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音ゲーマーの「承認欲求」と「成長」

 ご無沙汰しております。うっでぃです。

 これまでずっと思うところはあったが、一本の記事に出来るほどの内容にはならないのではないかという懸念から手を出していなかった話題について書きたいと思います。
 そんな今回のテーマとは、「承認欲求」について
 音ゲーを継続的にやり続け、成長を目指し続ける我々音ゲーマーにとって、「承認欲求」とは切り離したくも切り離せない厄介な存在であることに異論は無いのではないでしょうか。

 かくいう自分も(こんなことを言うのは恥ずかしい自分語りと見做されるだろうからあまり口に出したくはないですが)承認欲求がめちゃくちゃ強いタイプです。自分が嬉しいと感じたリザルトは人にも褒めてほしいし、SNSに載せたのに反応が薄いと結構凹みます。
 まぁ、わざわざ口には出さないだけで素直な気持ちとしては皆さん同じだと思います。同じじゃなかったらSNS中毒が世間で広く問題になったりなんぞしません。


 そういうわけで、我々がほんのりと苦しめられ、あるいは幸せを感じさせられることもある、この「承認欲求」というものについて、どう向き合うべきか?どうすれば満たすことができるのか?といったことを考えていきたい所存です。
 例によって書きながら考える見切り発車です。よろしくお願いします。


「承認欲求」の何が害なのか

 向き合い方や何かを考えるには、そもそもどうして「承認欲求を前面に押し出すこと」が悪とされているのかを考えなければいけません。
 まぁ「悪とされている」というと少し大袈裟というか語弊がありますね。「良しとされていない」ぐらいがいいでしょうか。

 これについては諸説あろうと思いますが、一つには「褒める」という行為が能動性ありきであることに理由を見出せるのではないでしょうか。
 誰かが誰かを称賛するにあたっては、①その行為の褒められるべきポイントを見つけ②褒めたいという気持ちが生じたとき、③それを言葉などに表して伝えるというプロセスがあります。
 この3つは概して、褒める主体の意志によるところが極めて大きく、①が②になるにも②が③になるにも当人がそうしたいと思うことが最大の条件です。
 それでいて、人間は強制されたくない生き物ですから、無闇に褒める行為を促すことはその能動性を殺すこととほぼ同義です。
「あんた宿題はやったの?まだならすぐやんなさいよ」
「今やろうと思ってたとこなのにさぁ!」

という幼き日の母との会話を思い起こせば、この辺りの話については多くを語る必要はないでしょう。
 褒められたい!というアピールが積極的かつ過剰だと、なかなか褒める気が起きなくなり、褒められないとなるともっとアピールが強まり、……という悪循環はそこら中で見受けられるように思います。

 他にも考えられる理由として、「コミュニケーションの観点で好ましくない」というのもありえます。
 上に述べたのもディスコミュニケーションの一例といった感じではありますが、もっと単純に、「自分の話をしてばかりいるのは相手に失礼だしよろしくないよね」というだけの話です。
 Twitterのように「ひとりごと」を発信し続けるような形式のSNSではあまり縁のない話にも思われます。しかし、自分に関心が無さそうな(関心を持ってくれなさそうな)人が誰かに褒められたいそぶりをしていても、あまり「褒め称えたい」という気持ちは湧いてこないのが人の常ではないでしょうか。

 以上のように、承認欲求を前面に押し出す行為がなぜ良しとされないかは、「承認をくれる相手とコミュニケーションを持とうとする気持ちに欠けているから」というのが妥当そうです。


それでも承認欲求を満たしたくはある

 承認欲求を満たしたがることを批判するような物言いをしたばかりですが、僕もこれでも人生のおよそ半分の期間を「音ゲーマー」として過ごしてきた人間です。色々な人を見てきて、「誰に見せるでもなく黙々とやり続ける」という形をとって上達できる人間は極めて稀であると経験的に理解しています。(※いないわけではないし、むしろそれで上達し続けられる人こそ俗に「天才」と呼ばれる類の人間だと僕は認識しています。)
 つまり、大多数の人間にとっては、承認欲求を満たすことが上達するための要件になっているはずなのです。

 もちろん異論はあるだろうと思います。
「俺たちゃ何も誰かに褒められたくて音ゲーやってるわけじゃねえぞ!褒められなくたって上達できらぁ!」
という具合に。
 僕としても、誰かに褒められることを目的に音ゲーをやるのはどこか倒錯していると感じますし、褒められなくてもやり続けられる、上達を目指してひたむきに出来る、というのが理想だと思っています。

 ですが、長いスパンで見た時に、「誰かに見てもらえている」という実感を得ることなく、誰かに褒められることもなく音ゲーをやり続けるなどということが果たして出来るでしょうか?
 自分の行為を認め、上達を喜び、次の目標の達成に向けて鼓舞するのが自分自身だけだとしたら、どこかで途方の無さを感じて走る脚は止まってしまうのではないでしょうか。


 要するに、僕が言いたいのは、承認欲求を満たすこととは即ちガソリンを入れることだ、ということです。

 誰かが自分を見てくれている、と感じられた時、より良い自分を見せられるようにもっと努力しようとする心の動きがあるのは社会的動物である人間として必然です。
 努力することの目的が「誰かにより良い自分を見せるため」になってしまうと、字面からしても不純であることは否めません(いわば「ガソリンを入れるために走っている」状態ということに……)が、より一層の努力のために承認欲求を満たしたいと思うことは至極真っ当なことではないかと僕は考えます。

 見てもらえている実感を得る必要がどれだけあるかは人によってまちまちである点も、「燃費が違う」と言い換えればスッと腑に落ちる気がしていて、我ながらこの喩えは良い指針になっています。


「褒め上手」と「褒められ上手」

 さて、承認欲求を満たす必要はあると述べ、しかし承認欲求を満たしたがるのは良くないと述べました。そうするといよいよ「どうすれば承認欲求を角を立てることなく満たすことが出来るか?」というお話に入っていきます。

 僕がこの音ゲー界隈に身を置いて、あまたの人間を見てきたなかで、見出されてきたある傾向があります。

 それは、「上手い人・上手くなる見込みがある人ほどコミュニケーションが上手い」というものです。残酷な真実。

 あくまで傾向の話で、これに当てはまらない例ももちろんありますが、実力が頭打ちになっている人ほど友達といるのをほとんど見たことがなかったり、「実力はあるのに会話がままならないような人」と言われると思い当たる節がほぼなかったりと、自分の観測範囲ではかなり当てはまっている説です。

 そして、「コミュニケーションが上手い」と感じる要因がどこにあるかというと、「褒め方が上手い」という点に帰結するように思います。
 それというのも、先ほど述べた褒める際のプロセスである「①その行為の褒められるべきポイントを見つけ、②褒めたいという気持ちが生じたとき、③それを言葉などに表して伝える」において、そもそもコミュニケーションに積極的でないと③に至らないことも多いうえ、①が的確であるためには相手が喜ぶポイントを理解している必要があるためです。
 コミュニケーションに積極的であることと、相手が欲しい言葉を投げかけられることさえ満たせていれば、「コミュニケーションが上手い」と感じるには十分だと思います。

 ところが、難しいことに、①を的確にやるのに必要な「相手の喜ぶポイントを理解していること」において、一つ障壁になりうるものが「実力差」です。
 たとえ、コミュニケーションに積極的で相手が喜ぶような言葉をためらいなく投げかけられる能力があったとしても、実力差による「ゲームや譜面に対する理解度」「リザルトに対する解像度」の違いという部分はどうしても解決できない可能性が大いにあります。
 これがあるからこそ、実力の近い人どうしがつるむようになりやすいのも当然の帰結ですし、更に言えば実力が上の人たちに囲まれているとゲームに対する理解度が引き上げられて実力も上がるという現象もまま起き得ます。

 常日頃上手に褒めることを(無意識的にでも)目指していると、相手のことはもちろん、ゲームのこと・譜面のことについても理解を深めようと努力することに繋がり、結果として実力も向上することになります。
 これが、ゲームの上手い人にコミュニケーションの上手い人が多い所以ではないかと僕は考えています。


 そして、上手な褒め方を指向すると、今度は逆に自分が褒めた「普段褒められて良い思いをしている人たち」から返礼と言わんばかりにお褒めの言葉をいただくことが増えるのではないかと思います。
 淡白な「おめでとう」とか「上手い」とかいった言葉でなく、殊更に努力した部分を褒めるような言葉をくれる人には良い印象が残りますし、そうなれば褒めたい所が出てきた時には褒めようと思うのが人間の心理です。

 これが、承認欲求を満たすことに不自由しないで済む一番良い循環なのではないかと思います。
 的確に相手を褒めることで、相手から褒めてもらいやすい関係をたくさん築いておけば、日々の承認欲求が潤うこと請け合いでしょう。


おわりに

 相変わらず全ての文章が体感とか経験的な事実とかだけで構成されている……と少しの自己嫌悪を孕みつつ、レポートや研究論文書いてるんじゃないんだから良いじゃないの別に〜とゆるくなだめる自分もいます。

 今回は「承認欲求」について書いてみました。どれもこれも主観から来る話ではありますが、読んでいる方にとっても共感があったり同感があったりするならば、ひとまずは間違いは書いていないのではないかなと安心できそうです。
 自分もまだ人を上手に褒めることに自信はありませんし、人に褒められたいとかチヤホヤされたいとかいった気持ちが前に出てしまうことも少なくありません。だから、この文は自戒の念も多分に込めて書いています。
 承認欲求を悪者にばかりせず、欲求がある以上は上手く付き合う方法を模索して生きていく方が健康的だろうとは常々思っていたので、自分を見つめ直す良い機会でした。


 人を褒め、人に褒められ、良いサイクルを築いていきたいところです。

 以上、各位やっていきましょう。

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