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フラミンゴ・レディの潜伏



金曜日の夜も更けたPM11:00。馴染みのバーでひとりウィスキーを傾けていると、一組の若い男女が店に入ってきた。


男の方は今風にゆるくパーマのかかった大学生らしい頭だが、格好は細身のスーツに派手目の柄の入った薄ピンク色のシャツ。いかにも「夜の街で生きています」といった体のいでたちをしていた。

対して女の方は多少派手めな化粧をしているが、おそらくは二十代の後半と言ったところ。オフィスカジュアルと言えなくもない薄手のブラウスに機能的な黒のビジネスバッグとパンプスとが多少不似合いでありつつも、仕事終わりの解放感は明らかに働く者のそれだった。


ふたりはぴったりと寄り添うように、というよりは今夜の相手を無事に見つけたもの同士といった距離の近さでカウンターの席に座った。男が左手に持っていた紙袋を席の間に置いている最中も、その腕に女がしっかりと巻き付いている。すでに2、3軒は飲み屋を歩いてきたのだろう。



このバーは比較的落ち着いた住宅街に店を構えているが、二本隣の大通りは仕事帰りのサラリーマンや若者が集まる歓楽街。男女で飲み会を抜け出して雰囲気のいいバーでもう一杯、といった様子の人間たちが行き着く場所でもあった。


ふたりは人目も憚らずに糖度の高そうなやり取りをはじめる。はた目にも明らかに若手のホストとそれにはまるOLといった感じを醸し出しているが、それもそのはずで男が働いていると口にした店はこの界隈でも有名な高級クラブだった。通りで女の扱いに慣れているはずだ。

しかし女も女で、男がフラミンゴ・レディを頼んでやるとまるではじめて酒を飲むみたいに顔をほころばせて一口含んだ。


「結婚式のお帰りですか?」


グラスを磨いていたマスターが唐突に男に問いかける。しかし男はなんのことかと首を傾げていると、女がその話に乗ってくる。


「あ、わたしも思った、この紙袋ってそういうやつでしょ?」


グラスを片手に足元を指さす。男と女が座る席の間に置かれた上質そうな白い紙袋、遠目からでは見えないが話を聞く限り「happy wedding」と印字されているらしかった。


「あぁ、これはサイズがちょうどよかったから使っただけ。だいぶ前に友達の結婚式に行ったときにもらったやつだよ」


男はそう説明しながらピンと自立した厚手の紙袋をカウンターの奥へと寄せた。確かにグラスを持つ手の袖口から覗くシャツは大輪のバラを模したようなダマスク柄。俺のようなおっさんにわかるほど優しいファッションセンスではないが、結婚式にそぐわないことくらいは想像がつく。



その後も男は女を口説くように話しながら間をつなぎ、アルコールを流し込ませる。ホストクラブには行った経験はないがなるほど、こういう手法の商売なのだなと思い眺めた。女の方も酒が進むにつれて気が和らいでいくのか、仕事の愚痴を言ったり男の甘いセリフに頬を染めたりと終始楽しそうにしている。

「そのヒール、可愛いね。見せて」と男が靴を褒めると、膝丈のタイトスカートをたくし上げんばかりの勢いで足をあげる。おいおい、見えるぞと思ったが、これからそれどころではない関係になるのだからいいのか、と勝手に下世話なことを思った。

しかし後半にかけてはアルコールで意識も朦朧としてきたのか、背の高いグラスについた水滴で手を滑らせて危うく大惨事、といったところを寸でで踏みとどまる。金曜日の魔力にかかっても、大人としてのなけなしの理性が働くのだろう。社会の歯車はいつだって従順で悲しい生き物だ。




次の店は間違いなく男の働くホストクラブか歓楽街裏のホテルだな、と思ったところで手元のウィスキーが空になって次の一杯を注文する。今日はつまみにナッツを頼んだが、来店した若いふたりの色恋沙汰が良い肴になって酒ばかり進んでしまう。白い皿に残った素焼きのアーモンドをはじくと乾燥した皮がぱり、と音を立てて欠けた。

琥珀色のウィスキーを注ぐマスターの指先は男らしく武骨なくせに妙に繊細で、そこから佇まい全体へ物腰の柔らかな雰囲気を纏わせている。賑わう夜の街の端で静かにシェイカーを振る、まさに「マスター」らしさが人の心を容易にほどいてしまう。

普段は言葉少なな男だが、その分というべきか発する一音一音に角の取れた氷のような重さがある。カウンター席を陣取る若い客の会話に巧みな合いの手を入れながら、テーブル席の客の相手も難なくこなしていた。



だが今夜ばかりは連れの男が酒を勧めすぎた。女は柔らかな木目のカウンターテーブルに突っ伏して完全に落ちてしまった。ぐだっと丸まった背中に、男はほっと一息ついてからマスターに言った。


「マスター、悪いけど彼女が起きたらタクシーでも拾って帰してくれる? 俺、これから出なくちゃいけないんだ」

「おや、お急ぎですか」


マスターの柔和な笑みを肯定ととったのか、男は席にかけていたジャケットを着こんで席を立とうとする。


「お急ぎなら、よろしければ足元のカメラもお預かりいたしましょうか?」


男の表情が凍り付いた。後ろで聞いていた俺は首を傾げる。



隣の席に置いていた派手な色のクラッチバッグも取り落としそうになりながら、男は財布から引き抜いた一万円札を置いて出て行った。マスターも男を追いかける様子はなく、カウンター席には女と結婚式の引出物らしき紙袋だけが残される。




俺は眠る女の隣に座るのは憚られてひとつ席を飛ばしてカウンターについた。他人の荷物を勝手に覗くのはさすがに憚られたが、マスターが何も言わないのと疼く好奇心とに負けて、床を這わすように袋を自分の足元へ引き寄せた。

若い2人の間を陣取っていたその中身、マスターの言った通りにカメラが入っていた。片手で持てるほどのサイズで、電源が入っているのか赤いランプが点滅している。画面を見ると、マスターがグラスを拭く絵が撮れているらしかった。


俺はマスターに問いかける。


「なぁ、どういうことだ?」

「榊さん、やはり聞いておられましたか」


マスターは先ほど男に向けたのと寸分も変わらない柔和な笑みを作った。それがどこか不気味なようでもあり、すべてを見透かしているようでもあり、彼の「食えない」雰囲気を滲ませている。

店内は奥のテーブル席に仕事帰りらしき中高年がいるだけで、こちらを気にする様子はない。しかしマスターはわずかに声を潜めるようにして言った。


「先程お帰りになられたお客様、大通り沿いにある有名店に勤めているとおっしゃられていましたね」

「あぁ、CLUB Blueのホストだって言ってたな」

「あれは、おそらく方便というやつでしょう」


マスターは男が半分ほど飲み残したグラスを下げながら、カウンターテーブルに溜まった水滴を拭き取る。

俺は洒落たバーといえばこの店しか知らないが、他の店もこんなものなのだろうか。グラスやテーブルを拭くつるりと柔らかそうなシルクの布、チリひとつなく整った佇まい。まるでモデルルームばりの綺麗さだ。


方便、ということはつまりあの男がホストではない、ということになる。傍目にはうまく女をあしらっているように見えたが、薄暗さに慣れたマスターの目には何が見えたのだろう。


「さて、夜の商売は基本的にアルコールを嗜む商売です。お客様の持つグラスが汗をかいたら拭く、というのは基本中の基本。名の知れた店なら身についていて当然のことでしょう。むしろ無意識レベルで出てしまってもおかしくない行動です」


俺はカウンター席で頬をつけて突伏する女を横目に見る。酒が進んだ頃、ワンピースを反対にしたような形の背の高いグラスに入ったフラミンゴ・レディがぐらりと波打ったのを覚えている。

今も置かれたままのグラスは水滴で濡れ、オレンジ色の照明でキラリと鈍く輝いていた。


「またお客様が潰れてしまうような飲み方は、店にとってもデメリットが多いのです。ですから対面で接客する場合は可能な限り調整するのが吉、でしょうね。しかしお連れ様は配慮に欠けた、無茶な勧め方をしていました」


マスターの言う通り、店側としても客が潰れればお代を払わせるのもままならないし、眠りこけた客をそのままに店を閉めるわけにもいかない。また客はひとりとも限らないわけで、接客にも手を焼くだろう。

グラスが空いてはかわりを注文して、またグラスが空いては注文して。その繰り返しで最後に残ったのは、すっかり酒に飲まれて金曜日を食い潰した女だけだった。


「女性のお相手は心得ていたようですが、ホストを名乗るにはいささか技術不足でしょう。一流店ならなおさら、ね」


角のない低い声で話すマスターの目は開いているのかと疑われるほど細いせいで眼球の動きがわからない。表情の喜怒哀楽は口元と目元で決まるというから、その片方を欠いた顔は優し気にも、また怒りに染まったようにも見える。


「それならカメラは? どういうことなんだ」

「そうですね。あえていうなら小さな違和感の集まりでしょうか」


水滴で濡れたウィスキーグラスをさっとぬぐいながら、マスターはこともなげに話す。


「たとえば榊さんがこちらの女性を口説くとしたら、まず何を褒めるでしょうか?」


隣の女にさっと目をやる。近くで会話をしていても一向に起きる気配のない無防備な姿は、40歳のおっさんから見ると色気というよりは危なっかしさや幼さを感じさせた。ひとまずは素性を偽るような男に引っかからなくてよかったと思いながら、流れるように足元から頭まで目を通す。

やはり真っ先に目につくのは艶やかな髪と白いブラウスだろうか。もともと女を喜ばすようなスキルに長けていないのであまり引っ掛かりなく過ぎてしまうが、それ以外の靴、バッグなど目星い部分は明らかにビジネスの匂いがして色恋の場にはそぐわないように思える。


「服か髪、かな」

「わたしもそうです。手入れされた髪と目に涼しいお召し物を差し置いて、靴や鞄を褒めようとは思いませんよね」

「あ、」


薄暗い店内、ウィスキーを片手にぼんやりと眺めていたカウンター席で足を上げた女。

慌てて店をあとにした自称・ホストの男、やつが真っ先に褒めていたのは靴だった。よく言えば落ち着いてシンプルな、言葉を選ばずに言えば地味で飾り気のない真っ黒なパンプス。ヒールも低くて形のいい足や派手目の化粧からは完全に浮いているその靴を褒められ、頬を赤らめていた女の姿が思い出される。


「持っていたクラッチバッグは隣の席に置いたのに、口の広い自立した紙袋だけはわざわざ足元に置いたのも少々不自然に思えますね。だからもしかすると”有名店のホストだ”という方便は、目くらましのための嘘かもしれない、と思ったわけです」

「目くらまし?」

「つばの広い帽子は体型をも隠す、という話をご存じありませんか? ある実験でつばの広いハットをかぶった人物はどんな人でしたか、と質問すると”背の高い若い男だった”という人もあれば、”小太りのおじさんだった”という人もある。人目を引くようなアイテムをひとつ身に着けていると、ほかの部分がまったく目に入らなくなるという脳の錯覚を利用した実験です。

お帰りになったお連れ様も”有名店のホストだ”と名乗ることで、本来の目的から目を反らそうとしているのではないか、と考えたわけです。あとはほとんど勘、ですがね」

「つまり、カマをかけたってことか」


マスターは否定も肯定もせずに、女の湿ったグラスをさっと片付けた。

俺はわずかに残ったウィスキーを口に含み、じんわりと冷えた感覚に浸る。それがアルコールで手に籠もった熱にも伝わり、わずかに温度を下げる。

そこで気がついた。マスターは俺のグラスは拭いていたのに、眠る女と嘘つき男のグラスは濡らしたまま。そもそもここはホストクラブじゃない、グラスを拭くのはマスターの仕事だろうに、もしかするとはじめからすべて見えていたのではないか?という気になる。


「自分の城で不届きは許さない、ってか?」

「いえいえ、わたしなんてしがない雇われマスターですから」


マスターは謙遜しているにしてはやけに落ち着いて貫禄のある声で、静かにそう微笑む。俺はカメラの録画を解除して眠る女の横に置き、食べ忘れたナッツをかじった。






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