見出し画像

【短編小説】離れるということ

「こんなことなら、出会わなきゃよかったね。」
今にもこぼれそうなものを瞳いっぱいに溜めて、彼女は微笑んだ。さよならの玄関で。

-r-
「あなた、あの子と付き合ってるの?」
少し冷ややかな感じで鯵の南蛮漬けに南という高知のお酒が出された。カウンターの向こう側に戻った洋子さんは、片腕を組んで尖った口先に煙草を加え煙を吐いている。自分で注いだ御猪口の中で小さな波紋が出来て僕は静かに眺めるしかなかった。
「最近、あの子とよく来るじゃない。知ってるの?あんたにバツがついてることも、子がいることも。」
煙は換気扇の方向へと消えていく。
「ええ、知っています。」
「結婚なんて考えちゃないでしょ。別れるならとっとと別れなさい、あの子の将来を潰すんじゃないよ。」
「別れたら、当分ここにも来れませんね。」
煙草がはさまれた指がそのまま僕の視線と同じ位置に並んだ。吐く息とともに大きな煙がでて、僕を見ながら笑った。
「少なくとも1年は出禁ね、特別にピノ開けるわよ。」
「いただきます。」

-m-
彼とはじめて会った思い出の場所。大好きな場所だったのに、少し足が遠のいた。別れて半年ほどが経った。仕事ばかりに打ち込んでいたけど、その仕事でも躓いた。ぼろぼろになる前に。久しぶりに扉を開ける。
「いらっしゃい。」
「1人ですけど、大丈夫ですか?」
「どうぞ。」
相変わらず、煙草を指に挟んで片腕を組んでいる。吐く息でママの顔が白くかすむ、それがやけに色っぽい。
「久しぶりね。」
ママは箸置きに並べて、ちょうどいい温度のおしぼりを渡した。この所業は変わらない。
「今日は飲みます。」
「神石高原の新酒きてるわ、前飲んだでしょ?おいしいって言ってたから。」
自分で注ぐ。波紋が出来た。水切りをした後にできた波紋を見るのが好きだと言った彼の横顔が浮かんだ。
「おいしいですね。最近、あの人来てますか?」
ママは目を瞑って、横に首を振った。
「ここにも来てないんですね。」
ママは、自分で調合したウィスキーを口に含んで笑った。
「優しいのよ、彼は。」
「別れたら一緒に外で飲んだりすることもできなくなっちゃうんですね。」
「馬鹿ね。別れたんなら未練を持たせるような優しさは残酷なだけ。あなたの時間を奪うような男は、あなたの幸せなんか願ってないよ。物理的にも精神的にもちゃんと離れることができる男なんてそういないわ。だからあんたも、ちゃんと離れると決断した彼のやさしさを受け入れなさい。」
「都合のいい女で終わっちゃいました。」
煙草を持った手を降ろし、灰皿に押し付けて火を消した。一呼吸してママの目が私をとらえた。
「だからあんたは馬鹿なのよ。いい?都合のいい女なんて、自分で言ってどうすんの?自分で自分の評価下げているようなもんよ。男の理性を失ってしまうほど魅力的な女性だった。だからあの人も、惚れたのよ。少なくとも、彼があなたとここに来た数か月は、この数年で一番楽しそうだったわ。見返しなさい、きれいになって賢くなって。それがあなたにできることよ。」
背負いこんだ重い荷物が降ろされて凝り固まっていたものがほぐれた気分になった。
「わかりました、今日は飲んで食べます。」

-y-
>>出禁を解除します、来週木曜日、新しいピノが入っています。よかったら。

木枯らしの舞う季節で、バーバリーのコートに身を包んでやって来た。この店に来るのは2年と少し経った木曜日だった。
「ご無沙汰しております。」
「どうぞ。」
温かいおしぼりを渡して箸置きを置いた。
「変わらないわね。」
「洋子さんこそ。」
「ピノでいいかしら?」
「はい、もちろん。洋子さんも一緒に。」
男の向こうでアラジンストーブの炎がゆらめいている。
「どうぞ。」
脚の長いスタイルで飲み口の薄さやガラスの質感までハイクオリティの木村硝子。男がこの店の周年に贈ってきたグラスに特別なピノを注いだ。
「出禁解除に乾杯ですかね。」
「違うわよ、彼女の門出に乾杯。」
一口含んでフルーティーな余韻を感じた。
「門出ですか?」と男が尋ねる。
「ええ、もうこの町にはいないわ。このピノは彼女からもたったのよ。あなたが来たら一緒に飲んでくださいって。これも預かったわ。」
白い上品なミタント紙の封筒にワインレッドのシーリングスタンプ。裏にはmの文字。
「最後のラブレターだそうよ。年を越して春にはお母さんになるみたい。」

-r-
彼女の文字をたどる。流麗な文字は、僕との思い出が事細かく書かれている。最後冷たくあたった1カ月のことはなにも書かれていない。楽しい思い出だけが記されていた。最後の一行で僕は胸のつかえが下りた。

“あなたに出会えてよかった”

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?