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第一章 旅をつなぐ本

訪れた場所は中国地方は広島。
今回広島県に観光に行こうと思い立ったいきさつは、一冊の本を読んだからであった。

本のタイトルは『楽園のカンヴァス』(新潮文庫)
著者はアートミステリー小説を手掛ける原田マハさんである。

BOOKOFFにて購入した。左手に持つのはひろしま美術館で購入した
花のしおり。

実は私は昔から絵を描くことが好きで、(というか無意識に)授業中ノートを取ったり、作業をしている最中だったり、用紙の隅の方に落書きをしているような子だった。
絵といってもただ趣味程度の落書きのようなものであるから、
あまり周りには絵を描くことが好きなんだ、と公言することはなかった。
(それに自分の好きなことに関しては苦い思い出があるというのもある。)

ある日、書店でパッと目を惹いた表表紙の本を一冊手に取った。
『モネのあしおと』(幻冬舎文庫)というタイトルのものだった。
画家クロード・モネについて綴られたエッセイである。
その表紙の絵はどこか見覚えがあって、ジブリ映画の『風立ちぬ』を想起させた。
調べたところ『風立ちぬ』のポスターのイラストは
《日傘をさす女》のオマージュだったらしい。
そこから私と原田マハさんとの出会いは始まった。

アートというと何だか小難しいイメージがあり敬遠しがちだが、
ただ眺めているだけでこうぐっとくるものがある(最初はなんだってそう言う感じ)

ここでざっくりとだが、『楽園のカンヴァス』についてのあらすじを説明しようと思う。

舞台は岡山県・倉敷にある大原美術館から幕をあける。
美術館で監視員として働くある一人の女性、
早川織絵のもとにとある絵画の真贋判定の依頼が届く。
依頼主は絵画コレクターで有名なコンラート・J・バトラー氏であった。
彼の依頼の理由とは、彼が闇マーケットにてやっとのこと発見し手に入れたアンリ・ルソーの晩年作《夢》と全く同じ構図の絵画が
ニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵されているというもの。
さらに彼は、もう一人別の人物にも判定を依頼していた。
その人物は、早川織絵の過去にも深く関わっており…。
真贋判定を通して、かつての二人の異色の経歴、画家アンリ・ルソーの壮絶なる過去、そしてルソーと共に時代を歩んだパブロ・ピカソとの関係が明らかになってくる。
結果の先に見えてくる真相とは…


旅の計画のはじめは、岡山県の大原美術館を予定していた。
しかし物語を読み進めていくうちに、アンリ・ルソーと関わりの深いパブロ・ピカソに興味が湧いてきた。
インターネットでパブロ・ピカソの展示会は行っていないかと、調べたところ
ちょうど広島市にあるひろしま美術館にて「青の時代展」を開催しているという情報を得ることができた。
そして今回の広島行きへと旅がスタートする。

ひろしま美術館開館45周年記念を祝して、ポーラ美術館との共同企画展を行った。
『ピカソ青の時代を超えて The Blue Period and Beyond』


館内は美術館の独特な雰囲気が流れ、その静けさに緊張しながらも胸を高鳴らせた。

ひろしま美術館のデザインは、世界遺産の原爆ドームをイメージした丸いドーム型となっており、館内は4つの展示室から成り立っている。
1つめの展示室へ入ろうとした時、一枚の大きなカンヴァスに目を離せなくなってしまった。

パブロ・ピカソ《海辺の母子像》1902 ポーラ美術館


絵の威力、迫力を一瞬にして感じた。

カンヴァス全体が鬱蒼とした青を基調としており、海辺に佇む一人の女性とその子が描かれている。
全体の暗さと相反して、彼女の左手に持つ赤い花が印象的だ。
この赤という色から、わずかな希望や未来に対する明るさを期待しているのではないかと感じた。

私は先入観を持ちたくないためにあえて、その作品が描かれた時代背景や
作者の心理的状況を述べられている情報をはじめは見ずに絵画だけをただじっと見つめる。

私が初対面の人に対して抱く感情と同じような気がする。
真っさらな状態でその人を知りたいためである。
そして徐々にその人の内面を知っていく。
だからものすごく心を開くまでの道のりが長い。(笑)
だけど一度知ってしまったら忘れられない。
この絵画を初めて見た時のように。


私なりの率直な思いや想像をたぎらせ、作者が絵画という作品を残してまで伝えたかった思いって一体なんなんだろう。
そう考えずにはいられなくなってしまうのだ。

《海辺の母子像》を描いたピカソは当時、20歳だったらしい。
彼の類いまれな画才が伺える。
画家という道を志し、親友であるカサジェマスと共に故郷のスペインのバルセロナを出て、パリにてモデルを雇い絵を描いていたという。
しかし、親友のカサジェマスが重い病気を患い自ら自殺を図ってしまう。
その悲しみに暮れたピカソのカンヴァスは、重く暗い色に変化してゆくのである。
陽の光の当たらない影の人々の心の中をテーマに描いていった。
若干20歳にして、我々が生きていく上で避けられない「死」また「生」「貧困」という社会的なテーマにとことん向き合った。
これらの絶望とも言える青さと若さから生み出されるエネルギーが後の作品にも生きていると思える。
この展覧会のテーマである「青の時代」とは、この時期のことをさすのである。

パブロ・ピカソ《自画像》1896 バルセロナ美術館


私の知っているピカソの絵のほとんどは、まるでいたずら好きの子どもの落書きのようだったり、カラフルなものばかりのような印象であったから驚きである。

「青の時代」はのちに、「バラの時代」へと変化していく。
ここから彼の絵の具の使い方は明るく暖色を持つようになっていく。

いわゆる私たちの多くが見たことのあるピカソの名画は「バラの時代」の後の「キュビズム(立体派)」と呼ばれる絵画の手法であろう。
人物や景色などの立体的な形を平面状に幾何学的に描き出すことによって、
我々が普段見ている風景とは似ても似つかぬ絵画を生み出してしまう。
その時代を代表とする名画の一つに《ゲルニカ》が存在するが、
残念ながら今回の展示会では見ることができなかった。
しかし、これも彼や本が私に与えた次へのミッションなのだとしたら…。

《ラ・ガループの海水浴場》1955 東京国立近代美術館




展示を全て見終わった後、その余韻に浸りながら表にでた。



すると、外の外壁に巨大な絵画が現れた…

《キッズゲルニカ》
ウクライナ・ブチャの生徒たち、広島市西区の幼稚園の園児たちによって描かれたもの


最後の最後に大きなサプライズをいただいた。
私が訪れた期間はG7サミットの開催時期も近かった。
その期間中に合わせ、ひろしま美術館ではウクライナの子どもたち、広島からの平和の思いを込め巨大な絵画の作成を行なっていたらしい。


1937年、ピカソの生まれ育った場所であるスペインの街ゲルニカに、
ナチス・ドイツの手によって多くの命が奪われた。
その悲しみを胸にピカソは巨大な絵画《ゲルニカ》を世に産み落とした。
もう、産み落とされるのは人の命を奪うものであってはならない。
そのことを彼は彼自身に出来る最大限の表現で訴えたかったのだろう。
その後《ゲルニカ》は平和の象徴をあらわす代名詞になった。



広島観光の出来事については、また別の機会にnoteに投稿しようと思う。




決して絵画や本は自ら語りかけはしないが、
私の方から歩み寄って行くと不思議な世界へと連れて行ってくれる。


next 00/10/'24



参考文献

  • "美術館について".ひろしま美術館. 10/19/2023 https://www.hiroshima-museum.jp/outline/index.html(参照2023/10/19)

  • 『楽園のカンヴァス』原田マハ(新潮文庫)

  • 『ピカソは本当に偉いのか?』西岡文彦(新潮文庫)

  • 『いちまいの絵 いきているうちに見るべき名画』原田マハ(集英社新書)

  • MUSEY編集部. "《海辺の母子像》パブロ・ピカソ"2017/12/06 https://www.musey.net/2178(参照2023/07/17)


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