結果と過程

結果と過程のどちらが大切であるかというのはよく話題になる話です。
今回はどちらかと言うと過程の大切さについて話したいのですが、その上でまず結果を大切にするという事の意味を捉え直しながら話を進めていきたいと思います。

結果を大切にするというのはどういう意味でしょうか。
「結果が大切である」側の人間がよく言うのは、結果が出なければ意味がないという事です。
どれだけ努力をして苦労をしたところで結果が出なければ意味がない。
しかしながらこれは何に意味を見出すかという見方によって話が変わってくるのではないでしょうか。

結果至上主義というのはその言葉の通り結果が1番大切です。
結果に着目するというのはつまり目標があってその目標を達成できるかという事に重きを置いています。
実際に何が何でも目標を達成するという強いエネルギーが高い結果を出したり、その人自身を輝かせるという事は大いにあり得る事でしょう。

しかし結果至上主義には一つ気をつけなければいけない事があります。
それは結果に囚われすぎるあまりに手段を選ばなくなるという事です。
分かりやすく言うのであればズルをする可能性があるという事です。
たとえば手っ取り早く売れる服を作ろうとして特定のブランドの丸パクリをして問題になる等がそうです。
あるいは試験に受かるためにカンニングをするとかそういうものも該当するでしょう。

何らかの不正であったり他人の真似を通じて本来の実力ではできない事をできてしまうというのは大きな問題です。
何故なら周りがその人にはそれができるものだと誤認してしまうからです。
本来の実力に対して周りの評価が高くなりすぎるという事は現実と理想や求められる自分に差が生まれます。
虚像に依存した背伸びした自分でいられるうちは良くても、実際の自分にとってはそれは最悪です。
不正行為がバレたり何らかの理由でその人の化けの皮が剥がれた時にその人の自尊心に大きなダメージを与えかねません。
※こちらについては他人のアイデンティティに依存したり他人の価値を借りる事について書いたこちらの記事が参考になります。

この場合だと結果を出す為の過程に問題があるという事です。
(ただその後の損失を踏まえるとそもそも結果を出せていないので、結果至上主義には該当しないという風にも捉えられますが)
もっと言うと目先の結果に囚われるあまりにその後に大きな損失を負うという発想がない。
長期的な視点がないという風に考えられるでしょう。
本当の意味で結果至上主義になるのであれば、そもそも過程を無視する事はできないという事です。

またもう一つ伝えたいのが、仮に目標を達成できなかったとしても得るものがあるという話です。
目標を達成できなかったというのはつまり失敗をしたという事で、その失敗を通じて得られるものもあるのではないでしょうか。
…と言ってもこれはごくごくありふれた一般論ではあるので解説するまでもないかもしれませんが。

失敗をする事でなぜ自分が失敗したのかを考えたり次はどうしたら良いのかを考える必要が生まれます。
つまり自分と向き合うようになると言えるでしょう。
そして失敗という結果が次の成功に向けての過程になるのです。
失敗という結果が単なる結果で終わらなくなるのです。
有意義な経験として次の成功への助けになるでしょう。

ただし、失敗を良い経験として自らの糧にするには失敗した事と真っ直ぐ向き合う事が必要になります。
自分の悪いところや非と向き合うというのは大変な事です。
向き合うには自尊心が必要になります。
自尊心がないと自分を責めたり、誰かのせいにするばかりで自省する事ができないので経験値になりません。
※自省ついては過去にこの記事で書いた通りです。

また、よく結果至上主義の人に対して誰かが頑張っているのにその過程を見ないで結果しか見ないのは冷酷であるという見方をする人がいます。
しかしながら、頑張っているかどうかだけで判断するというのがそもそも過程を大切にしているようでしていないのではないかと思うのです。
過程というのは何をしたかという中身の事ですし、単なる一つの行動にだけ着目するだけではなく、結果に対してどのようなルートで物事を進めていくのかという流れを伴うものになります。

もちろん頑張っているという事実自体が人を動かす事があるのも事実です。
たとえばアイドル文化などにおいては、歌が下手くそでもダンスが下手くそでもその人が頑張っているからという理由でファンがつく事もあるでしょう。
それが悪いとは思いません。
しかしながら過程を大切にしているのかどうかいうとそれは違うのではないか?とそう思うのです。

恒例の「そもそも論」になってしまうのですが、まず前提として過程とは何かという認識がズレているように思うのです。
過程という概念に対しての解像度がそもそも低い。
当然そのような人は過程を構築する事はできないのでしょう。
がむしゃらに頑張っているだけでそれが立派な過程であるというのは過程を軽んじている上に結果も軽んじていると言わざるを得ません。

また結果至上主義になりすぎる場合、望んだ結果が出ていたとしても知らないうちに犠牲になっているものがあるという事にも注意が必要です。
仮に幸せをゴールとするのであれば、いくら社会的地位を得て成功して評価されたところで不幸では意味がない。
何らかの成功の為にそれ以外を何もかも犠牲にする、それが本当に自分のやりたい事であればそれで幸せなのかもしれません。
しかしながら、それで実際に幸せになっていない人というのもたくさんいます。

このような人はこうなればきっと幸せであるという思考が強いです。
そして「現状が不幸である」と感じているが故の強迫観念によって暴走しがちなところがあるでしょう。
強迫観念というのは低い自尊心から生まれるものです。
こうなれば幸せになるという決めつけをする人は大抵こうでなければ幸せになれないという決めつけをします。
しかしこのような決めつけをする事自体がその人の幸せになる能力の無さを示しているように思うのです。

ただ単に一般論で言うところの成功という解像度の低い結果を求めたところでそこには自分という存在がないのです。
自分はこういう人間でこう思うからこうなりたいと思うというような「自分」という主語を失っているのです。
一般論的な成功で自分が幸せになれると本当に思えるのであればそれを否定する気はありません。
しかし幸せのあり方を単なる一般論に任せて、自分にフィットするかどうかを見ない事、つまり自分と向き合わない事、これは過程を軽んじていると言えるのではないでしょうか。

地位や権力やお金を得るという類の成功というのは主役が自分でなければ機能しません。
地位や権力やお金を手に入れてどうしたいのか、その次がない人はそれらを手に入れたところで虚しい気持ちになるか、あるいはそれらに囚われて
執着したまま生きていく事になりやすいのではないでしょうか。

結果より過程が大事という話をするにあたって、過程というのは中身を意味するのではないかと思うのです。
つまり表面的な結果よりも中身が大事である、そのような意味合いなのではないでしょうか。
中身というのは内面の豊かさを示しています。
こうであれば幸せであるからこうならなければならないという神経症的な生き方の人に足りないのは何よりも内面の豊かさでしょうか。
内面が豊かでないから神経症的な生き方になるし、神経症的な生き方の先には内面の豊かさは生まれないという事です。

言葉というのは非常に難しいものです。
言葉の定義によって結果より過程が大事とも言えるし、過程より結果が大事とも言えるものなのです。
しかしながら表面的な結果よりも中身が大事であるという事だけは確かなような気がしています。
結果が敗北であったり失敗であったとしてもそこに中身があれば問題はない、逆にいくら成功したり勝利をしたところでそこに中身が無ければ意味がないという事です。
中身がない成功に執着する人ほど表面の成長をやたらと押し出してアピールして来ますが、まさにそのアピールがその人の得たものの中身のなさを示しているように思います。

中身(=内面の豊かさ)というものはアピールするものではありません。
ただただその人の内側から溢れ出てくるものなのです。
少し胡散臭いスピリチュアルな事を話しているようにも思えますが、中身というのは主張をせずともその人という存在にポジティブなオーラを生み出す作用があります。
そして何より本人が満たされている。

中身のない成功より中身のある失敗が大事
中身のある失敗とは中身のある過程になる
中身のある成功には中身のある過程がある


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