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言葉にできない、を言葉にして


映画でも演劇でも音楽でも、作品の感想を伝える時に「言葉にできない」と言うのは甘えだと思っていた。自分が作り手だった経験があるからこそ、作品の作り手に対する最大限の感謝と敬意を表すためにも、感想を伝える努力を放棄してはいけない と感じていた。言葉にできないんですけどめっちゃ良かったです!と言ったら、それで終わってしまうじゃないか。諦めたら試合終了。感動を生み出してくれた作り手に、受け手の思いが届かない。

ところで私事だが、私が長年愛してやまないバンドのライブに行ってきた。

ライブの興奮も冷めやらぬ間に、本当は諸々Twitterに書くつもりだったが、言葉が上手く出てこない。140字にまとめるのもメモに書いてスクショして載せるのも、ピンとこなかった。

その時浮かんだのは、言葉にできないは甘え、という自論とは少し違った。私はその時言葉にする必要がないと感じていたのである。

勿論、ライブで得たものがないなんてことは全く見当違いだ。彼らの音楽が目の前で息をしていること、そこで何人もの満面の笑みを浮かべたお客さんと一緒に同じ空気を吸っていること。この感覚は、私の体にずっと残るだろうという確信があった。この感覚は、独り占めしたいほど愛おしいと思った。言葉にする というのは記憶のための保険である。言葉にする というのは他人に伝えるための方法である。言葉にできない というのは、言葉にする必要がないということなのかもしれない。

その時の感覚が、空気が、自分の表情が、体には刻み付けられていて、言葉にしなくても記憶しているという確信がある。これは私だけのものだ。

そういうものがあるってこと、バンドマンも役者も絵描きも作家も、経験してるんだ。思い返してみれば私だって、これまでにも経験していたじゃないか。言葉にならなかったということだって、言葉にしさえすれば伝わるのだ。それで十分じゃないか。

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