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きみはきみ子

きみ子は、母方の祖母の名前。
わたしの人格形成に甚大な影響を及ぼした人物だ。

わたしが祖母と暮らしたのは3歳から26歳まで。のっぴきならない大人の事情で、わたしが3歳のときにわちゃわちゃと両親が離婚。母はわたしを連れて実家に出戻り、祖母との3人暮らしがスタートした。

実家は横浜の元町で明治時代から続いている理容室。1階が店舗、2階が住居という構造ながらも商売とプライベートの境界がなく、2階で叔父と職人が着替えたり、食事をしたり、洗濯をしたり、お客さんがトイレを借りにきたり、他人が頻繁に出入りする環境。そんな中、わたしは26歳で実家を離れるまで、さまざまな祖母の顔を見てきた。

祖母は赤坂で生まれ育ち、いきさつはよくわからないからはしょるが、祖父と恋に落ちて、横浜の元町に嫁いできた。理容師免許を持っておらず、40代で夫(わたしの祖父)を病気で亡くしてからは職人を雇用して、3人のこどもを育てながら女手ひとつで経営を担った。長女であるわたしの母と、母の弟が理容師になり家業を継いでからも、ずっと家を支え続けた苦労の人。しかし、わたしの記憶の中の祖母は、いつでも強く、かっこよく、自分の行動に責任を持ち、人生を謳歌していた。

そんな祖母が亡くなったのは19年前、わたしが31歳のとき。
ある朝、急に具合が悪くなり入院、ほどなくして意識がなくなり、祖母のかねての意向を尊重して延命処置を拒否、少しづつ呼吸が浅くなり、その夜、静かに息を引き取った。それはもうあっけなく、まるで自ら死のタイミングを決めていたような、祖母らしい意志を感じる最期だった。享年84歳。

強烈な記憶、あたたかな記憶、ムカついた記憶、笑った記憶、祖母とすごした体験は、あたりまえだけど19年前のその日から更新されることはなく。以後、蓄積し続ける日々の記憶によってどんどん薄まっていくばかり。カルピスだったらもうかなりの薄味。
だからこそ、祖母との思い出をどこかにそっと置いておきたい。それは生まれ育った記憶とわたし自身を振り返る作業でもあり、当時気づけなかったことや見落としていたことが今だからこそ拾えるかもしれない。過去を礼賛するのではなく、起こったできごとと当時の感情をただ淡々と記すことで、わたしはもっと祖母を、家族を、自分自身を、理解できるのではないだろうか。

さあ、祖母・きみ子のことを何から話そうか。
たいせつに少しづつとり出して、愛でながら書いていこうとおもう。


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