつくようになってきた。
付き合って半年から一年くらいの「そこそこ分かってるけどたまに分からないことが出てきていいスパイスになる」みたいな関係性だ。

息子氏のことを考えるとIQはほぼ底値になり、「ビャンち、ちゅっちゅっちゅっちゅきゃわきゃわきゃわたんでしゅねぇ」などと厄介ファンのようなレスを彼に送ってしまうのが少し気になるが(赤ちゃん言葉が知育に良いと聞いて「マジかよ…」と思っていたが、大丈夫、自然と出る。人間はそういう作りになっている)。


妊娠していた頃からお世話になっているninaruアプリ。なんとなくベビー版も入れていて、こちらの画像は生後12日に見られる画面のスクショである。
深夜の新生児室通いも板についてきた僕だ。助産師さんと他のご母堂たちの会話や切実さを目の当たりにするに、「母乳ミルク育成論」は一筋縄ではいかないらしいことは把握した。

そんなわけで、今回は色々議論のなされる「母乳ミルク育成論」について書いていこうと思う。

母乳のおかげで低体温症になりかけるルーキー母

僕の家系は母乳が出やすい家系だと聞いていたから、遺伝的には出るのだろうなと思っていた。
が、一時間横になるだけで脇腹がびしょびしょになるほど出るとは聞いていない。

母乳について触れてこなかった君たちは、何を言ってるか分からないだろう。
妊婦だった僕だって、こんなことになるなど自分が体験してから初めて知ったのだ。

世の中(僕の世の中は大抵インターネットの中にある)には完全母乳育児、いわゆる完母がしたくて乳頭マッサージを試みるも全然出なくて泣く泣く諦めただの、自分はこだわっていないのに病院の方針で母乳を強制されて辛いだの、母乳に勝るものはなしだの、色んな「意見」を読むことができる。

しかし僕のような母乳が出すぎるーー開きっぱなしの蛇口あるいはバケツをひっくり返したようなそれーー話はあまり出てこない。

一昨日も、よく飲み、よく出し、よく眠るエリート赤子の息子氏をベッドサイドに寄せ(移動式ベビーベッドのようなものに乗せられている)、顔を見ながら幸せな入眠を遂げたのだけれど、一時間後ベッドのシーツにまで至る浸水に目を覚ましてしまった。
幸いにも息子氏がよく眠る赤子だからいいものの、これがぐずり続ける飼育最高難度の赤子だったら不眠症で精神を病んでしまうかも知れない。

「きゃーわいいなぁ、ふふふふふ」

午前3時である。
しかも大部屋で、僕は「赤ちゃんが起きちゃうので静かにしてください」と同部屋のご母堂に言われた身である(なお、彼女はすでに退院しているのだけれど、その交流はコミュ障の僕にしては結構頑張ってて、わりと良い思い出になっているのでぜひ後日記事にしようと思っている)。

息子氏のほっぺたをつつきながら、次回の予定授乳時間の午前4時まで待つ。
僕のメンタルはたいがいこの時間に総崩れになることが多いように思うのだが、産後はまどろみと静けさで最も幸せな時間帯に感じている。マジで息子は可愛い。

あっという間に幸せな一時間が過ぎ、あったかほっこり授乳タイムである。
息子氏の生理的微笑(新生児特有の感情を伴わないと言われている微笑みのこと。呼吸困難になるほど可愛い)が止まらず、母はずっと「へへへ」などとうるさくしていた。

やけに出る母乳のおかげで生後10日目に60mlのミルクを足して以来、ずっと「完母」だ。乳首の乾く暇なく、たまに痛むので授乳する度に保湿をし、柔らかめのラップ(格安ラップだとかぶれてひどい思いをする)で包んでやる必要がある。
それでも乳幼児の舌はざらついているので赤く今にも擦りきれそうになりながらも、二つしかないオンリーツー乳首はすんでのところで踏みとどまっている。

令和のモーレツ社員、企業戦士、24時間戦えますか、だ。

乳首とはうって変わり、本体の方は睡眠不足どころか産前の倍以上寝ているし、飯は美味いしで、すこぶる調子がいい。
廊下で主治医先生にばったり会って「体調どうですか?」と聞かれたのだけれど、「生涯で一番体調がいいかもしれません」と話したら「冗談ですよね、ははは」と流されたくらいである。

この夜も昼間にたっぷり寝た僕は、戸棚に隠しておいたおやつを楽しむために温かい飲みものを淹れ、優雅にヨフカシナイトフィーバー開催の手筈を整えていた。
授乳後2時間は完全フリータイム。僕ひとり、僕だけの時間である。

温かい飲みものを淹れたついでにトイレに立った。
四六時中エアコンが効いている病室は非常に乾燥していたし、母乳を出すせいか普段より余計に水分を欲すようになっていたからだ。
用を足し、立ち上がる。途端にすうっと血の気が引いた。「こりゃいかんな」とぼんやり思った次の瞬間、強烈な寒気に立っていられなくなる。
トイレ内だったのが幸いし、温座で尻と手を温める。歯ががちがちと鳴り、体の震えが止まらない。風邪でも引いただろうかと思ったが、普段感じたことのないような激しい悪寒に思考がうまくまとまらない。

そして僕は夢を見た。
その夢で僕は大学時代の仲間と寒中キャンプをしていた。夏用シュラフにめいっぱいの防寒着を詰め込み、熱燗でやり過ごした思い出そのままの光景だった。
思い出と違ったのは、僕の脇腹がぐっしょりと濡れていたこと。同期に「寒くて仕方ないんだ」と言ったら、「濡れてると低体温症になるんだよ、救急講習で習ったじゃない」と彼女らしからぬそっけない様子で答えが返ってきた。

一瞬の夢から目覚めると、僕はまだ温座の上にいた。が、悪寒は去っていない。急いで上半身裸になり、トイレットペーパーで体表面の湿気を取った。
ここでひと心地ついたことで、インスピレーションを得る。なるほどこれは、低体温症、、、、になりかかっていたのかもしれない、と。
この夜はまた降雪があるかもとされていた寒い日で、しかも暖房が少々しぼられていたと思う。
濡れたパジャマで深部体温が下がっていたところに、より気温の低いトイレで排尿をした。これがこの事態を引き起こしたのではないか。

…こんなことを考えている時ではない。体の温度をとにかく上げなければ。

それからの僕は迅速で、改めて温かいタオルで脇腹周辺を清拭し、乾いた下着とパジャマに着替え、念のため持って来ていたレッグウォーマーを着用、両肩甲骨の間と尻にカイロを貼り付けた。

マジで本当に怖かった。
二度と体験したくない出来事である。

母乳とミルクの大変なところ

成り行き完全母乳(意図せず母乳のみの育児になってしまうこと。特に本人はこだわりなし)スタイルの僕は「すごいね」「頑張ってるね」などと褒められると座りが悪い。
何故、母乳で育ててるだけでこんなにも褒められてしまうのか。

だって僕が頑張ったことと言えば、助産師さんたちの苛烈な乳頭マッサージに耐えたことくらいで他の部分はむしろ粉ミルクより楽だと思っている。

粉ミルクの大変なところは、温度や衛生管理、それと食間のコントロールである。ミルクはどんなに泣き叫ぼうとも原則3時間空けなければならないみたいだ。
もちろん、タイマーを使ってきっちり3時間というわけではないが、消化しづらい物を消化能力の低い赤子にどんどん採食させるのはまずいという話だろう。

この辺り、爬虫類の食事コントロールに似ている。加えて、人間の場合は狭い範囲での採食量ががちがちに決まっている(ように聞こえる言い方に思えた)ため、「食べないんで、とりあえず湿度上げて一晩様子見ましょうか」なんてことができない。こんな生き物を「疲れたらいつでも預かりますからね」と笑顔で言える助産師さんたちはすごい。仕事だからできるものじゃないと思う。

個人的見解では、粉ミルクの方が嗜好性は高そうである。
息子氏も粉ミルクの匂いに大興奮するし、多少温度が低くても哺乳瓶からごくごく飲む。母乳は、少しでも温度が低くなると飲み渋る気がする。
実際舐めてみると、ミルクの方が若干甘みを感じられ、母乳は酸味を感じた。人間は甘みの虜囚である。このクオリティで母乳に近い成分だというのだから、日本の食品加工の技術は凄まじいものがある。
ちなみに、母乳は時間帯や赤子の成長状況で成分が変わるらしい。であれば味も変わるのだろうか。引き続き、要観察かもしれないな。

母乳の大変なところは、腹持ちの悪さと母以外の人間が赤子に採食させられないところである。
正直、新生児期の育児で一番楽しいのが採食させるタイミングだ。何はともあれ可愛い。
一生懸命、我々大人が差し出す何がしかを口に含む姿、逆に海老反りになって抵抗する姿、ゲップを待つ姿、慌てて飲んで咳き込む姿、ちょっと吐いちゃう姿。
こんなに可愛い姿を哺乳瓶を使わない育児だと母親が独占することになる。

しかし、哺乳瓶で飲む姿のなんと可愛いことか!

楽したいがために成り行き完全母乳になっている僕だけれど、家に帰ったらミルクを買おうと思っている。
彼はミルクの味が好きそう(実際はどうか分からないが)で、食の楽しみを奪いたくないのが一つ。もう一つは、夫にこの可愛さを体験してほしいからだ。
とにかく哺乳瓶と赤子のシナジーはやばい。とってもとっても可愛いのである。

大切なのは美味しいものをお腹いっぱい、大好きなひとと食べること

僕のろくでなしな父の話をしよう。
父のろくでなしさについて詳細は省くが、いわゆる「無責任系クズ」である。
金はあればあるだけ使い、性にだらしなく、自分に極力甘い。いかんせん、口が上手いものだから世の中渡ってこれたが、それ以外特段いいところのない父である。

そんな父は妹の方をよっぽど愛していた(こういうのを隠さないのも父らしい)のだけれど、一時期、深夜の散歩に僕を連れ出していたことがある。
当時住んでいた家の近くは幹線道路に囲まれた工業地帯で、深夜に外に出ると店の一つも開いてやしない、散歩に向かない地域だった。
そんな中、唯一開いていたのがとんこつラーメンの店。
二人で10分ほど歩き、そのとんこつラーメンを食べるのが散歩の目的だった。僕は店に垂れ下がるいくつかの白熱灯や、レモンイエローの看板やのれんの眩しさ、鼻が曲がるほどの煮詰まった強い臭いの全てが大好きだった。

実のところ、とんこつラーメン自体はさほど優れたラーメンでなかったように思うが、深夜の特別さと父と一緒に食べたという事実が満足感の原因だったのだろう。

これに対して「栄養が〜」だの「もっと良いものを〜」だの言える人がいるだろうか。
大体、母乳もミルクもどちらも非常に管理が難しく、また栄養価の高い食べ物である。これを欠かさず子に含ませるだけで花丸満点。
僕が一番言いたいのはつまり、何を食べるかという話ではなく、誰とどのように、、、、、、食べるかが重要だという話なのだ。

苦手なものがあるなら高級なものを食べると良いらしい

人間は大脳の生きものである、というのは再三僕が主張している見解である。

味覚も例に漏れず、大脳に支配されている。
というのも大昔に読んだ本で、「食べられないものがあるならその中で最も美味しいものを食べると、最も美味しいものでなくても自然と食べられるようになる」と書いてあったのを実感を伴ってずっと支持しているのだ。
例えば、昔、僕はお寿司が苦手だった。特にウニとマグロが苦手だった。みんながありがたがって食べるものだから小さい頃に挑戦したのだけれど、マグロの解凍臭と血の味、ウニのグニュグニュとした得体の知れなさに吐いてしまった。

大人になってからもなんとなくお寿司を避けがちだったのだが、ひょんなことから三浦海岸のマグロ丼を食べたのだ。当時楽しくお付き合いしていた人と食べた、それなりのお値段のマグロはとてつもなく美味しかった。
その後、ウニもそれなりのお値段できちんと処理されているものを日本酒と頂いたら、「どこが苦手だったのだろう?」と思うほどすんなり克服した。今では100円のウニもありがたがって食べている。

どうやら、グレードの低い食べものを食べる時も人は少なからず美味しい記憶を思い出しているらしいのである。
だから、苦手なものに美味しい記憶を植え付けることでどの苦手なものも食べられるようになるというロジックなのだ。

別にこの方法を使って「苦手なものをなくそう!」みたいな実益のある話ではない。
要は、人間が食べる時、使っているのは消化器官だけではないと僕は言いたいのである。なんなら腸なんて第二の脳なんて呼び名もあるくらいだし、食と脳はまこと深い関係なのだと思う。

母乳でもミルクでも楽しく飲めたらそれで良いんじゃない

…5000文字使って伝えたいことはこれである。
冒頭の画像とほぼ同じ結論に至ってしまった。
でもね、本当にそうだと思うんだよ。

手作りや健康にこだわるあまり厳しい制限があって追い込まれてる食卓と、テレビつけっぱなしで出来合いの惣菜とサラダだけだけど家族みんなでああでもないこうでもないと1日の話をめいっぱいする食卓と、どっちがいいかって後者じゃないか。
よりよくしていきたい気持ちに振り回されすぎないのが重要だと思うんだよね。

よっぽど極端な偏りがないかぎり(例えば毎日同じメニューの冷凍食品とか)は、そんな感じでいいんじゃないかな。
だから母乳とかミルクとかどうだって良いんだよ、どうせ覚えてやしないし、ガチで悩むだけ無駄である。

(ちなみに、母も妹も母乳が出るのが当たり前のスタンスなので成り行き完全母乳の話をしてもまったく褒められませんでした。ぴえん。)

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