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逸脱する編集08 ジャン=リュック・ゴダール/一日一微発見423

ジャン=リュック・ゴダールよ永遠に。2022年に91歳で、ある意味で彼らしい安楽死を選んだ。
20世の神話的なまでの大映画監督にもかかわらず、死ぬまで問題作を作り続けることが出来たのは、彼をおいて他にいない。彼は、ハリウッドに代表される「映画」に対抗する強力な「もう一つの映画」の巨匠、反巨匠であった。

僕は大学生の時に、「紙の編集」の前に、8ミリ映画で編集を覚えた。ジョナス・メカスの著書『映画日記』を読みふけり、ウォーホルの映画、スタン・ブラッケージやケネス・アンガーやマイケル・スノーらの「実験的な作品」に魅力されたからだ。カメラを持って沖縄や北海道を旅した。映画を作るというより、カメラという機械で、世を触知する練習をしていたのだと思う。

ゴダールに出会ったのもその頃で、『中国女』『東風』『ウィークエンド』などのフィルムをフィルムアート社から借りて、学生会館で自主上映したのが出会いだった。

このテキストでは、僕が彼から学んだ「編集」についてオマージュを含めて書いておきたいと思う。

ゴダールは1930年父親をフランス人に、母親をスイス人にパリに生まれた。本人的には10年ごとに様々な人生のステージがあり変化して来たと語るが、僕は前期、中期、後期があると思う。

前期は1959年に『勝手にしやがれ』に代表されるヌーベルバーグの時代であり、男と女の非和解的なストーリーがコアな時期。

中期は、1969年にハリウッド的な商業映画と決別し、政治映画へと向かった、これがジガ・ヴェルトフ集団。ジガ・ヴェルトフは、ロシア革命のときの、前衛的な映画監督であり、彼の名をいただく政治映画集団の活動に邁進した。

そして後期と言っても1970年代後半から今に至る時代だが、政治映画に挫折し、76年に『ヒア&ゼア こことよそ』を撮る。そのタイミングで3番めの奥さん、映画プロデューサーだったアンヌ=マリー・ミエヴィルと再婚し、スイスのロールへ引っ越す。パリを引き払って本拠地を構えて、後期の製作を始めた。
事件としては、1979年には作品『勝手に逃げろ/人生』で商業主義映画に戻ったこと。
また、1988年からは10年かけて『ゴダールの映画史』を製作したこともあげなくではならない。

加えて編集の視点からも特筆しておきたいのは、2006年にパリのポンピドゥセンターで、映画史を展覧会としてキュレーションしたことだ。
これはキュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリストが著書『キュレーションの方法』において「ポンピドゥセンターで行われたなかでも最もラディカルな実験の一つだった」と絶賛している。「ゴダールが行ったのは反回顧的回顧展であって、映画の歴史、アメリカ大衆文化の覇権、イメージの覇権を検討する計画だった」。

展覧会タイトルは当初は、「フランスの(複数の)コラージュ、映画の考古学」だったが、技術的、経済的に揉めまくり、「ユートピアへの(複数の)旅、JLG1946-2006 失われた定理をもとめて」に差し替えられた。展覧会は会期中、永遠に未完なまま変化し続けたのだと言う(詳細は今もGoogleで探すことができてありがたい)。

書いておきたいことは多々あるが、詳細はいったん置こう。
とにかく、ゴダールは、特筆すべき「編集開発者」であった。編集の発明がなされ続けた。
彼が作った作品の中には商業主義映画もあれば、政治映画もある。生涯に渡り影響力を持ちえたのは、やはりその独自の編集開発にあるというのが僕の持論である。

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