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今 持つ武器で人生を挑むしかない



あなたには強みといえるものがありますか?

今、現状では僕は何も持っていません。

"地位"や"富"、"名声"なんてのは縁遠いし、"パートナー"もいません。

なんなら、”EAA”や”BCAA”も思うほど持ち合わせておりません。

一方で、僕と同じ幼馴染で今年に挙式をあげるなんていう人がちらほらと、界隈で出てきております。


[比較することに意味はあるのか?]

他人と比較してはいけない、すると自己否定をすることに繋がり、自分自身が病んでしまっっってなんていうことがしばしば言われていますが、僕自身は”比較すること自体には必要なこと”だと思います。

競争ではないですが、ある種人生は、自分と他者との差分が能力であったり、違いを見せれるわけで、そこにはある種価値と言われているものが自動的に発生し、結果として至る所でそれがビジネスになっているという理解をしています。

何かを目標に置いている場合に、自分が今どういう状態にいるのかという現状把握をする上で欠かせないワークは、まさに他者との比較であり、人は自分だけの個だけで生きていけないというのは、こういうところからだと思っています。

で、そんな理論みたいな話をここで言いたいのではなくて、今僕には他人を比較してみると、特に何も持ち合わせていないという非常に残念でもあり、それが帰って心地よかったりもしています。(笑)

僕は今やりたいことをやっているという実感というものが再々言っている、”誠の幸福”であって、今の自分がやりたくもなく、ある種強引に自分が心から望んでいないものを打算的な意図で、行動を起こすということはしたくないのです。仮にそれが演出であったとしても、、。

とある動画で、このくらいインプレッションを与えたいから、再生回数を稼ぎたいからという安易な理由で、半ば自分ではなくなってしまう、もはやAIとでも呼べるような、生き方は僕本心からはそう望んでいません。

と言いますか、人生ってそうじゃあかんと思うんですが、、。普段の素の自分の延長戦にこういったある種、一面があったりですとかはいいと思うのです。

例えば、普段の生活でこんな文章を人様に送る機会なんて、フツーの人では滅多にないことですので、結果としてそういうプラットフォームを使うことで、

「ああ、Jというやつは、こういう思いで普段生きているんだなぁ」

『あいつ、意外とまともに生きているんだなぁ」

「意外と、思っているほどには良くは生きていないんだなぁ」

というフィードバックを感じてくれることを目指してと言いますか、その様な反応材料が欲しいのです。

無言だったり、愛想笑いでは困るのです。

一定以上の幸福で生きていきたいと思う方は、自分というコアがあった上での軸の延長戦にそう言った枝葉としての演出は良いと思います。

それは結果としてポジティブな意見やネガティブな意見であっても、、です。

でも、それを逆にしてしまうともうなんだか、その人ではなくなってしまう気がするんです。

それは本来の自分の在り方ではないからです。
自分の素性を殺しているからです。

武器といえれるモノがない

で、本当に僕は何も誇らしげに持っているものなんて、何もありません。

もし、仮に今この瞬間に拙宅が火事になったとしても、僕は守るべきものや人がそれが幸いなのか、不幸なのかはわかりませんが皆無ですので、僕はその火事場を一目散にその場を立ち去ることができてしまうのです。

でも、大切な物や人がいる人はそうはいきません。

頭の中で、この様に考えます。

僕という人間を真っ先に優先するのか、しないのか。

もし自分という人間を最優先にしてしまったら、あとで何を言ってくるのかわからない、、「しょうがねぇーなぁ、助けてやるか、、」とまでは言わないにしても、何か物体から拘束されている感が否めないのです。

少し不自由な感じがするのです。

それは良くも悪くも、、です。

[日々が何かの制約になっている]

まぁ、ちょっとこう言ったドグマ的な発言は程々にして、。

いずれにしても、今、持ち合わせているもので前に進む他ないでしょう。

特に何かの業界で新しくチャレンジングしていく場合は、特に人脈や財力、知恵やスキルなんてのは、ふつーはないですので、
今ある全てのリソースを投下して、ずべてのエナジーをそこに注ぐべきでしょう。

それは僕で言えば、時間が主な資質として挙げられるでしょう。

でも、嬉しいことに仮に何かの新しい業界に参入をしたとしても、全くのゼロベースで何かを始める事はないと思います。

例えば、直近までに何かやっていたことを、新しいところにも結びつけれないのかとか、
自分が趣味で講じていたものから何か参考にできるかなとか、

少なくとも、何か新しいところに行くということは、当たり前ですがそこには何かしかのパッションがあると思いますし、事前に例えば、それにまつわる動画や記事、話しやセミナーなんてものを既に利用していることが比較的多いと思います。

だって、今いる場から、また別の場に行くということはそれほど、脳科学的にはリスキーな事だし、ものすごいパワーを要してしまうからです。

それほどまでして、今のこの場から去りたいというのは、何かしかの事情となるものがあるでしょう。

それに目を当ててやってくだせぇぇ。

”獅子は我が子を千尋の谷に落とす”ではないですが、あくまでもこの場合は、あなた自ら自分で落ちていますからね。

そこには自発的に、能動的に動いているので、大なり小なり谷から上がってくると思いますし、僕はそう望んでいます。笑
パッションがある内に崖から上がれるのであれば、上がっといた方が懸命だと思うのです。


[SNSを通して誠の自己表現をしたい]

SNSの良さは、普段では言いたくてもとても言えれなかったり、単純に職場の同僚と仲間とかに、自分の本音というものをオープンに発言する機会といいますか、尺自体もそうですが、それ以上に空気感がしんどいという理由でないのです。(笑)

自分と同じように熱量高く、筋トレをしている人がそもそも母数自体としても非常に少ないことがフツーですし、仮に同じトレーニーでも自分が考える深さ、いわゆる共感度が異なることが往々にあります。

そんな人を前にして堂々と熱弁したところで寒いですし、なんか自分だけが虚しくなって寂しくなってくるのです。

それ以上に辺りの人から揶揄されることだって中にはあるかもしれません。

そんな温度感が異なるのが、”日常”というものだと思いますが、ことSNSでは自分の趣味や、趣味以上に自分と同じような熱量を高くして、日々自分と同じように、悩んだり、つまづいたり、立ち止まったり、とすごく”自分と同じ境地にいる人が多い”と思うんです。

流石に、全部が全部SNSを見て、わかるー、わかるーとはなりませんが、でも少なくとも日常以上にはわかりみ度が深い訳です。

そういう深部での深い共感要素があるないとでは、日々の充実度に大きな変化が出てきます。

先ほどにもあったように、人は一人で生きていくことができない生命体ということですが、自分と同じような価値観や信念を持っている人々と関係を持たないで、価値観を分かり合わないというのは、人生を生きる上で非常に窮屈感が強いと思います。


[居場所がない]

職場という面目上の居場所というものはありますが、果たしてそこには誠の居場所と言われるような、”深いシンパシー”があるのでしょうか?

僕は残念ながら、職場ではそのような境地で健やかに生活ができなかったので、生活が窮屈になる感じがしたので、この様に僕がnoteと言われるプラットフォームで記事を走らせているのです。

いうならば、僕は自分と同じ信念の方々と一緒に楽しく、人生を歩んでいきたい、できるだけ関与していきたいと率直に思っています。


筋肉代行屋 J

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