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不服従で良し

年末くらいからここ数週間、どうも体調がスッキリしません。加齢と共に身体が硬くなって、やれ腰が痛いとか肩が凝るとかいうのは運動もろくにしない中では当然ですが、最近は胃袋が炎症を起こしているのか、重た〜い感覚と、食べた後に何となく痛かったりします。
周りの人は、精神的なストレスではないか、場合によっては胃潰瘍か何かあるのではないかと心配してくれますが、精神的なストレスと言われれば、心当たりは山ほどあります。(笑)

すべては自分で広げた風呂敷、文句は言うまい、ましてや石川でこの極寒の中、避難生活を強いられている人たちのことを思えば、辛いとか大変だとか言っていいわけがない、自分は自分なりの考えやビジョンがあってこの旅を始めたのだと、そう自分に言い聞かせています。

命をかけて世界を変えた偉人たち


そんな折、NHKの「バタフライエフェクト」という番組で、ガンジーの「非暴力不服従」という精神がその後、黒人活動家のキング牧師、フィリピンのベニグノ・アキノ、ミャンマーのアウンサン・スーチーへと引き継がれ、世の中を変えていったと言うストーリーをみました。
悲しいことに、ガンジー、キング牧師、アキノ氏はすべて最後に暗殺され、スーチー氏は現在も軍の施設に閉じ込められたままです。
自らの命を投げ打って、歴史を変えた偉人たちは、日本においても坂本龍馬をはじめ、色んな人がいて、変えようとした人がいたから今の世界があります。ゆえに偉人といわれる人たちです。

このNote『学校を作ろう』をもともと始めたのは、変わらない日本の教育制度に私がその変革を求めて立ち向かっていく様子を知ってもらうためで、
どこかで聞いたことのある教育論ばかりを書いていくものではないですから、たまにはこういう話もいいだろうと思い書かせてもらっています。

日本には「長いものに巻かれろ」ということわざもあります。スマートに生きるとは、あえて対立や問題を起こさず、おとなしく、品良くいきることで、私のような生き方はただ単に周りに迷惑をかけているだけなのかも知れません。

でも、ガンジーの番組を見ながら、
ふと「不服従」という考えはあってもいいはずだと、そこが改革のスタートではないかと考えていました。
不服従といっても、教育者として「法律違反をしていいと考えているのか」と聞かれれば、
それは良いとは思わないけれど、逆に何でもお上の言う通りに服従することだけが正しいとも思わない、
特に、子ども達の未来を考えるのであれば、大人として自分がするべきことを考えるのであれば。

「不適切指導」という概念の背景


つい先日、国立の小学校で、本来であれば教育指導要領に定められている項目を、実は一部の教室でそれが履修されていなかったということが大きく報道されました。書道や、国歌斉唱の授業などらしいです。
メディアはそれを一斉に「国立の小学校で不適切指導」として報道しました。
この『不適切指導』という言葉を世間の人はどう受け止めているんでしょうか?
違和感を覚えたのは私だけでしょうか?
へ理屈と言われるかも知れませんが、では書道をやらない授業は不適切だけれども、書道をやったら「適切な教育」であるのか。

ここにも、国が決めたこと、文科省が決めたこと、それはすべて「適切」であり、それ以外は「不適切」だという上からの価値観を私は感じます。

もちろん、「本来、教育指導要領で定められている項目が履修されていない」というのならそれはわかります。
私に言わせれば、不適切なのは、一部の教師達が学校の方針や校長の意向を無視して、それぞれ勝手にクラスの運営をしていた、教師間の協力や連携がなかったことが不適切であって、今回の件をまとめて『不適切指導』とされると、ついつい、「では他の学校教育の内容はすべて適切なのか」と言いたくなってしまうわけです。

よってフリースクールは「不適切」なのか


私の学校の法的な位置付けはフリースクールということになるでしょうか、いずれにしても制度上、法律上の「学校」として認められていません。
その証拠に、サニーサイドの生徒には一切の税金は投入されていません。
ここには熱意ある教師がおり、素晴らしい授業をしていて、ここに集まっている100名を超える子ども達もまた、他の地域の子ども同様に、岐阜の、日本の未来を背負って育つ社会の宝です。
彼らにも、また彼らを育てている親にも、社会がそれなりのリスペクトをもって接するのが、多様性を認める成熟した社会のありようだと思います。
うちの生徒達は、「認可校でないから」というだけで通学のための学生定期券すら買わせてもらえません。

先日もとある行政の長に私はこんなことを言われました。「色々な人が、渡辺さんのやっていることを乱暴だと言っている。やりたいことがあるなら学校を作ってからIBでも何でもやればいいし、行政は支援するべきではないと、そう言ってくる人がたくさんいる」と。

おそらく同業者の人たちでしょう。つまりは、既存のシステムから外れたことはするな、行政の言うことに従って、フリースクールなどをやるな、そういうメッセージです。うちにくる生徒が100名をこえて、秩序が乱されていると思っているんでしょう。

一方で、子ども達が生きる新しい時代に必要な教育はどうあるべきかや、うちに通っている生徒達、さらには、色々な理由で不登校になっていたり、他のフリースクールに通っている生徒、またその子達の育ちに献身努力している地域の方々に対するリスペクトがまったく感じられない、その気持ちが正当に理解されない、そういう現実があります。

さらに言えば、私自身、金儲けや自己実現のために、ここまでやってきたわけじゃない、誰かと対立したいわけじゃない、日本の教育が変わるべきだと思う一心でやってきました。

何なら私のことなんてどうでもいい。
これだけの授業をやっている職員や、自分がまたこれに参画することで日本の新しい教育の形が見えてくるかも知れないと思って通わせている親達のことを、黙殺するような、見て見ぬふりをしながら、
あたかも間違ったことをしているというような扱いに対して、私は「不服従」で良いと思っています。

こいつは頭に血が昇っている、とそう感じる人も多いかも知れませんが、そんな時期はとうに過ぎました。
今は、時代はこれだけ急速なスピードで変化しているのに、いつまでこういうことをやっているのだと、不登校児童の増加が止まらなかったり、精神的に病んでしまっている教師もたくさん出てきているというのに、いつまで「自分たちは適切だ」と言い続けるのか、
なぜ変えようとしないのか・・・
なぜ多様な学びの機会を認めようとしないのか・・・

とりあえず、私は最後までやり続けます。
この「教育差別」が日本からなくなるまで。

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