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自己と他己と

「性別」という概念に、あまり頓着がない。
と言ったら怒る人もいるのかもしれないけれども。

昨夜、セーラームーンeternalのDVDを観た、前後編一気に。
みんなそれぞれ個性があって、どのキャラもあたしは大好き。
それでも推しはやっぱりいて、プルートがあたしの推しだ(技名を言う時に叫ばないで淡々と言うところとか、好き)

セーラームーンには、セーラーウラヌスというキャラクターがいる。
男性であり女性でもあるキャラクターだ。
それをあたしは子供の頃に見て、知って。
そこからだ、あたしが性別に頓着しなくなったのは、たぶん。

「多様性」という言葉が氾濫している。
「私はあなたを受け入れますよ」という考えが氾濫している。
それって逆に差別的じゃね!?と思ってしまうのは、あたしの思考の悪癖だろうか。
わざわざ自分と相手とを事細かに見比べて、ここは同じね、ここは違うね、と違いを探して、その上であなたを受け入れますよって…どゆこと?
と、思ってしまう

もっとシンプルじゃダメなのかな、性自認も性的指向性も。
普通に話してて、「あたし〇〇くん好きー」「俺は××くん好きー」みたいに。
これはあくまで一例でしかないけれど。
それくらいシンプルでいいんじゃないかな、って思う。

ウラヌスなんてその時々で軽々と性別変えちゃってるし。

性別の話に焦点を当てて書き出したが、他にも障害とか人種とか、色んな差別的言動を見聞きしたときにあたしが思うこと、「その差別くだらなくね?」

自分と他者は、違う。
どう足掻いても同じであるはずなんてない。
ここで言う他者とは、自分以外の人間全てだ。
それをわざわざマジョリティとマイノリティに区別して、「マイノリティを理解しよう!受け入れよう!」ってゆう考え方が、言い方悪いけど気持ち悪い。

例えばあたしは視力が悪い。
でも差別されないし、マイノリティ扱いされない。
けれども、例えば誰かが性自認や性的指向性をカミングアウトしたとして、その時、腫れ物に触れるように受け入れたり、否定や批判をしたり。
下らないな、って。

あたしたちは自己と他己を完全な等号では結べない。
そうやって成り立ってる世の中で。
しかも今はもう21世紀だし日本の元号は令和だし。
こんなにも人類史が進歩した世の中で、誰かをマイノリティ扱いすること、その上で理解や否定を示すこと。
古臭いなぁーって。

子供時代にセーラーウラヌスを見て育ったあたしは、そんなふうに思ってしまうのです。

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