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【対話体短編小説】隠微

「本はね、私の知らない世界を教えてくれるの。」

「その世界に入り込めるの?」

「入り込むときもあれば、客観的に眺めているときもある。」

「僕はあまり読まないから。その感覚分からないな。」

「病院の先生って忙しいでしょ?人の生命に関わっているんだもの。働く規定の時間なんてあってないようなものじゃない。」

「そうだね。」

「そう、だから。そういうことは、小説を読んで自分に言い聞かせるの。家族や恋人とも十分な時間が作れない、そんなのは当たり前なんだって。そういう世界で生きている人なんだって。すごい人なんだって。そうやって小説に逃げるの。現実と向き合うと、不安に押しつぶされそうになるから。こういう人もいる、こういう世界で生きている人もいる。今はただ忙しいだけ、ちゃんと迎えに来てくれる、ちゃんと会いにきてくれる。そうやって言い聞かせるの。だから本を読むの。こういう世界で働いているんだって知れば、考え方や捉え方も変わってくるでしょ。愛し方だって人それぞれだもの。」

「それは僕の話?」

「そう、あなたの話。」

「いじめないでよ。」

「小説の中の先生はね、ほんとうに大変そうなの。目の前の患者さんに一生懸命だから。」

「僕をその先生とリンクさせてるんだね。」

「そうね、あなたも家族や恋人より目の前の患者を優先する身分だとは承知している。」

「それって私と仕事どっちが大切なの?って言ってるみたいだよ。」

「天秤が違うんでしょ?」

「そう、違うんだよ。」

「前にも聞いたわ。」

「前にも言ってきたからだよ。」

「今日は珍しく長くお喋りをするわね。いつもはすぐに眠ってしまうのに。」

「僕は意外とこういう時間が好きだったりするんだよ」

「そう、知らなかった。」

「そんなことは小説に描いてないだろ?」

「そうね、描いてなかった。」

「君はたくさん言葉を知っている割に、口にする言葉はぼんやりしてる。」

「ぼんやりさせてるのよ。」

「そうやって生きてきたの?」

「そういう風にしか生きてこれなかったのよ。」

「言ってごらん。」

「言ったって叶わないわ。」

「そんなの分からないよ。」

「今年のクリスマスは雪が降るらしいわ。」

「そう、積もるのかな?」

「さあ、分からない。でもとても冷えると思う。」

「それで?」

「それだけ。」

「それだけ?」

「そう、それだけ。」

君の腕の中で眠る。ぼんやりした言葉は、君のぬくもりで雪解け水のように消えていった。

雪が降り、今年も彼は病院の中でクリスマスを過ごす。また私は小説の中だけで会えない君に恋をする。来年は一緒に過ごせたらいいな。声にならない言葉を心の中でつぶやいた。

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