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教育観の急速な変化と植物モデルの教育例


前文:今回の「子供」の定義が凄く難しいと思うので、過去の労働者を生み出すための教育という考えに基づき、「社会で働く前の人」という定義で考えていけるとありがたいです。


先日教育の勉強会に参加し、子供を育てる一連の流れを植物を育てるという形に例えられていた。
私が学生だった10年前に授業でやったなぁと思いだす。
陶冶や白紙説など教育の歴史の授業で、夜回り先生の子供への教育を植物的な例えで大人が子供をどうにかするみたいな表現をするのは個人的にはあんまり好きじゃないんだよねー、と大学の美人教授が言っていた言葉を未だに覚えている。

キャプチャ

(注1)



ここ5年くらいで一気に多様化社会に切り替わってきたときに、この植物という例えに違和感がやってきた。
過去の安定的な人材の大量生産安定供給の流れは、学校を農業や工業で例えられたりしていた。
私の見てきた講演会の植物は基本動けない。環境を誰かが用意して誰かが水をやり育ててあげるというもの。自分から動けないような表現。
けど、その例えは現代の環境では通じにくい所がある。
現代では中学生でも一人一台超小型の高性能PCを持つ時代。
時代の変化が早くなっていることに対して例えが何も変化していない。


自分の意思で自己決定を行い未来を自分で切り開く国民総活躍社会に移行したのは記憶に新しく、教育界もそのような人材を教育できるよう課題解決学習などが盛んに取り沙汰されている
従来の労働者と会社の役割を、年功序列の終身雇用というセーフティネットを社会が保証できなくなったからというのもある。
これから何が起こるか分からない、その中でも生き抜ける力が求められている。
このような現状で、畑の中で誰かが育ててくれるという植物比喩による表現はとても違和感が出始めた。


まず、海外留学が簡単になった。自分で環境を移動出来る。情報もスマホで簡単に得られるし、様々な価値観を持った「場」も増えた。
自己表現、自己理解、社会理解の場を自らの意思で選び動く事が出来るようになった。
自分のやりたいことを行う事は自分で自分を分析評価し自分で計画を立て動き出す必要がある。大人の都合に合わせて大人に評価してもらい喜ぶためではなく、自分自身の幸せを見つけて掴むことです。
普通に仕事しながらも趣味に生きるでも良いし、起業家や一芸に秀でるところを目指すことを推奨している訳でもないです。

子供が意思を持って自発的に動くことを目標にされている社会で、植物にはそんなことできないのじゃないか、ってところからとても大きな違和感に切り替わった。
子一人で海外へ行く スマホで情報を得てイベントに行く 学びの場を開拓できる
植物だから例えがまあ土のある畑とかになると思うけれどその比喩を完遂出来る表現が、もうないなぁと。


じゃあ何が良いんだよ、と突っ込まれるのでご提案としては非常にシンプルです。

子供の教育を人として例える事。

擬人化でもなければ例えでもないですけど、現実をしっかりと捉えるというところが現代の必要な落としどころだと思っています。
現代では多様化社会なので、そこに更に人種や価値観もありますけども今回は教育観なので「子供でもあるけど人」でもあるという事です。

但し、とてもとても面倒で厄介な点があります。
今までは分かりやすい植物という例えで、
とても分かりやすい種まきから収穫というゴール、全体像というグランドデザインが見えています。
しかし、現実はとても複雑で全てを理解したうえでゴール設定やグランドデザインを作るのはとても難しいです。

自分が栽培する側、子供は育てられる側という考えで植物というキャッチーな例えをそれっぽく理解してしまう事は、デティールが宿っていないのでふわふわしている。そこを個人の思想に任せられてしまうというところがあります。教育の本質的な部分が掘り下げられない、広く周知する事と内容の深さの両立はいつだって難しい。

未来へ知的財産を残すのであれば正確で明確なものにする必要があるって学会やらアカデミックな人たちが言っているのでそういう方向が良いなと思っています。
正しく認識し考えることを大人が協働して組織的に進めて転換させていかないと、子供達は決して真似しようとはしないと思うので頑張らないといけない踏ん張りどころが今なんだろうなぁと思うんだよね。科学的に、文化的に、次につなげることが、小さな考えから動かせると思っています。

私自身がこの考えに至ったのは、私が一生追いつけないような才能を持つ子供達がいるということを見せつけられたからです。ダンスでも音楽でもスポーツでも勉強でも。
あとは、私が25歳の頃に、7歳の子に提案されたアイデアがすべて私のアイデアを上回っていたという事もあったから。
若い人に対して敬意を持つようになったというのと同時に、いつ足元救われるか分からないなぁという恐怖感も併せ持っています

大人からすれば未熟な子供に対して無意味な万能感を持って上から目線で言ってしまう事があるので(当然私も上から目線に捉えられてしまうだろう言葉もたくさんあります)、そういうことが減れば良いんじゃないかなぁというところでもあります。
若者相手目線で物事を考えると自分自身が当事者に寄り添える人になると思うし、そうなると自分も寄り添ってもらえる確率が上がるので色々と楽になるんじゃないかなぁと思いました。


最後に、

最大の違和感は、子供への教育を植物に見立てる大昔の例えを未だに適用し続ける事。
前時代に取り残されつつある教育界とその教育を受ける、活用する側の我々は、それでいいのか、どうなのかと問う事です。
分かりやすさ至上主義によって、教育の本質的な理解を社会から置き去りにするような方法が果たして本当に良い事なのか。
社会は複雑で、複雑なことを理解して考えることが現代の社会教育では必要な事だと思っています。
難しい事が分からない、と投げ捨ててよい社会は、教育の敗北だと思います。
まして大人がさじを投げて子供達にはさせようというのはいささか無理があるのではないかなと。



追記:教育モデルでは古くは陶器をこねるように人を育てるプラトンの陶器モデルは紀元前4~300年ごろ、ルソーの植物モデルは1762年、ジョンデューイの人間モデルでさえ約100年前であり、私が大学でジョンデューイを勉強していたこともあり、今回一般の人が植物モデルにしっくり来てしまっている事に違和感を感じた次第です。

良い意味でも悪い意味でも情報が変な形で取り残され続けているなと思っています。最新情報にアップデートされず、マイナーチェンジされ続けているような。
自然に教育されるという植物モデルのルソーの考え方と、先日のイベントで語り合っていた子育ての植物モデルの解釈もまたちょっと違ったりしている。
正しい情報を得て振り回されないためにも情報リテラシーの向上がもっと必要なのかもしれないです。


同様の内容について語られているリンクを貼っておきます。

注1の出典 https://blog.goo.ne.jp/detarame920/e/f79d762e8d34171d6337431219b9e403


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