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タンドリーチキンから考える感性性



こんにちは。

筋肉代行屋 Jです。

今回は、前回の続きになりますが、感性、アート性の可能性をここでは述べて参りたいと思います。


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感性、アートの素晴らしさ

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前回の内容は理性、再現性を帯びたものはある種の便利さや快適性をもたらしてくれる一方で、そこには独自性やその人らしさと言うものというのは皆無で、すごく味気ないんだということでしたね。

まぁこれは僕がある種、感性やアート性ユニーク性を好んで、そのフィルターで普段を生きているので、ひょっとすると世間体よりも、ドラスティックにアグレッシブに積極的に感性だ感性だと、口うるさいのは百も承知ですが、

このアート性は素晴らしいんです。無限大の可能性を秘めていんだと、僕は強く言いたいのです。

早速まず、感性という定義から見ていきたいのですが、それは”生身の感情がそこにあるのか?”という内容で見ていきます。


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「感情」

これは、あらゆる場所で、あらゆる人が、あらゆる所でこの感情という性質を使っている、持っているのは言うまでもありません。


“これをやったら、嬉しい”
”あれを思うと、凄く腹立たしい”
”あいつと話すと、ワクワクするなぁ”
”タンドリーチキンを、食べたらハッピーだな”

と、これを読んでいる方で僕同様に、そのような感情に浸ることがあるかもしれません。

中には、なにゆえタンドリーですかね?
それよりも、あっしは美味しいもんを知ってまっせ

って思っている方がいるかもしれません。

確かに、タンドリーチキンよりも美味しいものは、この世には五万と存在とする訳ですし、
どうして今この場でそれが出たかと申しますと、ただただ僕が今、この瞬間にタンドリーチキンを食べてみたいなと感じている他に理由はないのです。(苦笑)

ただただタンドリーを貪り食い、手一杯に真っ赤にして、インドという沼に溺れてみたいなと感じているからです。

「なんだよ、筋肉代行屋 Jはただの大食いなだけじゃないのかい?」

と思うかもしれませんが、実際も仰る通りで御説ごもっともですが、実はここから感性の学びとなるヒントが実は隠れているのです。

改めて、今回の記事では、タンドリーチキンからみる感性という視点をただただ僕が、今食べたいという欲求で極めて個人的な理由で、
見て参りたいと思います。(苦笑)


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タンドリーチキンから考えるその感性

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タイトルだけを見たら、意味が分かりませんし、まさかあの”ゲテモノ”とも言われようものが、”感性”という言葉とどう重なり合うとは、誰が感じたことでしょうか?

インド人もさぞや、びっくりとしておいでのことでしょう。

さて、まずはこの今回の大事なキーワードである”感性”というものですが、まずは何よりもその人が思う、何かしらがあるという状態であるということです。

つまりは、俺様がタンドリーチキンをどうしていきたいのかという、前提があり、それから色々な感情が出てくるという訳です。


“僕のタンドリーは、こうである”
“いやいや、私のはまたこうだと思う”
”いやいやいや、俺様のはそれらとも違うこういう考えである”

そこには、結果として色々な個性になっていき、そこには極めて独自性がある様に見えます。

が、断念ながら、多くのインド料理にはこうしたいという欲求、感性が無い様に僕には映るのです。(もしくはそれらの度合いが薄い)

だから、僕はインド料理を食べに行く為に色々なレビューを見たり、そこの店となる情報をできる限りリサーチをして行くようにしているのです。

言い換えるならば、特別にタンドリーチキンという強い思い入れが、その人には無いということだと思います。

だって、これをこうやってこうして、そして最後には、、というビジョンが無いと当然として、そのタンドリーというやらは既に誰かが作っている模倣品になってしまい、これは以前の記事でも書いた、いわばハウツーな訳です。サイエンスなのです。クックパッドに出てくる様な所謂、”風”に留まっちゃうんです。

これはただのやり方、論理、理性なのです。

前回にも言いましたが、別にこの理性性がダメで、微塵も必要はないというわけではなく、これだけでは凄く似たり寄ったりなものに結果的になってしまうんだということです。

理性性は誰がやっても、同じように質が担保されるという意味合いにおいて、大切な概念ではあるものの、そこからもう一段階質をあげようと思うと、そこには理性だけでは限界があるように思えます。

つまり、感性を育まないとそこから先には望みなんてありゃしないと感じるわけです。

何事においても、一番先に行動を起こした人は、新鮮度を覚え、いつしかそれがその人のアイコニック的な存在にはなり得ると思いますが、その似たような系統が二の矢三の矢とそれから先に出てきたら果たして人々はどう感じるのでしょうか?

「ああ、この人はあの人の模倣品なんだ。
あの人と同じことを言っている。」

と素直にそう映るはずだと思います。

つまり、”あの人の延長線上で考えられえてしまう”わけです。

誰先に編み出した先駆者と言われる人が、創作したものは非常にそれ自体にユニーク性を帯びておりますが、
これが二番煎じや、3番と出てきますともう既にそれらはその人独自のタンドリーでは、無いわけなのです。

あの人のタンドリー風になっちゃうわけです。

だって、そこにはその人らしさがそこには出ていませんし、究極的にはその人はタンドリーチキンを作っている最中に”没頭感”がなによりも無いので、(その人なりの強い思い入れ)
そんな凡人が作った、ゲテモノを作ったものに対して、当然我々消費者はそれに(店主の内なる声、感性に)共感することが決して起きり得ないのです。

そこに強いパッションがあるのか、消えない炎があるのか、その人らしさを感じられるか。

それぐらい暑苦しく、熱量高く、息を荒げながらも前進している感じ、生き方が僕は凄く尊敬をしますし、自分もそうなって参りたいと常々、朝な夕なに思っているのです。

”唯一無二”という言葉が僕は好きですが、これに至るまでは果てしなく険しく、いばらの道だと思います。どれだけの人が、俺はユニークになりたい、なりたいと言って、慣れずにそのまま死を迎えたことは歴史を見ていたらわかります。

どれだけの人が野望を叶えれずに、死を迎えたことか。

芸術家なんてものは、それの最たる例でしょう。
女性という究極な裸体をどこまで、綺麗に描くことができるのか、どのようにしたら永遠の美というものに辿り着くことができるのであろうか、

とある種、日々それらに苛まれながらも、四苦八苦しながら没頭してきた訳です。

昔の時代は、今ほどに”もの”に溢れている時代ではなかったので絵を描く以外に他になかったから、没頭できたという意見もあるかもしれませんが、いやいや、それでも真っ白いキャンバスとパレットと、油インクで毎日、何十時もの時間を費やしてきたのか、

こと肉体的なストレスは、古人と現代人とでは、恐らく肉体的不快指数は変わらないのでしょうから(むしろ現代の方が楽)、そこには狂人染みたものがあるのでは無いかと、素朴に思います。

だって、裸体を書く場合であれば絵描きする人以外に、もう一人デザイン元となるモデラー自身がそこには、半永久的にそこに立っているわけで。

”ダリ”が愛し続けた”ガラ”がそうさせられたように。

「果たしていつまでこの人は、この製作物に時間がかかるのであろうか」
「この人は、何をこう頭を傾げて一向に筆を走らせないのかしら」
「まさか、寝ているんじゃないでしょうね?」

と当時のモデラーの心中を思うと、ただただ凄いとしか言いようがありません。

つまりは、こうしたい、こうなりたいという思いがあるのかということです。

それに対して、モデラーと言われる人も仕方なく、彼の熱い思いに屈してそれに協力しようと思ったわけです。

ひょっとすると、今世に出ているものは、何かの模倣物からできたものなんだ、今ある現存している殆どの全てがコピーから派生したんですよ、

と思う方がいるかもしれませんが、確かにその通りでしょう。

美味しいタンドリーチキンを作るには、既に出ている美味しいと言われているタンドリーチキンを食べないと誠の美味しさというものは分かりませんし、究極となる肉体美も今ある綺麗なものからは当然として紐付いているわけで、確かに何かのアイデアや、そうしたいと思う感情、アート性を感じたいのなら、コピーとなる引用先がないと難しいでしょう。

僕がここで申している感性、アートというのは、全くの未開拓地となるブルオーシャンを目指すというよりは、
チラホラと開拓がされつつある未開拓地、山頂という共通とする目標はあるが、まだ誰も登ったことのないルートで歩んでいく、というようま感覚であるということです。

すなわち、同じコピー先でも、今までにない”新しい解釈をする”ということです。

表現としては凄く難しいのですが、一見非常識である様に見えるが、後々考えると確かにそう考えることもできるねという常識的なことであったり、痒いところに手が届くという感覚に近いと思います。

そういう考えがあるのね、と。この感覚は海外旅行に行くと感じ易いかもしれません。
ここ日本では、こういう意味合いで使っているけど、この国ではこういう解釈なんだ、こういう用途なんだ、と。

そこには素朴に”斬新性”という表現を感じますし、なんか感動を覚えて、帰りの便の飛行機でメモ帳に綴ったりも意外とあると思います。

又、無意識的には何か違和感らしきものがあったけど、誰かがそれを分かりやすい形で何かを代弁してくれる様な、ある種の爽快感、スッキリ感を演出できることが、この痒い所に手が届くという感覚なのだと思います。

話が交錯して、ひょっとしたら分かりずらいなぁと感じる方がいるかもしれませんが、
簡潔にいうと、自由に柔軟な発想で、自分自身が楽しく、日々を没頭していたら、何かのアイデアは浮かび、それが最終的には素晴らしい感性を育むことに由来するのだと、僕は感じますし、それを信じて日々と生きています。

それが結果的に唯一無二、必然とユニーク性を帯びてくるのだと僕は思っています。

筋肉代行屋 J

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