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主体の消失へ 斎藤慶典『デカルト われ思うのは誰か』

もともとは「哲学のエッセンス」シリーズの一冊として出ていた本。

今では講談社学術文庫に収録されています。

この人の著作は理路整然としていて読みやすいです。しかも形而上学的な深みにどんどんと突き進んでいくというタイプ。ちょっと井筒俊彦ぽいのかも。


デカルトの思索の主題はただ一つのものを中心に旋回している。そしてその主題の一面が自我についての議論であり、もう一面がについての議論である、という切り口の本。

デカルトは自我の話と神の話をよくしますが、著者はそれを同一の根源的主題の異なる現れであると見なしているわけです。


自我についての議論は、著者の考えに少なくない人が同調すると思う。

そもそも「我思う、ゆえに我あり」って違和感ありますよね。

なんでいきなり「我」が出てきちゃうの?っていう。

たとえばバートランド・ラッセルはこの言明について、デカルトは単に「思いがある」と言うべきだった、と批判しています。

すべての存在を疑っても、それを疑っていることは否定できない。そこに思い(疑い)あり。

しかし疑いの主体を想定して「我」を立てるのは、単に文法規則に引きずられているだけであり、なんの根拠もないんだと。

少なからぬ人が、ラッセルのこの意見に共感すると思います。


斎藤も同じような方向に話をもっていくんですが、着地点が違います。

デカルトの本当の思索では「我思う、ゆえに我あり」なんて言ってないというんですね。

この有名な言明が登場するのは一般向けに書かれた『方法序説』と、教科書的にアレンジされた『哲学原理』だけ。

オリジナルの『省察』においてはそのような不用意な表現はされていないと。

本書のサブタイトルは「われ思うのは誰か」となっていますが、それに対する答えは「だれでもない」というものになります。

ラッセルが言ったように「思いあり」だけなのであり、その背後に主体は想定されていない、というのが本書では解説されています。


神についての議論に関しては、著者の見解には違和感を覚えました。

デカルトはストレートにオカルティックな直観をもっていた人だという印象を受けるんですよね。

それを哲学的ロジックのなかに解消させてしまうのは彼の可能性を見損なうと思う。

もっと豊かなものというか、化け物じみた奥行きが、デカルトのなかにはあると思いますね。


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