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「平らか」な自分は、「高さ・深さ」を受け入れてこそ~年末年始に起きたこと~

こんにちは!明日美です。

これからまた、
自分自身の道を歩いた記録として
少しずつ書き始めてみようかなと思い、
筆を執りました。

さて早速ですが、
昨年から、否定・拒絶している概念は、
自分自身の力、性質も封印してしまうのだなぁと感じることがよく起きていました。

逆に言うと、
受け入れられている事象というのは
自分自身の力としても扱えることができるようなのです。

例えば、私は昨年晩秋に、
自分自身の深く潜る性質にOKを出すことができました。
感情、思考、関係性の深さを望む性質を
私自身が解放していきたいと願ったのです。

そうすると、何が起きたか。

「平らかさ」の体感が腑に落ちたのです。
それは小さな小さな前兆を繰り返しながら
ある時、ふっと自分の中で花開いていきました。

昨年末、夫の数十年を経てのスノボ再デビューに同行し、
スキー場に行ってきました。
スキー場の冷たくてキリっとした空気が好きなんですよね。
私は万が一の事態に備えて、ゲレンデ下のカフェで待機(笑)

大きな窓から、ゲレンデを降りてくる人や
リフトに並ぶ列をただただ眺めていました。
しばらくボーっとしていると
私がいたカフェは、
リフトで山を登り、
滑り降りてくる人たちや、
スキーやスノボをしに山を登ってくる人、
滑り終わって帰っていく人が
交差する場所だと、はたと気づいたのです。
上空からの映像が
頭の中に突然飛び込んで来たような
不思議な感覚になったのです。

その時に、ふと「平らか」っていうのはこういうことなのかもしれないと感じたのです。

登る人も、降りる人も良いも悪いもなく、
登ってくる人も、下って帰っていく人も、
ただそこにある。

それぞれに何の優劣も意味も存在しない。
文字にするならば、どこまでも等しく存在しているような。

心臓でいうならば、
動脈も静脈も必要なもの。
足を流れる血管の方がいいとか、
脳みそを流れる血管の方がいいとか
そういったことは全くない。どちらも大切。

その動脈もまた、
酸素や食事など
外側からの取り込みと繋がり、

静脈もまた、
二酸化炭素の排出が
植物の光合成や成長の一環となる。

温泉もそう。
地下熱で温められ、
何千万年前の深い地層から、
その恩恵をもらう。

ミネラルを含んだ湯気すらも
全身をマッサージしてくれる。
それはまた大気に還っていき、
雲になり、雨となって地に降り注ぐ。

そんな上下や高さ、深さ全てから
恩恵をもらって生きている。

頭ではわかっていても、
自分自身が生活の中で、
排除しようという力を動かしていた部分があった。

例えば、ネガティブなものへの対応がまさに代表格。
機嫌の悪い人を前にしたときに、
先に「排除」したり、「嫌」と避けようとする力が働きがちだった。

あとは、機嫌がいい自分はよくて、怒っている自分はダメとか。

でも、「平らかさ」の感覚が分かった時、
目の前の人やものが、
今、どんな状態かをただ静かに観ることができた。

実践の場は案外早く訪れるもので、
お正月、家族が少しピリピリしていた時に、
前の自分だったら、遠慮したり、
少し距離を置いたりしていたのだ。

でも、その人がピリピリしていることだけを受け取った瞬間、

お正月に人を迎える準備で気が急いていることや、
気持ちよく親戚を迎えたいという想いや、
歳を重ね、以前のようにたくさんのことを同じスピードで片付けられなくなってきていることがスーッと見えてきた。

だからこそ、
気持ちよく人を迎えれいる準備を手伝おうと、
自然と湧いてきた想いに従い、
身体が勝手に動き出した。

もし、これが違う状況で、
人から距離を置くという選択を取ったとしても、
そこに「嫌、NO」という感覚は乗らなくなるだろうなと思った。
(その時、自然に湧いてきた想いに乗って動くことができるだろうから)

「嫌!NO」の感覚が造り出す世界は、
「嫌!NO!」というサングラスをかけて
世界を見ている。
そんな時、それは恐ろしいものとして、
自分の世界を脅かすものとして存在する。

だから、そのサングラスをかけて
避けていたものに、
自分がどれだけ助けられ、
恩恵を受けてきたかも忘れてしまう。

私は、自分の中にある「深さ」におびえた。
潜れば潜るほど、
一人ぼっちになってしまうのではないか思った、
そうしたら、俯瞰する高い高い視点があることも封印してしまった。

それは、深海で暮らす生き物たちが、
栄養分を地球に還元し、
私たちの生活を支えてくれているように
大空を羽ばたく鳥たちが、
山や森が育つために必要なように、
深さ、高さにまつわるものを「なき」ものにしてしまっているような。

深さも高さも観えれば、
全てが繋がっていたことを思い出すし、
どんなに頑張っても一人ぼっちになんて
なりえないことも分かるのに。

昨日はそんな自分の中の「NO」にされがちだった
「疲れた」に身を任せていようと思えた。
そうしたら、突然、それで「OK!」と言わんばかりのことが起きたのだ。

それは、とても嬉しくなるようなお知らせだった。

家族からの電話だったのだが、
よくよく話を聴くと、一緒に過ごしていた時に、
私がふともらしたその人の行動に対する見解を聴いて、
その家族が自分自身のことがよくわかるようになって、
その後、とても穏やかに過ごせているということ。
とんでもなく日常が穏やからしい。

その時の自分を思い返すと、
その人の行動に良し悪しを説くようなものでなく、
ただ「平らかな」感覚のまま、感じたことを話していたこと。
(だから、あんまり内容を覚えていない)

もちろん、相手がそういった話を
受け取るタイミングもベストだったということで、
いろんな要素が嚙み合ってこそであったとは思う。

ただ、その「平らかさ」の感覚に
GO!OK!を出してもらえたような、絶妙なお知らせだった。

自分が落ち気味だと思っている時でも、
しっかりと浮上し、心地よく生きている人に助けられる。
世界はちゃんと巡っているのだと、
世界への信頼がさらに増したように思う。
「平らかさ」と「高さ・深さ」が強力タッグを組み、視界が一気に開けたようだった。

始まりは、「深さ」を認めたこと。
それは、「高さ」の感覚も押し拡げ、
「平らかさ」の感覚までハッキリとさせた。

陰陽のように、
片翼の性質を切り落とせば、
片翼の力もまた削がれる。
理にかなった話だけれど、
体感するとこんなにも違うのだなと思った。

そして、その高さも深さも見渡すことのできる
更なる「平らかさ」を知る。

シーソーが地面と平行になって
そのシーソーの中心にいることが
中庸、平らかと聞いたことがあるけれど、

体感としては、シーソーのどっちが上がっていようが、
下がっていようが、それを上空から眺めている状態が
中庸、平らかなんじゃないかなと思う。
上空だけというのも違う。
真下、真横もあるな。


あっ!
シーソーの模型を入れたまん丸のスノードームを
両手に載せて眺めているような。
心臓を中心に巡る全身の血液を身体の外から見ているような?
ちょっと怖いか。

上がっていようが、下がっていようが
「己」は変わらないことを知っている感覚と言えばいいんだろうか。

深さも、高さも、無限にあるだろうし、
それが変われば、自ずと「平らかさ」の範囲も変わるのだろう。
スノードームがどんどんおっきくなっていくような感じなんだろうな。

さぁさぁ、今年もまだまだ始まったばかり。
この感覚も深めていければと思う。

またわかったことがあったら、記録として書き溜めよう。

それでは!

明日美

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