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知ったかぶって、言葉を語る。

「文章を書く」とはどういうことだろうかと考えていたりする。

読めない文章

読めない文章がある。

音読ができないわけではない。

ただ、その読めない文字たちの集まりは、ゴミ箱の中のゴミ屑のように丸められてギュッとしていた。

まるで「読んでくれるな」と、書き手が言っているかのように受け取ってしまう。

文章自体の内容は、もはやどうでもいい話だ。

そう、文字は読んでもらってこそ、言葉に、そして文章に、変化するのだ。
文字の寄せ集めなのか、言葉の行進なのか。

それを決めるのは、案外、文字ではなく、句読点や行間だったりする。

言葉は音楽

言葉に、綾が、陰影がまとわりついているのに気づく。

鷲田清一『想像のレッスン』

高校時代に音読した小論文の一文だ。
何年も前に触れたこの一文を、今でも覚えているのはなぜだろうか。

鋭さと鈍さが混在していながらも、音読した時に感じる文自体の清々しさが、妙にカッコ良かった。

言葉は、音楽のように、リズムがあり、テンポがある。言葉の行進が互いに響き合うことによって、調和し、心地の良い文章が生み出される。

もちろん、文章の好みは人それぞれ。全ての人に心地の良い文章を書くのは、難しい。

とは言っても、不協和音を響かせている文章はそれとはまた違う。

直すのは、簡単。

声に出して読んでみる。

自身が詰まったところが、修正のポイントだ。大抵は、文末の言葉や接続語を変えるだけでなんとかなるものだ。

言葉というクッション

言葉はただ単に人に何かを伝える道具ではないはずだ。時に、言葉は人の心をナイフのように切り裂くこともある。

それは、普段の何気ないやり取りが一番わかりやすいだろう。

「今回は、お断りします」
「大変残念ではありますが、この度はご遠慮させていただきます」

同じことを意味している文でも、言い方が変われば随分と様相が違う。

これらの婉曲表現を回りくどく感じる人もいるだろうが、読み手が無為に怪我をしないためのクッションではないだろうか。つまり、書き手から読み手への「思いやり」である。

傷つきやすいこの頃だからこそ、人を無駄に傷つけたくないものだ。

書き手を想う読み手

「読み手は、書き手の様子を案外見ている」というのが私の持論だ。

もちろん、書いている最中をじっと見つめているわけではない。しかしながら、私たちは想像しているのだ、書き手の姿を。

以前、絶妙に面白い文章を読んだ。

真面目にマダガスカルの中華の微妙さを語るエッセイ。

入り出しから面白かったのだが、何よりも書き手が真面目な面持ちで、よだれを我慢しているであろうと想像してしまったことが一番面白かった。

エッセイを書き終え、一息ついて、「あの微妙な中華が久しぶりに食べたいな」と考えたのではないだろうか、と。

そこの肝は、文章の節々から垣間見える、書き手の人柄だった。文体然り、温度感しかり。あの人の温かみを感じる文章だった。

トンネルの出口は修正のはじまり


文体や表現ばかりで、肝心の文章の内容に触れずに、このnoteを終えようとしている。

内容の肝は、「何を伝えたいのか」のみである。

それを逆算して書けば良い、と言っても、それはなかなか難しい。そして、書きたいことがいっぱいで、読み手の胃もたれを起こすこともあるだろう。

なので、その時は、トンネルの出口が見えない創作作業をひたすら楽しむのみだ。そうすると、いずれ出口に辿り着く。

出口に着いたら、振り返り、声に出して読む。修正の始まりだ。

と知ったかぶって、色々書いてみたが、

そんな大層な分際ではない。これは、すべて私の持論。

こんな感じで私は文章を読むのを楽しみ、書くのを楽しんでいる。

それだけで、私の人生は豊かだ。








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