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名もなき痛みが教えてくれたこと〜見えないことへの想像力〜

名前がつく困りごとや傷になる前にある痛み

「お腹がぎゅっとした感じがしたんだよね」「この辺が(胸のあたりをさして)ぽっかりしてどうしていいかわからなかった」

子どもたちと話していると、名付けられる困りごとや傷(たとえば「私は~された」「私は~ですごく嫌だった」)になるもっと前に積み重なった、「名もなき痛み」のことがポロっとこぼれ出てくることがある。

慢性的に積み重なってきた傷が、何かのきっかけで身体的な反応を伴って、しかも自分では調整ができない形で湧き上がってくる「痛みの記憶」となっていることもある。

自分の抱えているものが、「痛み」だと誰も教えてくれなかった。
目に見えない痛みに関心が寄せられなかった環境。「痛い」と言っても、「大丈夫だよ」と言われて終わってしまっていた(かもしれない)環境。

子どもたちからこぼれ落ちた言葉から、そうしたさまざまな「環境」を生き抜いてここにいる、ということに思いが巡る。

私自身、子どもたちの環境の一部であり、環境を生み出している人間の一人である。だから、そのような環境の中なんとか生き抜いてきた相手への敬意とともに、痛みのケアすらままならない中、痛みが積み重なる環境をどうにもできていないことをあまりに申し訳ないと思う。そして、なんとかできないかとも思う。

病気は文化であり、医療は社会システムである

子どもたちと関わる中で漏れ出てくる名もなき痛みの話について、なぜ触れようかと思ったかというと、先日あるイベントでご一緒させていただいた、杉下智彦先生という、国際学・熱帯医学の教授でもある先生との出会いがきっかけだった。杉下先生については、以前からお会いしたいと願っていた方でもある。

イベントの中で、杉下先生がおっしゃっていた「病気(illness)は文化である。医療は社会システムである」という言葉がとても印象深かったのだ。

皆さんは病気と聞いて何を想像するだろうか?

杉下先生が赴任していたアフリカのマラウイ共和国では、当時「呪い」の概念が社会規範としてあった。どういうことかというと、医療の役割として、身体疾患の治療だけでなく、失恋の胸の痛みへの手当てや、マラリアにかかった時「なぜ、あのうちの子がかからずに、うちの子だけがマラリアにかかったのか」という疑問への意味づけが手当ての一つとして求められていたという。(*短時間で伺った覚書なので、詳しくはそのイベントとは別の時期の下記のインタビューをご覧いただけたらと思う。)

現在の社会のシステムの中では、公衆衛生学的なアプローチとしての疾病予防や重症化予防が行われ、国際疾病分類などを用いた一定の基準に基づき疾病の診断がなされ、治療が行われている。

その一方で宗教的・伝統的価値観に基づく病(illness)の捉え方があるように、本人やその周囲・共同体における「病の輪郭」(何を病ととらえるか)は文化背景により違い、その病への手当てとしての様々な術[すべ]があるのだろう(伝統医のあり方や病に対する意味づけ方についてどう考えるかは違う回に譲る)。

名もなき痛みや、どう意味づけていいかわからない困惑を、「痛い」「モヤモヤした」とつぶやいても大丈夫な、安心できる環境の中に居られるということ、その上で互いにケアしあえる営みは、自分のことも他者のことも大切にしあう文化の形成にも繋がるのではないだろうか。そして、「深い傷」の発生を予防している可能性もあるのではないか。杉下先生のお話をうかがって、そんなことを考え、普段関わる子どもたちの顔を思い浮かべた。

見えないことと見えること。曖昧な境目を編み直す。

深い傷も回復していく。その方法もきちんとある。

同時に、名前がない「しんどさ」や「痛み」がなかったことにされずに、それについて触れられ、癒し合える、安全で安心な環境や、癒えるまでの時間の流れがある余白も大切なのだろうと思う。そうでないと見えづらい孤立が誰にも気づかれることなく見過ごされ、傷が深まるという循環が繰り返されていくかもしれないから。

だから、問題がきちんと社会化され、システムとして解決されていくこととともに、名前がつけられない痛みを労わり合うような、お互いを大切にしあえる文化が必要なのではないかと考えている。

子どもだけでなく、誰もが、誰にも語られることなく、気づかれていないこうした「名のない痛み」を抱えて、時に傷を負っているいるのかもしれない。

ある子がこんなことをつぶやいたことがあった。「うちの、このモヤモヤや苦しさにはさ、名前が付いてないから、うまく言葉にできなかったから、だからこれまで誰も信じてくれなかったのかな」その子は、自分なりの言葉で、行動で、たくさんサインを出してくれていた子だった。

様々な人の努力で、少しずつ少しずつ、ある課題が社会化され、社会問題となって知られ、解決策が生まれていくようになった。そんな先人の努力の上に、「問題かどうか」だけではなく、「尊厳の尊重」を通して繋がっていく社会の紐帯がある環境を耕し広げていきたい、そんなふうに思う。見えないことにも目が向けられる想像力が社会にないと、複雑に絡みあっている問題に背景にある構造が、そしてそれをつなぐ紐帯が分断されていくと思うから。

尊重あるつながりの上に

人間の持つ暴力性やmessyさみたいなもの(当然、私も持っている)は、自らの生み出す社会に滲み出ていくとも思う。

だから、微塵も「痛まない/痛めない」「傷つかない/傷つけない」ことは難しいのかもしれない。

けれど、人間には想像力がある。       

その想像力により、誰かの傷つきや、排除の上に成り立つ社会を暴走させていくのではなく、尊厳への尊重あるつながりの上にうまれる平和を紡いでいけるのではないかと信じて今活動している。

そのために子どもが生きるこの世界にやさしい間が生まれていく生態系に向けて試行錯誤している。

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次回はそのやさしい間について書けたらなと思っています。

そして、5月31日まで子どもの周りに優しい間を広げていく人の育成プログラムの全国展開に向けたクラウドファンディングを行っています。是非一緒に優しい間を広げていただけたら嬉しいです。

▼子どもが孤立しないやさしいつながりをつくる市民の育成プログラムの全国展開に向けてクラウドファンディングに挑戦中!
https://a-port.asahi.com/projects/PIECES_2019/


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