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エッサウィラのカモメ

当初は立ち寄るはずではなかった。「エッサウィラ」という地名すら耳にしたことがなく、ヨーロッパからの観光客が多いというその海辺の町に、正直それほど興味もなかった。

モロッコの首都カサブランカからマラケシュまで、一足飛びに行くのはなんだかもったいなく思え、途中いくつかの町を訪れようと決めていた。移動手段に選んだのは長距離バス。焼き物の町サフィからバスで行けることを知り、ここへ立ち寄ることにしたのだ。

観光客が多いと聞いていたので、イメージしていたのは海辺の豪華なリゾート地だった。しかし、到着したのはこじんまりとした、感じの良い町だった。まずは、予約しておいたゲストハウスへと向かい、重い荷物をおろす。

狭い部屋にあるのは、シングルベッドと本を広げたらいっぱいになってしまいそうな小さなテーブルだけ。白と青で彩色された壁が印象的だった。これまた小さな両開きの木枠の窓も鮮やかなマリンブルーで塗られていて、開けると海が見える。かすかに潮のにおいがする。シャワーとトレイは共同だが、水の出もそこまで悪くなさそうだ。

日中の気温は37度。散歩するには暑すぎるので、しばらく昼寝をして夕方町を散策することにする。

ゲストハウスの目の前には小さな広場があった。広場を取り囲むように数軒のカフェや土産物屋が建ち並び、遅い午後の日差しを浴びながら観光客がビールやワインを飲んでいる。

お昼を食べ損ねた私はとても空腹で、炭火焼きの香ばしいにおいに誘われるまま、海岸へと向かった。そこには新鮮な魚介類が食べられる屋台が集まっていた。おこぼれの魚を狙っているのか、空にはたくさんのカモメが飛び交っている。

店先の平台に並べられた魚介から好きなものを選び、それを屋台の奥で調理してもらえる。丸々と太ったイワシを指差し、モロカンサラダと白ワインも注文した。テーブルはヨーロッパからやってきた風の観光客で占められている。15分ほど待った頃、こんがりと程よく焼けたイワシが3匹運ばれてきた。

日本ではイワシを炭火焼で食べるという習慣がなかったが、添えられていたレモンをたっぷりと絞って食べるそれはとにかくおいしかった。フォークとナイフを使って食べるのも初めて。キンキンに冷えた白ワインとよく合う。

付きだし(?)のオリーブも絶品で、最高の夕食となった。食後、しばらく席でゆっくり本を読んでいたが、夕食時分で待っている客もいたため、会計を済ませてゲストハウスへと戻った。

翌日、たっぷりと朝寝坊をし、昼前に地元の人が暮らすエリアへと足を運んだ。さすがは海辺の町。市場では野菜や果物だけでなく、新鮮な魚も売られている。しかし、ゲストハウスで魚を捌くことはできず、冷やかし程度に店を覗く。

「Are you Korean?(韓国人?)」そう声が聞こえ振り向くと、地元の人らしい若者が立っていた。「No. I'm Japanese.(いいえ。日本人よ)」と答えると、彼は申し訳ないといった表情を見せる。

数年前に観光客を相手にガイドをしていたこともあり、外国人とみるとつい声をかけてしまうのだそう。しばらく立ち話をしていたら、そこのカフェでお茶でも飲みながら話しませんか、と誘われる。この町のこと、この国のことをもっと知りたかったので、OKと彼の後に続いた。

屋外のテーブル席でモロッコティーを注文する。モロッコに到着してすぐの頃、炎天下の中、熱々のお茶を飲んでいるモロッコ人を不思議に眺めていたが、体が慣れてきたのだろう。砂糖をたっぷりと入れた甘すぎるモロッコティーを体が欲するようになった。

しばらく他愛のない話をしていたが、彼がポツポツと自分のことを話し出した。どうやら好きな女性がいるらしく、2回告白したがどちらもふられたらしい。もう諦めるべきなのか?でも、気持ちはきっと変わらない、と。

初対面の相手の、しかもその国の恋愛事情も分からない私は、なんと答えればよいのか分からなかった。正直、そのときなんと言ったのかは覚えていない。ただ、話した後、彼がすっきりとした顔で「ありがとう」と言ったのだけは覚えている。

友人と約束があるらしく、一緒に行かないかと誘われるのを断り、そのままカフェの席で夕暮れまでの時間を過ごした。ぼんやりと、日本にいる彼のことを思い出していた。2ヶ月間旅に出ると伝えたときの、驚きと落胆が入り混じったあの表情を。

すでに旅のスケジュールを組み、日程が決まってから彼に伝えた。「そんなに長い間…」と言ったきり、プッツリと黙り込んで背を向けた。その背中は「いつも事後報告なんだね」と言っているようだった。

なんとなくモヤモヤした気持ちのまま出発を迎えることになった。仕事だから空港までは見送りに行けないけど、といって小さな包みを渡してくれた。「飛行機の中で開けて。気をつけて行ってくるんだよ」

包みの中身は、アルミ製のシンプルな名刺ケースだった。開けると、彼の香水の匂いがふんわりと立ち昇る。彼が私のために作ってくれていた名刺も入っていた。旅でたくさんのいい出会いがあるように、と用意してくれたらしい。

手紙には、見慣れた彼のきれいな文字。私たちは付き合う前から、手紙だと素直に気持ちを表現することができた。近くに居すぎることで、見えなくなってしまうものがある。一方で、しばらく離れることが2人の距離を近づけることだってある。

少なくとも、10日に1度は手紙を出すと約束していた。カフェの隣の土産物屋で、青い海とカモメの写真入りのポストカードを購入する。

時間はたっぷりとある。いま目の前にある風景とにおいをどうやって伝えよう、とぼんやり考えていた。







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