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「読書が趣味って良いね〜」

大学生というのは、自己を紹介する頻度があまりにも多い生き物であるとつくづく感じる。そして都度、趣味を聞かれる。
私は趣味として音楽鑑賞をあげることが多く、読書を趣味として紹介することはほとんどない。


しかしながら、私が隙間時間に本を読んでいたり、持ち物に常に本が含まれていたりすることを知った人間からは読書を趣味としていると思われることが少なくない(本文における"本"とは紙媒体のものを指す)。
そして、同時に「読書が趣味って良いね〜/偉いね〜」「自分も本読まなきゃ〜」と言われることがある。

このような言葉に対して毎回私は返事に困ってしまう。そもそも、私の趣味は読書ではないし、読書という行為を崇拝していることが全くもって理解できない。

私にとって読書はコストパフォーマンスの高い時間潰しという位置付けである。今週末の休みは読書をしようとか、読書をするためにやることを早めに済ませようとか、絶対にありえない。それは単純に読書よりもやりたいことがあるし、面倒くさがりであるからという理由に他ならない。

本というのは、通学時間や講義が始まるまでの間などに暇を潰せて、かつ小説であれ新書であれ何かしらの形で自身に還元される、さらに当然ながらスマホの充電も通信量も食わないという素晴らしい媒体であると個人的には感じている。
通学中や講義中はずっとTikTokを見ている大学生が、決してTikTokを趣味とは言わないのとなんら変わりのない位置付けである。

そして読書をしない人たちによる読書崇拝もよくわからない。借りて/買って、開いて、文字を認識すればそれは読書である。なんなら最近は、本を聴くという形の読書だって存在する。多くの人にとってこの行為は決して、し難いものではないはずではなかろうか。

思うに、小中高という学校教育の過程において、「読書は強制されるもの」という価値観が根付いてしまっている場合があるのではないか。朝読書、読書感想文の宿題、定期試験や受験など、学校教育過程において強制される「本/文章を読む」という行為には苦痛を伴っていることもある。
本を読みたくない朝だってあるのに、1ヶ月に1冊が精一杯だというのに、作者の気持ちなんて捉え方は自由なのに、といった具合に。
こうした過程を経ると、大袈裟だが「読書=強制された苦痛」という価値観が形成されかねないのかもしれない。視野が狭く、決めつけがちな少年期・青年期ではなおさらそのような傾向は強まる可能性もある。
皮肉なことに、視野を広めて多様な価値観を得られるのもまた読書の醍醐味である。


読書に対する考えは様々であるとは思うが、現在の私には本について議論できるような人はほぼいない状態であるため、周りの人を含め多くの人が手軽な暇潰しとして読書に馴染んでくれるに越したことはない。

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