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短編小説_変質する夜を抱いていました #月刊撚り糸


「あんたには異父兄弟がいるよ」

 こっくりと濃い宵闇に立ち尽くした私に、女は顎をさすりながら言った。その目は私を映さず、かといって背後を駆ける雑踏を映すでもなく、ゆらゆらと瞬く星に吸い寄せられていた。

 占星術なのだ。今まさに宇宙の星と、私の頭上に存在するであろう一個の星と交信し、自分でさえ知り得なかった自分の姿を鏡のように映し出す。それがきっと占星術なのだ。

 私にしては高いヒールの足をコツ、と一歩前に出した。雑誌の巻末に載った『今月の運勢』に盛り上がる友人たちを冷ややかな目で見ていた私が、だ。

 世界に何十億と存在する人間たちをたった十二種類に分け、赤・白・黄色とラッキーカラーを付すのはいささか乱暴じゃないかと思うことに変わりはない。あるいは他人の言葉に揺さぶられ過ぎてしまう自分のための防衛本能でもあったのかもしれないが、少なくとも私が求めていたのものとは違っていた。

 知りたかったのは、自分のことだ。頭上を照らすたった一つの星のことだ。その星がモールス信号のように繰り返し刻む瞬きの意味だ。

 腰掛けたパイプ椅子は酷く冷たかった。だがその冷たさを逃がすことも忘れるほど、私は聞き入った。女は深い森の奥に住む魔女のようににんまりを笑い、声のトーンをぐっと落とした。

 迷い込んだ人間を暖かな部屋へ招き入れる優しさで、杖の先から弾き出される魔法のような楽しさで、知らぬ間に沼へ足首を浸からせる巧妙さで、与えられる声は私の中へ滑り込んだ。

 後半はもはや占いですらなく、誰もが思い当たるような悩みを三つ、四つと並べて、まとめ、掬い上げた。それは占い師というより詐欺師の手だった。

 勧められたこぶし大ほどの水晶は、世界でも有数の霊山から採れた特別な代物らしかった。これを月明かりのよく入る窓辺に置けば、あんたはきっと幸せになれる。結婚だって思いのままさ。

 私はそれを丁寧に断り、薄暗い繁華街の隅をあとにした。20代の女がみな結婚という言葉に翻弄されるだなんて、いささか乱暴じゃないか。熱は急速に冷めていった。つま先が痛い。土踏まずに凍てついた痺れの感触がある。与えられた声をぽつぽつと帰路に落としながら歩いた。

 築15年のアパートは新しくもなく、古くもなく、いつも通りに私を迎えた。玄関前の蛍光灯の下でバックを開き、家の鍵を探る。かじかんだ手が硬い感触を引き抜くと、その拍子に余計なものまで転げ落ちた。

「あんたには異父兄弟がいるよ」

 蛍光灯がジジ、と音を立てて短く明滅した。それはまるで星の瞬きのように私の頭上で光った。

 まさか。信じたわけじゃないけど、まさかね。

 そう思いながらも大事に拾い上げ、表面についた砂埃を払う。さらに着古したニットの袖を伸ばして磨いてやると、声は清らかな透明さを取り戻した。惜しげもなく輝く丸い縁にじんわりと赤い指が透けている。

 それは私にとって紛れもなく特別な代物だった。


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 彼の細い肩先に触れた瞬間、私は妙な違和感の濁流に押し流された。

 知っているのに、確かに知っているはずなのに、喉の中腹までせり上がってきているのに、あともうひと押しが足りない。指で押せばぐらりと落ちてきそうな違和感の正体を、どうしても思い出すことができない。

「どした? 大丈夫?」
「ごめんなさい、大丈夫です。肩、ありがとうございます」
「貸し一つね」
「ずいぶん高価な肩ですねぇ」

 彼が笑うと部屋の明かりがぱっと灯った。つまずいたのはめくれ上がった玄関マットのせいらしく、汚れた角の部分が折れていた。靴の爪先で擦るようにならしてやると、何事もなかったかのように平らかに戻った。

 彼はすでに書籍の散乱したバックヤードをあーでもないこーでもないと探し回っている。肌が青白く全体的に繊細そうな見た目をした人だったが、学生時代はバスケ部で、本人曰く不動のエースだったらしく、私の倍量のダンボールを身軽に運ぶ姿にはきっぱりとした頼り甲斐があった。

 彼に習って別の場所を探す。アルバイトに入るようになって一年、そこかしこから匂い立つ紙の気配に巻かれながら、乱雑に収まった本の山をひとつひとつ紐解いてゆく作業は嫌いではなかった。黒々とした意味の束と向き合うのはむしろ幸福ですらあった。なにもないところから吹く春風のように、降ってわいた穏やかな午後の中を彼がいる。

 陽光の差さない本屋の裏側は音がよく響いた。コツコツとした革靴の歩く音や、ハードカバーの表紙をぱったりと閉じる短い破裂音。彼が棚の上のダンボールを丁寧な手付きで床へ下ろしたかすかな歪。手元の作業に集中しながらも意識は背後を動き回る彼の気配を器用に感じ取り、翳りのない横顔を驚くほどはっきりと映し出す。

 一年だった。彼と出会って、もうじき一年の月日を越える。年の近いふたりだ、教室でクラスメイトと笑うような近さになるのに時間はかからなかった。

 だが狭い通路を移動するとき、彼の背中と私の背中はなんとか触れ合わない距離を保った。話す言葉はあれほど気安く近づく癖に、同じ本を求めて手が触れそうになると稲妻のような緊張が身体を駆け抜ける。今も、なんとか触れ合わないギリギリの細い線がふたりの間には走っていた。

 ふと隣を見上げる。彼もまた緊張に痺れた顔をしていた。

 私には恋人がいて、彼には奥さんがいた。そうでなくても、社員の彼とアルバイトの私の手が重なるには相応の言い訳が必要だった。誰にも咎められず、世間に責められることのない、完璧な言い訳が必要だった。

 バックヤードは常にしんと冷えている。紙という物体が放つ空気があるとしたら、それはきっと零度を下回る。所狭しと並んで佇み、底の方から徐々に冷気を流し込む。足が冷たくて、というのは視線を合わせる理由にならなかった。

 はじめて触れた肩先の感触をよく覚えていなかった。暗がりに低いヒールの足元が縺れて、手を伸ばしたのがその肩先だった。見た目通り細く、しかし頼り甲斐のある肩先。

 渦巻く熱さを感じる前に、私は濁流に飲み込まれていた。押し流される先はいつも足のつかない沼底だった。もがけばもがくほどに絡め取られ、濁った水が肺を満たしていく。静けさの中でふたりきりになるたび、見てはいけない期待の光が揺らめくのをこっそり視界の端で捉えていた。

 その光が、一際強く瞬いた。水底にまで届くほどのまばゆい閃光が、ゆらゆらとたゆたっていた私を貫く。

「なぁ、」

 言葉がぐっと近づいてくる。いや言葉だけじゃない、何もかもが。

 堪えきれずに胸の奥が鳴き出す。痺れは毎秒ごとに強く心臓を鷲掴みにして、肺に溜まった酸素を根こそぎ吐き出させた。

 もがくことをやめ、少しずつ意識を手放していくと、私の喉から絞り出した一滴の空気とともに零れ落ちたものがあった。

 触れた端から熱かった。自分のか彼のかわからない早鐘がうるさかった。視界には仕立ての良さそうなワイシャツの青。綺麗にアイロンがけされた控えめな艶。線の細い彼に良く似合っているそれは奥さんが選んだのだろうか。彼にまつわるすべてがとくとくと注ぎ込まれる。

 なのに、匂いがなかった。

 刷り立てのインクの香りにかき消されているのではない。無機質なゼリー状の芳香剤に溶けているのでもない。いくら手を伸ばしても、そこにはなにもない。

 そんなことがあるだろうか。異なる場所で、異なる時間で、生きている人が持つ特有のあの香りがしないだなんて。そんなこと、本当にあるだろうか。

 動揺に変わった違和感がぐるぐるととぐろを巻いている。少し怖いような気さえしていた。しかしまるで使い慣れた実家の部屋のように、彼は私の全身をその中にすっぽりと収めてしまった。


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 いいよね、と確信を持った問いを投げられてもなぜかピンとこなかった。その「いい香り」を私だけが理解できなかった。

 高校時代、一つ上の学年にアイドルがいた。頭が良くて、運動ができて、顔が綺麗で、後輩に優しくて、サッカー部のエースストライカーのアイドルだ。学園一の人気者だった。

 彼とすれ違ったあと、女の子たちは黄色い歓声をあげて瞬きほどの時間について何時間でも話し合っていた。そこにいつしか『オレンジの匂いがする』といかにもアイドルに相応しいおまけがつくようになった。

 友人の怪訝な顔を見るのが怖くて、閉口するのと同じ仕草で共感を声に出していた。同意に短い同意が重なる。やがて声は押し流され、取るに足らない話題も押し流され、くたびれた私だけが残った。正直に「わからない」と言ってもよかったはずなのに、私はそうはしなかった。

 花を見たときに『いい香り』と感じるのは、花屋ではなく客の方らしい。花に囲まれて暮らしている人が思うのは、薔薇なのか、百合なのか、チューリップなのか、ダリアなのか。もしくははじめから匂いなどない、という花もある。

 だがそんなこと素人にはわからない。知らない者にはわからない。知らないことはわかりっこなかった。

 アイドルには恋人がいた。誰にも内緒の恋人だった。彼のまとう匂いがオレンジではなくライムの香りだと、唯一私だけが知っていた。サッカー部の練習が休みになった初夏の日曜日、遠くのショッピングモールで買ったお揃いの制汗剤。はにかんで落ち着かない指先は彼の大きな手に囚われていた。

 懐かしさが迫るように胸を占める。それは甘酸っぱい恋の1ページのようででいて、中身を開けば酷く濁っていた。人を愛する前に憶えてしまったどうしようもない優越感と渇きに、私は侵されてしまったのだろうか。ページの切れ端を黒いインクで浸し、白い文字で清らかさを装う。そういうものになってしまったのだろうか。

 二度、三度と触れるうちに彼の肩先の熱さにも慣れていった。当然のように飲み干される泥水は肺に入ると砂糖水のように鋭く甘かったし、ワイシャツは相変わらずピンと張り詰めて真新しい。

 ただ匂いだけが、幼い頃から慣れ親しんだもののように私の鼻を刺激することがなかった。近づけても、擦っても、肌の柔さに彼がくすぐったそうに笑うだけだった。

「あんたには異父兄弟がいるよ」

 私はその言葉を水晶の代わりに窓辺へ飾った。月の出る夜は窓を開け放ち、するすると月光を浴びて輝きを増す声を見つめるのが日課だった。

 名前は大事だ。名前さえあれば、矛は私を貫かない。キスするときに上を向く恥ずかしさが顎の伝って滴っても、それは彼と私だけが知る話だ。

 これで誰にも咎められることも、世間に責められることもない。

 私は完璧な言い訳を手に入れたのだった。


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 窮鼠のような眼差しが押し出したのは小瓶だった。腹の上がきゅうとくびれた小瓶だ。それは我が家にも常備している調味料で、ごく一般的などこにでもあるごま油だった。

 掛け持ちしているコンビニのアルバイトに気持ちが白けていた午後零時手前頃、その人はまだ開ききらない自動ドアの間から滑り込んできた。いらっしゃいませ、と言う前に奥へ消えていく横顔は慌てているようだった。

 髪の長い人だった。今どき珍しいほど真っ黒で真っ直ぐな髪の毛が彼女の歩幅に合わせて忙しなく揺れる。焦れたように中央の棚をいったりきたりしたあと、ガランとした店内で退屈していた私に向かって突進するような勢いで迫ってきた。マスクか化粧落としかな、と予想した左手に持っていたのがごま油だった。

 面食らった私の頬を思い切り叩くような速さで小銭がトレイに置かれる。金額もぴったりだった。彼女はバーコードの読み取りだけを律儀に待ち、袋入りますか、レシートいりますかという声にはなにも言わずに小瓶をひっつかんで出ていった。

 それでも穏やかそうにしっとりとした黒髪が束の間の嵐の余韻を残し、店内はまた私一人きりになった。遅番の人がくるまでまだ一時間以上ある。深夜には似合わないため息が無意識に漏れ、意識は一昨日の夜へ漂い流れていく。

「最近全然会えないじゃん」

 最後の夜から指折り数え、両手で足りなくなってようやく気がついた。まださほど寒さのきつくなかった朝方、女の子のように薄っぺらい彼の腕をどけてベッドを出たのが先月の半ばのことだった。もう二週間が経つ。彼の言う「最近」は14日間なのだな、と無機質に情報だけを書き加える。

 彼の家と私の家の間をつなぐ二駅分を挟んでいるくせに、電話越しの声は生の声よりも一層活き活きと躍動した。弾んでは跳ね返り、私の返事を聞いていはまた無鉄砲にあちこちを跳ね返る。私の柔らかい部分をめがけて跳ね返る。怒りは昂りになり、顔を見ていないせいでブレーキペダルは見当たらなかった。

 うん、ごめん、バイトと課題が重なっちゃって。来週は空くから会おう? ヒロキの家行くから。なんか作るよ、温かいものがいいね。豚汁か、いいね、いいよ。材料買ってく。うん、あ、ごま油あったけ? ない? ううん、大丈夫、なくても変わらないから。

 耳元で振動する声が小さく弾む。それは私の手のひらと床とを行儀よく行ったり来たりして、甘い台詞とともに電話を切った。一通り吠えたあとに頭を擦り付けてくる犬みたいだな、と思ってスマホの電源ごと落とした。邪魔をされたくなかった。三日月が照るささやかな闇の中から腕が伸びてくる。細く色白なのに筋肉質なその腕に、私はゆっくりと溶けていく。

 たった一滴、たった一枚、たった一言。それさえあれば生きていけるものは美しいという。
思い出すのは母のことだ。

 料理を教えるとき、母はいつも男の舌を基準にした。味付けは濃い目にすること、薬味は一通り揃えておくこと、空っぽの胃袋でも満足させる量を用意すること。そしてごま油は切らさないこと。それだけは決して忘れてはだめよ。

 美しい人だった。母というよりも、姉に近い人だった。そのせいか幼い私には周囲の言う「母」という生き物への固い信頼がなかった。鬱陶しいだとか口うるさいだとか、当たり前に向けるはずの反抗心もなく、彼女の不思議な柔らかさだけが時々私を包んだ。

 そして高校に入学する少し前、母はいなくなった。若い男と出ていったのだと、父は苦々しげに言った。外に男を作るのははじめてではないらしかった。私はうつむき、悲しい顔を作ったその裏で、カチリと音を立てて嵌め込まれたピースの存在に気がつく。

 あぁ、あのぼやけて輪郭のない柔らかいものは羽根だったのだと、そのときようやくわかった。私達家族は彼女にとって羽根を休める仮の宿で、時が来れば青に塞がれた大空へ飛び去ってゆく。この先に幾つもの太い幹と出会うだろうが、すべては止まり木に過ぎないのだわかった。

 美しい人だった。それさえあれば生きていけるようなたったひとりを持たない自由さが眩しい、美しい人だった。

 いつの間にか日付をまたいでいた。客の気配がないどころか、表の車通りすら少なく、闇だけが刻々とその色を深めていく。

 黒く伸びやかな髪と鬼気迫る横顔が脳裏によぎる。そのアンバランスさがどこまでも女だった。右手に握り締めたあの小瓶で、彼女は誰かを引き止められただろうか。信じてやまないただ一人を、彼女は引き止められたのだろうか。いずれは私も、そんな風に押し流される日が来るのだろうか。

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 波々と注がれる寒さにおろしたニットは思ったよりも薄手で、広すぎる宴会場の窓際に座るのには不十分だった。自分を抱くように二の腕をさすったが、それでも体温は徐々に下降していく。

 遠くの席で彼が笑っていた。バイト仲間の話に相槌を打ちながらぼうっと眺めていても、一向に視線は合わない。秘する関係が秘されている、ただそれだけのことなのに。

「そろそろあれ買わなきゃ、20☓☓年の運勢、ってやつ」
「へぇ、意外。占い好きなんですか?」
「妹が好きでさぁ、兄貴は乙女座だからあーだこーだって言われるうちになんとなく」
「てか乙女座なんですか。誕生日近いかもー」

 賑やかな夜を食べ尽くしてわらわらと外へ出ると、丸い月が高層ビルの間から顔を出していた。ネオンの光と相まって不思議なくらい明るい街の景色が酔いのせいでふらふらとよろける。しかし意識だけはやけにはっきりしていた。

 迎えが来る、と聞いたときから、私の首筋はじっとりと汗をかいていた。吐き気にも似た感情が身体の中を這い回ってやがて染み出すみたいに、息を潜めているのに呼吸が浅くなる。

 今夜も彼のワイシャツには皺ひとつない。印だ。これはきっと印なのだ。この印を毎朝彼に着せている人に、今夜、会うかも知れない。その気配が腹の底にずんと落ちてくる。

 普段仕事場でしか顔を合わせない人たちが名残惜しそうにだらだらと店の前に溜まっている。私もその輪の端に収まりながら、時間に迫られて先に帰っていく人たちを見送る。彼は周囲の車を気にしながら夜風に吹かれていた。

 飲み会中、彼はいつも通りだった。いつも通りバイト生として私と話し、笑い、可愛がった。決して肘や膝が触れ合わないギリギリの距離を保ち、呼ばれれば「また」と小さく手を振って別の輪の中へ滑り込んでいく。その完璧さは少し怖い気さえしていた。幾重にも包み包んで目隠しをされているような心地だった。

 輝く月とネオンの明かりで一等星すらも夜空に溶けて見えなかった。頼りない瞬きは今もどこかで光っているはずなのに、眩しさがそれを覆い隠す。彼だ、彼なのだ。彼の完璧さの前ではきっと、私たちの関係が悪目立ちするようなこともない。彼はそのきっぱりとした頼り甲斐で、まばゆく輝いていた。

 誰かがお喋りをやめた。伝染するように周囲も静かな夜に固唾を呑む。私の心臓だけがうるさく喚いて収まらない。

 彼が軽く手を挙げ、左右に小さく振った。青信号になった右手側から丸い目をした車体が行儀よく滑り込んでくる。水色の可愛らしい軽自動車だった。私たちの輪の少し手前の路肩でぶん、と音を立てて止まった。

「じゃあすみません。迎えが来たみたいなんで」

 そう言って会釈する彼は身体を斜めにして引き止める声を相手していた。また行きましょうね。じゃあ来週の月曜日に。今度は二次会も行きましょうよぅ。そうですねまた。お休みゆっくりしてくださいね。はは、今度はぜひ。

 止まらない喧騒が耳の上を撫でて通り過ぎていく。彼の声すらも今は意識の外だった。私の目は点滅するテールランプに注がれ、離れることができない。チカチカと歩道を赤く染める車体には闇が絡まって妙に重く冷たかった。

 大丈夫。職場の誰も私たちのことには気づいていないのだ。ふたりの関係は完璧だ。彼の振る舞いは完璧だ。私の言い訳もまた、完璧なのだ。

 心のなかでそのお守りを大事に握りしめる。ぎりぎりと絞り上げるように握りしめる。「あんたには異父兄弟が――――

 重たい水色の塊が軽やかに揺れた。運転席側の扉がゆっくりと、しかし獲物を飲み込む捕食者のような確かさでぽっかりと口を開ける。這い出した濃い灰色のシルエットがやがて人の形をした。

「お兄ちゃん」
「あ、ごめんごめん。じゃあこれで本当に、お疲れさまでした」

 程よく酔いの回った集団から抜け出すとき、彼が私を見た。一瞬だったが、確かに見た。他の誰も気づかないような速さで、しかし瞳の縁に乗った色が確かに私を見るときの目だった。

 迎えに来たのは妹だった。彼が丸い声で「あすか」と呼ぶその子は、切りそろえられた前髪をしゃらしゃらと揺らして私達に小さく頭を下げ、再び運転席に収まった。ほんの一分にも満たない邂逅は集団の中で大した話題にもならなかった。テールランプの点滅が消え、静かに街から遠ざかっていく。私の意識も遠のいていきそうなほど、きっぱりとした態度で遠ざかっていく。

 視界をぐらぐらと漂う目眩。周囲の人々の声が幕を引いたようにくぐもっている。今すぐにぺたりと座り込んでしまいたいのは酒のせいでも、まばゆい光のせいでもなかった。おそらくは彼のせいでも、彼の残していったあの瞳の色のせいでもなかった。焼き尽くすような闇が私を絡め取っていく。

 あの母のことだ。もしかすると顔も知らぬ兄弟くらいいたかもしれないと、冗談めかしに思っていた。まるで小説を読むみたいに、悲惨で陰険で暑苦しいものが人生のどこかに落っこちているかも知れないと半ば本気で思い始めていた。奇しくも歯車が噛み合った冬の帳に、私はひとり立ち尽くしている。

 完璧な彼の妹はまた、完璧であった。なにが、と語ることを許さないスピードと摩擦の熱で、焼印を刻むように残していった気配がまだ目の中に残っている。たとえばあのしゃらしゃらとなる前髪を分けて白い額をあらわにしても、意思のある声をか細く削ったとしても、彼女はきっと変わらない。変わることがない。紛れもなく妹である証明があちこちに散らばって、数えるほうが不自然だった。

 偏執、という言葉がぶら下がっていた。それは床を擦りそうなほど細く長いもので吊られ、私の首から垂れ落ちている。こんなものを下げた覚えはなかったが気がつくとそこにあって、いつからこうだったのか判然としなかった。

 二次会の参加を断って家路につくと、築15年のアパートはいつも通りに私を迎えた。二階の角部屋のカーテンが中途半端に開いて中を覗かせ、満月の明かりでほんのり輪郭を浮かび上がらせる。

 そこには飾ったままの声があった。

 偏執。その四文字を口にすると頭が揺れた。もう一度口にすれば吐き出してしまいそうだった。私はもう彼の目の色を思い出さなかった。背後で揺れるテールランプの明かりがあの台詞を優しく炙り出す。

『あんたには異父兄弟がいるよ』

 そんなのいない。いるはずがない。いたとしても彼じゃない。私と彼は似ても似つかない。だからふたりは触れ合ったのだ。倫理的なことも、尊厳的なことも問題ではない。ただくったりと目の前の現実が横たわっている。私はそれを見ないふりしたかっただけだ。

 冬が勢いをつけて吹いてくる。紫色の風が吹いてくる。母ならこんな荒れ狂う風すらも乗りこなしてしまうのだろうか。それとも暖かな仮の宿で羽を休め、青空の訪れを待つのだろうか。

 彼の目の色は暗く深く、そして暖かかった。それに巻かれて眠るのが好きだった。だが、あれは地獄だ。今にして思えばあれは地獄を映していた。もはや地獄の底すら抜けて、たどり着いた先の覚悟だった。墓場など望まない覚悟だった。

 そんな暗く深い愛を、彼はどこから積もらせていたのだろう。出会った冬の朝は目に映らないほど透明な銀色に瞬いていたのに。どこから、どこから雪は積もっていったのだろう。

 彼は、今の奥さんと別れるつもりなどないのだ。暖かで幸せな家庭を壊す気などないのだ。私との関係は最後の瞬間まで隠し通すつもりなのだ。あれはそういうたぐいの覚悟だ。雪は穏やかにしんしんと積もる、私を置いてきぼりにして積もる。私は、彼と、一緒になりたいのに。

 明るい夜だった。太陽系からすべての星が落ちてしまったみたいに、満月だけが煌々と光っている。薄暗い部屋の一番明るい窓辺に座り、瑞々しく透き通った声を見た。もうなんの役にも立たない声を見た。そこに彼との思い出のいくつかが刻まれていた。あの詐欺師め、と悪態をつく以外、私にできることはもうなにもなかった。




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