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【day42】これまでの人生を振り返る

おはようございます!

本日はなんとか起きれました!笑

本日は、お休みなので起きれたかもしれませんので、宣言を守るため、自分の夢への積み上げのためがんばります!

そして、本日は自分自身の人生の振り返りを行っていこうと思います!

このことで、いつも読んでくださる方に私自身がどんな人間なのか、理解していただこうと思います。

以前にも数日にわたって書いていきましたが本日はそれらをまとめ1記事でわかるようにしていこうと思います。

では、書いていきます!

生い立ち〜大学入学まで

私自身、里帰り出産で長野で生まれました。

出産予定は、4月頭であり、だいぶ早い出産だったようです(笑)

せっかちですね(笑)

そのため、父は出産に立ち会えなかったみたいです。

私自身一人っ子なので、少し残念だったんだろうなと思います。。

でも、ここで生まれるタイミングが違ったら今の人々とも出会えていなかったと思うと、感慨深いものがあります。


私自身、幼少期は、体が弱く運動神経も悪く消極的な子供でした。

また、鼠径ヘルニアで数ヶ月の時に入院していたようです(小さい時の可愛い写真はへそがすごいことに・・)

その後、小学校に上がるタイミングで引っ越しました。

近所は、同年代の子供が多く、ここで遊ぶことで次第に積極性や運動能力が上がったと思います。

また、両親は色々習い事をさせてくれました(水泳、空手etc)

しかし長続きしません。

そして、小学4年生で野球を始めます。理由としては、僕が入ることで9人の同級生になるためでした。

チームはそこそこ強く、入った年に地区優勝。

しかし、次第に同級生がやめていき最終的には少ない人数になりました。

この頃は野球は大して好きではなかったです。

レギュラーにもなれ、そこそこ活躍もできていたため練習はそんなに熱心に打ち込んでいませんでした。

そして最後の大会で、大きなレフトフライを打ち逆転勝ちかと思いきや、ファインプレーで取られ僕の小学校の野球は終わりました。

ここでの経験が、野球を継続するきっかけになりました。

試合は好きだったのですが、更に好きになりました。

卒業後野球をどうするか迷っていましたが、色々なチームを見にいき決めました。

決め手としては、コーチのノック姿・選手練習する姿がかっこよく、練習見学の際も先輩方が優しかったためです。

ここでの出会い、経験がとても大きかったように思えます。

中学校では、学校では他の小学校からきた友人と仲良くすることが多かったです。基本的には、野球が楽しくなってきておりクラブチームの友人と遊んだり、野球に没頭していました。

チーム自体結構強く、全国3位になることができました。

また、きつい練習・努力ということを意識した3年間でした。

ここでの学びとしては、努力・継続の大切さ、人としての基本、親を大切にする、人を大切にする

などなど人として大切なことを学んだと思います。

生まれ変わっても、このチームに入りたいと思ってます。


同級生にはすごい選手がたくさんおり、中でも高校へ進みプロに声がかかる選手もいました。

しかし、皆が怪我を抱えており私自身何かできたのではないか?

このような選手はもしかしたら少なくないのではないかと思い、理学療法士で予防分野に働きかけたい、球児のためになりたいと考えるようになりました。


高校生では、野球で高校を選びました。自宅からは少し離れていましたが、通いました。

この時は、肘や肩が常に痛かったですが、特に対処せずに行っていました。

休むということがとても怖かったためです。

自身の中学・高校の経験、友人の怪我を予防できなかった経験で理学療法士を志したいと感じるようになりました。

そしていざ大学に入学します!

大学入学〜挫折と努力〜

これらの夢に向かって、目を輝かせていました。

しかし、大学受験での勉強は波乱の連続でした。

今まで、高校は野球の推薦で入り、大学は受験勉強をしましたが学力が足りず不合格。なんとかAO入試で、面接のみの受験で合格して入学しました。

そのため、勉強に対するコンプレックスはあり、受験勉強で勝ったということがなかったため負け癖がついているような感覚がありました。

また、勉強の方法自体が全く分かりませんでした。

そんな形で、入学しましたが友人にも恵まれそこそこ楽しみつつ学生生活を行ってました。

そんな中で事件は起こります。一番初めの小テストで、なんと満点をとってしまいました(笑)理由としては、簡単で事前に過去問をもらっており、それを解いて、一問あるひっかけ問題に正解したためです(笑)

これで気を良くし、自分自身は意外と勉強ができるんじゃん?と調子に乗っていました。

その結果、悪夢が待っているのです。

なんと、1年生前期の科目で、必修科目を落としてしまいました。

再試にも落ちてしまったのです。

夏休みは勉強でつぶれましたし、親に報告したら、母親は泣き出しそうなショックを受けた表情でした。

これを伝えた際の母の顔は今でも忘れません。

二度と悲しませてはならないと思いました。

すぐに担当の先生に電話をしたら、後期の頑張りで検討すると言ってくださいました。

この時点では、心が折れ、昔から少し憧れていた大工の仕事になろうかと思っていました。

「家の裏で工事している大工さんに声をかけて、作業させてもらおうかな。」

とも思っていました。

しかし、反対に夢を諦められない自分もいました。

この葛藤の中、後期を迎えます。

1年生前期でどん底を味わった私は、後期を迎えます。

この段階で、プライドや意地なんてものはありません。

ひたすら頑張るしかないなと心では思っていました。

授業は休まず出席し、集中し聞きました。

当たり前かもしれませんが、真面目に学んできてない私にとっては結構な辛さがあったように思えます。

また、友人と一緒に学ぶ方法を取りました。

わからないことは先生に聞きに行くことを意識しました。

色々なプライドや雑念を捨ててがむしゃらにやることにしました。


今となって、この時を振り返って感じたことは、当たり前のことを当たり前にやるということ、要点を絞り学んでいくことの重要性です。

いわゆる頭のいい人は、高校時代などを振り返ってもこの2つがうまいのかなと今は思います。

しかし、当時は怠けてしまい結局長続きはしませんでした。

なんとか気合いで後期を乗り切り、後期に無事合格を果たしました!!!


その後、2年生でも同様の姿勢で挑み再試をなくすことができました。

この時期から勉強が楽しくなってきました。

より実践的な内容が増えたため、その科目を学ぶ意味が明確化したためです。

これらは、今何かを学ぶ際も大切にしていることです。

何とか進級し、2年生を過ごし、いよいよ初の長期実習になりました。


実習地はなんと当時落ちる実習地として評判の病院でした。


しかも、自宅からは通えないため初の一人暮らしというかなりハードモードでした。。


しかし、バイザーの先生に恵まれ何とか過ごすことができました。

ケースは脳卒中の方でした。どのような身体で何をしたかは覚えていませんが、最終日に挨拶をした際に言われた「これからの長い人生楽しみなさい」という言葉は今も覚えています。

また、どんな評価をしようと嫌な顔せず協力して頂いたことを覚えています。

これらのことが今後頑張れたことに繋がっていると思います。


そして、4年生の実習では多くの実習生仲間と出会えました。

今でも連絡をとったり、沖縄・福岡の友人には会いに行きました!

本当に人に恵まれた4年間だったと思います。

4年生の国家試験勉強では、学年1位を絶対とる!と宣言しました。

これは、今考えると無謀なところもありますが、宣言したことで朝は同級生の中で一番に学校に行き、勉強を続けることができました。

その結果、1位にはなれませんでしたが、3位の結果で国家試験本番を合格することができました。

この時、意味のある努力は裏切らないんだなと少し実感できました。

また、1年生の時からコツコツ積み上げている人には勝てないんだなと積み上げていく重要性に気づきました。

プライベートでは、大学4年時の祖母の死があり、死について考えることになりました。

その後、晴れて就職になります。

就職とそこでの出会い

私自身、スポーツ分野か大学病院が就職先がいいと漠然と思っていました。

そして10施設程度見学に行きましたが、最初の職場を選んだ理由としては、見学の時の雰囲気が良かったから、急性期なのに訓練室が広く(回復期もあったため)、積極的に下ろしてきて訓練をしていたから、インソールがあるから。

などの理由でした。

また、脳を学ぶことでスポーツ分野に今後進んだ際に活かせると思ったためです。

実際これは見学の時通りであり、ワクワクした気持ちで入職していきました。

しかし、現実は業務に追われる日々でした。

そもそも、患者さんに介入する以前に人との関わりや社会人として学ぶことばかりでした。

カルテの記載も遅く、残業する日々でした。

また、担当数も少ないことでやりがいを感じず、やめたいと感じることも多かったです。

プライベートでは、夏頃に国試前に付き合っていた彼女と別れるなどどん底だったように思えます。

また、「理学療法士になること」が目標であったため、先の目標が見えないような感覚になっていたと思います。これは、後に書く3年目に目標が明確になってきます。

そして、同期に支えられ、先輩からも指導を受け、次第に臨床的な内容を学んできたことで楽しくなってきました。

この時に初めて外部の勉強会に参加しましたが、あまり内容は覚えていません。

この時期から、文献で学ぶ癖をつけておけば良かったと少し後悔しています。

そんな形で、激動の1年目を過ごし、自分自身の運命をかえた2年目を迎えます。

ダメダメで、何とか1年目を過ごし、2年目になり後輩が入ってくる立場になりました。

優秀な後輩が多く、負けないようにという思いでやっていたように思います。

今となっては何が勝ちで何が負けなのかわかりませんが・・・

しかし、そのような思いがあって頑張れたのは良かったのかなあとも思っています。

私の勤務していた病院は、班単位で分かれており、朝の報告なども基本班で行っていました。

そこで問題が起きました・・・

班長に怖いと思っていた、大先輩がなったのです(笑)

正直1年間終わったなと思いました。

このことは、1年目の最後の班長面談でその時の班長の先輩から匂わされていましたが、現実となるとダメージが大きかったです。

しかし、ここでの経験が現在に繋がっていると思います。

それからは、朝のミーティングで自身の考えを伝える日々でした、そして注意されるを繰り返し、段々と注意される内容や抑えるべきポイントがわかってきました。

そして、そのポイントを意識すると臨床もうまくいき、注意されることが少なくなってきました。

このことから、学んだことは、指導を受けた際に相手の意思を汲み取るということです。

このことは、現在もとても活きています。

指導だけでなく、発言や表情の背景を汲み取るといったことが人と接する上でとても大切になると感じました。

そんな形で激動の2年目を過ごして、少しずつ臨床での自信もついてきたように思えます。

少し今振り返ると自身とともに、天狗となっていた部分も多くあると思います。(笑)

今では反省ですね。

そんな形の3年目ですが、班長の先輩は、とても尊敬していた方でした。

1年目から気にかけていただき、今の自分の目標としているセラピストの方です!

この一年は、初めて臨床実習のバイザーを2人やったり、後輩指導をしたり、指導をされたりととても充実していました。

この年で指導することの楽しさと、難しさを感じました。

自分自身が指導される側・する側で大切と感じたことを少しご紹介します。

それは、指導する側の普段の態度や、言っていることがその人自身ができているかです。

遅刻するな、と言っていてもその人が遅刻していては響きませんし、勉強しとと言われてもその人が、あまり知識がないと響きません。

いわゆる「背中で見せる」ということが大切だと感じました。

これは、今でもずっと心がけていることです!

これに加え、プライベートでは結婚をしました。

支えるべき存在であり、高めあえる存在である妻を尊敬しています。この出来事は人生において一番大きいと思います。今回は、深く触れずにいきます(笑)


そして、4年目は副班長を任せられたり(班長を推薦されたが、若いという理由でなくなった)、転職をしたりと個人的に大きな転機になった年だったと思います。


上記の通り、役職がついたため、自身の臨床だけでなく後輩指導や部署の管理など教育に回る機会が増えてきました。

臨床から離れる機会が増え、少し自身でも焦りがありました。

自分自身の成長が止まってしまうのではないか?

もっと患者さんを担当したいな。

など思う部分が強くなりました。

そして、同時に自身の理想のセラピスト像について考えるようになりました。

結論からいうと、「なんでも対応できるセラピスト」です。

自分自身、飽きっぽいところがあるため、一つの分野をずーっと続けることが苦手でした。

そんな短所を反対に利用して、様々な分野で一流になってやろうと思いました。

口にするのは簡単ですが、険しい道になるのは覚悟しています。

この決心がつき、転職を決意しました。

転職先としては、総合病院のみで希望しました。

理由としては、みたことの無い疾患を実際に経験してみたかったからです。

実際に経験することの重要性をこの3年間で学んでいたからです。

この年を振り返ると、自分自身と向き合い、本当に自分がやりたいことを見つめ直し、自分の将来について考えた年であったと思います!


自身の今後を見据えた転職

そんな形で転職しましたが、最初の配属は回復期病院になりました。

条件付きで半年間の配属、その後総合病院に配属と言われていました。

しかし、所属長に聞いたところ入職後にそんな話は聞いていないと言われました。

この時は絶望を感じましたが、少し様子を見ることにしました。この環境でできることをするしかないなと考えました。

そして転職し、3ヶ月ほど経ってきたころ、部長に呼ばれ前職場と違うと感じる点を伝えて欲しいと言われました。

そこで、包み隠さず良い点・悪い点をあるがまま書いた書類を提出しました。

この時から、私の現在の職場での立ち位置が変わり働きやすい環境を作り出すことができたと思います。

この際、特に意識したのが依頼に対する返答のスピードです!

私自身、課題の順位付けを意識するようになり、仕事のスピードを褒められる機会が多くなり、信頼を得られるようになったと思います。

優先度としては、他人が関わる仕事は、期限が定められていなくても真っ先に片付けるよう意識しています。

これは、自分自身が忘れっぽいのもありますが、一番は信頼につながるからです。

転職や就職して初めは、自分自身を知られていない状態のため信頼を得ることが重要になります。

そこで、このスピード感が重要になります。

これを繰り返すことで、信頼が得られます。

信頼が得られたら、本題である「提案」をしていきます。

私自身前職の経験をいかし、異なる点から見た改善案を提案しました。

また、自分自身がこの提案の中でできることを伝えました。

その結果、自身の希望図書の購入や物品の導入など自身のやりたいことを実現することができました。

まとめると、提案を成功させるコツとしては、

①相手の信頼を得る
②信頼を得るために、返答のスピードを最速にする
③提案を行う
④提案の中で自分自身にできそうなことも同時に伝える

この4点を抑えることで成功につながりました!


このように現在は働きやすい環境で働いています。

来年度には、総合病院への異動予定です。

夢に向かって進み続けられればと思っています。


すんごい長い内容になりましたが、このように私自身の人生を歩んできました。

自分自身の人生を振り返ることで、人に支えられてきた人生だと思います!

これからも多くの人と関われるよう発信したり行動していくので応援いただけると幸いです!

今後ともよろしくお願いします!

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