企業の社会的責任

企業は株主利益を守る責任があることを前回説明した。それでは一般的な社会に対しても企業は何らかの責任を負っているのであろうか。それとも、企業は単に株主の利益を最大化するよう行動すればよいのであろうか。この企業の社会的責任 (Corporate Social Responsibility, CSR) に関する議論はアメリカでは1970年代ごろから盛んになされており、日本では四代公害病など高度経済成長以降、企業に対する責任論が台頭してきた。ここではまず、企業の社会的責任を「企業は自らの行動に説明責任を持ち、経済的な利益と同時に、社会的な便益をも追求すべき、という考え方」として議論する。

企業が株主だけでなく、広く社会に対して責任を負う根拠として提示されるのが、「責任の鉄則 (Iron Law of Responsibility) 」という考え方である。これは、社会が責任あると考えるやり方で、自らの力を行使しないものは、それを失う傾向にある、という考えを意味しており、これに基づけば企業は規模が大きくなればなるほど、その責任は大きくなるということが示唆されている (Davis 1973)。例えば、大企業であれば中小企業に比べて慈善事業をするだけの余裕がある。そして、社会貢献活動として植林や地域清掃、教育への支援など、実際のビジネス活動とは異なる活動を行う大企業は多い。一方、資金的な余裕のない企業は、植林や地域清掃などをするよりも、まずは本業をしっかりとこなし、利益を生み出すことが求められるだろう。

ここで疑問となるのは、こうした慈善事業をする責任を企業は負っているのか、という点である。責任を負う、ということは、その行為をしなければならない、あるいはすべきである、ということを示唆している。つまり、企業は慈善事業をすべきなのだろうか、というのが企業の社会的責任を考える上では一つ重要な問いになる。

この慈善事業に対する考え方としては、ノーベル経済学者のミルトン・フリードマンの企業の社会的責任の議論が代表的なものとしてあげられる。彼は企業の社会的責任として経済的側面を強調し、次のように述べている。

「自由主義経済体制のもとではビジネスの社会的責任は一つしかない。それは利潤を増大させることである。自らの資源を活用し利潤の増大を目指した様々な行動に没頭することである。ただし、それは詐欺や欺瞞のない開かれた自由競争というゲームの範囲内においてである (Friedman 1962)。」

企業が利潤の最大化を目指すことは、株主利益の最大化という点から支持されるものである。なぜなら、企業は株主から信託責任を負っており、企業が利潤の最大化を目指せば、それによって株主に配分される利益もまた最大化されるからである。そして、この考え方に基づけば、企業は慈善事業を行うべきではないことになる。なぜなら、企業が慈善事業の資金を費やすことは、株主から信託されている資本をそうした活動に費やすことにつながるからである。慈善事業は、個人が自らの判断ですべきことであって、
ビジネスがそれを行わなければならない理由はない。つまり、株主の提供する資本を経営者の嗜好に使ってはいけないのである。そして、フリードマンは慈善事業がビジネスに役立つ(例えば巡り巡って利益につながる)と考えているのなら、それは不純な動機に基づく偽善行為であるとも述べている (Friedman 1970)。

このようにフリードマンは企業の社会的責任を徹底的に経済的な利潤の追求に見出している。しかし、現在このような考え方に基づいて経済活動にのみに注力している企業は少ないと言える。これは、多くの企業が経済的な責任以外にも何らかの責任を社会に対して請け負っていることを受け入れ、そのための活動を行っているからに他ならない。とりわけ、キャロルはフリードマンよりも広義の企業の社会的責任を提言している。彼の四つの企業の社会的責任は以下の通りである (Carroll 1979; Carroll 1991)。一つ目は経済的責任 (Economic Responsibilities) である。これは、企業に対して良い製品・サービスを生み出し、それらを売ることで収益を上げることを責任として定義している。そして二つ目の責任が法的責任 (Legal Responsibilities) である。すなわち、社会は企業に法や規制に従うことを期待しており、法や規制に従うことは企業の社会的責任の一つであると言える。三つめは倫理的責任 (Ethical Responsibilities)である。社会は企業に倫理的社会規範に従い、倫理的に振舞うことを期待している。これは、法律や規制として明文化されていないものの、社会的にそのように行動するのが望ましいと考えられていることに対して、社会は企業にそうした規範に従うよう求めることを意味している。例えば、日本では従業員の解雇が非常に難しいと言われているが、これは多くの企業が「従業員の雇用を守ることが社会的責任である」と考えているからであり、従業員を解雇することは責任放棄であると考えていることに起因している。最後に、キャロルはフィランソロピーの責任 (Philanthropic Responsibilities) を定義している。これは、社会が企業に良き企業市民であることを期待し、生活の質を向上させるよう求めていることを意味している。

キャロルの定義する経済的責任及び法的責任は、フリードマンの社会的責任論とも重なる部分がある。経済的責任はフリードマンの責任論の核となる考え方であり、法的責任に関してもフリードマンは企業に「詐欺や欺瞞のない開かれた自由競争」の下で経済活動を行うことを求めている。一方、キャロルは倫理的責任やフィランソロピーの責任という点でフリードマンの社会的責任論より広い責任を企業に認めている。とりわけ、フィランソロピーの責任はフリードマンが明確に否定したものである。

References

Carroll, A. B. (1979). A three-dimensional conceptual model of corporate performance. Academy of Management Review, 4(4), 497-505.
Carroll, A. B. (1991). The pyramid of corporate social responsibility: Toward the moral management of organizational stakeholders. Business Horizons, 34(4), 39-48.
Davis, K. (1973). The case for and against business assumption of social responsibilities. Academy of Management Journal, 16(2), 312-322.
Friedman, M. (1962). Capitalism and freedom. Chicago: University of Chicago Press.
Friedman, M. (1970, September, 13). The social responsibility of business is to increase its profits. New York Time Magazine.

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