生きるスタンス

死んだらどうなると思いますか?

どうやって生きるか、そのスタンスを決めてるのは死に対する考え方かもしれない。そう感じた一冊が、高村友也氏の著書『存在消滅 死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』だった。著者のことはこれまで知らなかったが、雑木林に土地を買って、自作で小屋を建てて独りで暮らした経験を持ち、それが著書にもなっている。

本著の主題は、「死後に訪れる永遠の無に対する恐怖」として要約できるだろうか。死後の世界については、幼少期から不定期に恐怖を感じることがあり、無を想像すると不安が襲ってくるという経験は度々あった。永遠の無という概念についても考えたことはあり、夜中に恐怖のあまり叫びそうになったこともある。数回ほどは実際声を出していたし、そういう時はこれ以上考えると戻ってこれなくなるような意識の混濁が生じていた。一方で、常に死のことを考えているかと言えば、人生のその時々のイベントに追われて、考えずに過ごしている時間も存外に多い。ここは著者とは大きく異なる部分ではある。

最近は殆ど、無や死のことを考えなくなった。その理由はある程度は説明できて、論理的な観点と感情的な観点がある。

論理的な観点では、量子科学と、脳科学の考えを取り入れたことにある。量子の世界では確率、関係性、観察などが存在に大きな影響を与え、時間の非連続性についての概念も出てくる。不可逆性を時間以外の観点で説明できるのであれば、少なくとも永遠という概念自体は揺らぐかもしれない。脳科学的な観点からは、人の思考はその人が知覚できることからしか組み立てることが出来ないということ。存在しない感覚に対しては、どのような世界も認知できないから想像も困難である。別次元で見た場合に、三次元世界では不可逆なことが、実は可逆的である可能性もあり、そうなれば意識の再生成という可能性もあるのかもしれない。少なくとも意識については存在を実証できていない。だからこそ、輪廻転生やスピリチュアルな考えが普及している側面もあるように思う。

感情的な観点からは、強制的にでも自分の社会の中での役割を保持しておくこと。人間関係を手放しすぎて、孤独が常態化すると虚無感が増長し、自閉側に傾くことは著者も述べている通りだと感じる。煩わしい関係性も適度に保持しておく方が孤独は回避できる。その中で生じる苦については、仏教的なスキルや考えを取り入れることで最小化は出来ることもある。自閉感を緩和しつつも、平穏に過ごせる方法もあるのだろうと最近思ったりはする。ただ、どちらか一方に偏ると極端に居心地が悪くなるので、常に天秤の振り子になっている気分ではあるけれど。

著者は私よりもずっとスケール感大きく、かつ長い時間考え続けているので、その考えや想いを十分理解するのは困難ではある。ただ、このような書籍で救われる人は存外多いように思うし、引き続きその考え方は参考にしていければと思う。

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