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【小説】ある梅雨の日の死臭

バシャバシャと水の跳ねる音が聞こえる。

梅雨前線がどうのこうのと解説するテレビを消し、沙織は出勤準備を整え玄関に手をかけた。ドアを開ければ湿気を吸い込んだ重苦しい空気と雨粒が沙織を迎えるに違いない。
「……あれ、よかった……晴れてるわ……」
沙織は開きかけた傘を閉じ、歩道にいくつも溜まった水たまりを避けながら、駅へと向かって歩いた。沙織の横を勢い良く追い越していく小学生たちは、水たまりを遠慮なく踏んでいく。そのたびに、水たまりは音を立てて水を弾かせていた。
「元気やなぁ……」
私も子どものときはああやって水たまりを踏んづけていただろうか。沙織は遠ざかっていく小学生を見つめながら、自身が子どもだったころを思い出していた。
「そういえば、ちょうど今日と同じ梅雨の晴れた日に……」

7歳のときだ。
7歳だった沙織は、梅雨時期のむせ返るような湿気を感じながら、親に連れられて親戚の法事へと出かけることになった。
沙織が住む大阪から親戚の家がある徳島へ移動する最中に、淡路島のサービスエリアに寄った。そのとき、沙織は初めて海を身近で見た。
内陸に住んでいるうえに海水浴にさえ行ったことのない沙織には、潮の香りや肌を刺激する潮風は初めての体験で、なにもかもが興味深い。
沙織は潮の香りを目一杯吸い込み、少しむせた。
「なんや、ちょっと臭い」
潮風に混じって臭う生臭ささに、沙織は眉間を寄せた。隣に立っている父親はハハッと笑い、沙織の頭をそっとなでる。
「海の生物が死んだ臭いやで。生臭いのはしょうがないんや」
そうか、死んだら生臭いのか。沙織は納得した気になっていたが、意味はあまりわかっていなかった。そもそも、死がどういうものかピンとこない。
そのときは”死んだらとにかく臭くなる”ということしか記憶に残らなかった。

法事は退屈だった。
まだ子どもの沙織にとって、法事というものがどういう意味をなすのかわからない。大人たちはバタバタと動き回り、お坊さんが長い長い意味のわからない言葉を唱える。沙織は両親から「おとなしくしてて」と言われたので、黙って部屋の隅に座っていた。
窓からは太陽が見える。先ほどまで雨が降っていたが、法事の間に雲は去っていたようだ。
「お母ちゃん、そのへんぶらぶらしてきてええ?」
都会育ちの沙織にとって、土の道や草木の匂い、どこまでも続いていそうな青空が非常に珍しかった。
せっかく知らない土地に来たのだ。ちょっとくらいは周辺を探検したい。そう思い、母親の許可をもらって外へでた。

沙織はレインブーツを履いて、泥だらけの道を歩きながら、水たまりの上にバシャンッと飛び乗った。空を映していた水が沙織のジャンプでバラバラになり、大きく跳ねる。水滴は地面に落ちてすぐに泥と混じってしまった。
その様子が面白くて、沙織は水たまりを見かけるたびに大ジャンプを繰り返した。
気分はスポーツ選手。トランポリンに飛び乗るように、跳び箱から着地するように。両手を上げてポーズをとりながら、「沙織選手、いっきまーす」と言って次々と水たまりを破壊した。

いくつかの水たまりで遊んだあと、沙織はある水たまりに目を留めた。
水の中に、なにか黒いものがいくつも漂っている。
「これ、沙織知ってるで。図鑑で見たやつや」
オタマジャクシだった。黒く丸い頭に、うねうねとしたしっぽ。水たまりの中ですいすいと泳いでいる。
沙織はしばらくオタマジャクシを眺めたあと、水たまりに映っている空に気づいた。見上げると太陽が真上にきている。日が沈むまではまだまだ時間がかかりそうだ。
「あっついなー」
太陽が輝けば輝くほど暑くなる。地面は早く乾く。水たまりは消える。また雨が降らない限りは、水たまりが水たまりでいられることはない。
沙織はそこまで考えたとき、ゾッとした。急激に血液が逆流していくような感覚を覚えた。
水たまりが乾く。オタマジャクシが泳いでいる水たまりが乾く。
それが何を意味しているのか、沙織は急に悟ったのだ。

死だ。
オタマジャクシは、このままだと死ぬ。水がなければ生きられない。

目の前で泳いでいるオタマジャクシは、あと数時間もすれば干からびてしまう。
干からびたらどうなる? 幽霊になる? カエルになることなく、魂がこの世をさまよう?
沙織は知っている限りの知識を持ち出した。

死ぬということは、身体が動かなくなること。
死ぬということは、もう二度と目がさめないこと。
死ぬということは……生臭くなること。

目の前にいるオタマジャクシが、急に怖くなった。
これから干からびて、死を迎える。臭いを放つ。その存在が、見ているだけで恐ろしいものに感じた。
立ちすくむ沙織に、ザザッと吹き始めた風がぶつかってくる。そのとき、沙織は草木の香りに混じって海の臭いを感じた。

それは、生物が死んだ臭い。

沙織はゆっくりと後ずさり、そして弾けたように元来た道を走り出した。
全力で足を動かしているのに、なかなか前に進まない気がする。近くに建物が見当たらない田舎では、どれだけ走っても景色が大きく変わる様子はない。
必死で走る先に、水たまりが次々と見えてくる。「あぁ、あぁ、もしかしたら、オタマジャクシがいるかもしれない」と思った沙織は、よろけながら避けて走った。
「はぁ、はぁ、はぁっ……」
踏みつけたらオタマジャクシは死ぬ。それも、ただ死ぬわけじゃない。沙織が殺したことになるのだ。あぁ、もしかしたらすでに殺しているかもしれない。今まで何度も水たまりを壊していたのだから。

死だ、死だ、死ぬんだ……。
沙織は得体の知れない恐怖から逃げるように、ただただ走り続けた。

「なんで、あんなに怖かったんやろ」
誰かが持っていた濡れた傘が、沙織のタイトスカートを濡らしていく。その不快感で沙織は意識を現実に戻した。
満員電車の中で粘度のありそうな汗がダラダラと流れ落ちていく。
また法事がある。今回は十七回忌だろうか。沙織は、死を恐れたあの場所へまた行くことになる。
「あのときの私、アホやったな。コップなりなんなり使って、あのオタマジャクシを川に移動させてあげればよかった」
死の恐怖から逃れることに必死だった7歳の沙織に、そこまでの機転はなかった。
あのオタマジャクシを殺したのは私かもしれない。少なくとも、救えたはずの命を見殺しにしたのは自分だ。
沙織はそう考えながら、窓の外を眺めた。
どんどん近づいてくる大阪港には、四国へとつながる海が広がっている。
「……オタマジャクシは、たぶん生臭くなかったな」
あのとき、オタマジャクシはまだ生きていた。小さな小さな水たまりの中で、懸命に泳いでいた。
数時間後には死ぬ運命でも、死臭を放つにはまだ早すぎる。

「今度、あのオタマジャクシの墓を作ったろ」
そんなことに意味はないかもしれないと思いつつ、沙織は7歳だったころの沙織を慰めるように、そしてオタマジャクシへのせめてもの供養として、そう心に決めた。

「さて、今日もしっかり働こか」
電車のドアが開いた瞬間に感じる、大阪港からの海の臭い。「今日も生臭いなあ」と思いながら急いで職場へと歩き始める。

湿気がまとわりつく沙織の身体に、生臭い臭いがうつってしまわないように。

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